検査が始まったのは翌日からだった。再び目隠しをして車椅子に乗せられた矢作は、いったんエレベーターで移動してから医務室に通された。目隠しを取られた矢作は、小さな驚きの声を上げた。

 学校の医務室のような狭い部屋を想像していた。だがそこは、まるで大病院の検査室のようだった。淡いクリーム色の室内は広く、各種の医療器具がぎっしりと揃えられている。デスクの前に座っていたのはひげを蓄えた初老の医師で、その後ろに白衣の男が立っている。看護師なのだろう。正面の壁に据えられたモニターは今まで見たことがないほど大きかった。今はその一部に、個人データらしい数値がいろいろと映し出されていた。室内に窓はない。部屋の奥はカーテンで仕切ることができるベッドがある。

 矢作は、数分前までいた〝ホテルの部屋〟とは雰囲気がまったく違うことに戸惑った。ファントム・プリズンが普通の刑務所ではないことは何度も聞かされていたが、全く全体像がイメージできない。応対する男たちの態度や通される部屋の印象がそのたびに違い、統一感がないのだ。

 昨日の食事もそうだった。5号様のシェフが作ったという料理が運ばれてきたのだ。電子レンジで温めて食べたのだが、矢作には〝豪華〟という言葉しか思い浮かばないフランス料理だった。フォアグラのソテーにはトリュフやキャビアが添えられ、牛のステーキはとろけるように柔らかい――テレビでは見たことがあるが、一生口に入ることはないと思っていた食べ物だ。看守が言った四川料理ではなかったが、どれも味はすばらしかった。ホテルのルームサービスというよりは、予約も取れない超高級専門店の料理に思える。食材も、並みのグレードではないはずだ。それが〝刑務所の食事〟だというのだ。

 そんな刑務所が想像できるはずがない。言葉では説明されていても、体感するたびに不安が高まる。巨象の体を目隠しをされて探っているように、自分の居場所が一つの形にならない。自分がどんな場所にいて、どう振る舞えばいいのか見当もつかない。ただ、自分がいるべき世界ではないことは確かだ。警備も、神経質すぎるほどに行き届いている。そんな場所で〝強盗〟を働けと命じられている。たった一人、危険だらけの未知の世界に放り出されている――。

 救いを求めるように、〝ホテルの部屋〟では独り言を装って〝組織〟との通信を試みた。だが、返事はなかった。神崎は言った。『収監者の元にたどり着くまでは厳しい監視が予想されるので、通信はできない』と。

 こんな場所で何を要求されるのか……。矢作の不安は、もはや恐怖に近いものに変わっている。

 医師が淡々と言った。

「裸になって、そっちのベッドへ」

 不安だが、従う他はなかった。矢作は着替えとして用意されていたジーンズとトレーナーを脱いで、ベッドに横になった。

 医学検査は目視から始まった。全裸の矢作は、白衣の医師に身体中の皮膚をくまなく調べられた。特に性器と肛門の周囲は念入りだった。男娼として検査されているのだから、真っ先に調べるのは感染症――特に性病なのだ。

 医師は、体脂肪がほとんどない筋肉標本のような矢作の身体に触れながら。関心したようにつぶやいた。

「さすが5号様のスタッフだ……いつもながら、すばらしい肉体を選んでくる……。首の後ろに最近できた傷がありますが、これはどうしたのですか?」

 矢作は、うつぶせになったまま答えた。

「『SHINOBI』って知ってるか? それの常連だからね。過激な競技だから、生傷は絶えない。ステージから落ちた時に何かが刺さったんだ」

 神崎からは、素性に関しては一切の嘘をつくなと念を押されていた。ファントム・プリズンには、あらかじめ詳しい身辺捜査の報告が届けられているという。矢作は『SHINOBIプレイヤーの矢作直也』本人として、ここに送り込まれている。さっきモニターに映っていたデータは、あちこちから集めた矢作のものかもしれなかった。

 触診を終えて生成りのガウンを着た矢作は、看護師に血液と尿を採取された。検体はその場で看護師が検査室に持っていった。

 医師が質問する。

「次は全身MRI装置での検査になります。コンタクトレンズ、入れ歯やペースメーカーのような物を体内に入れていませんか? MRIは強力な磁力を発生しますので、磁性体金属が体内に入っていると急激に加熱されたりして、事故に繋がる恐れがあります。検査中は私がこのコンピュータを使って、リアルタイムで画像をチェックしています。万一の事故が起こっても万全の対処ができますので、ご心配なさらずに」

 医学検査の中には、MRI装置での走査が含まれていたのだ。その装置が数億円もすることは、一般的な知識として知っていた。常に磁場を発生させていなければならず、いったん完全に電源を切ると再起動まで一ヶ月かかると聞いた記憶もある。刑務所なら、ひっきりなしに患者が来ることもないだろう。数少ない収監者のために無駄な電力を消費し続けているのだ。

 この施設では金に糸目をつけずに、大病院並みの設備が維持されているわけだ。収監者がVIPなら、当然なのかもしれない。だがそれは、矢作自身も体内を徹底的に調べられることを意味する。

「ありません」

 矢作は、そう答えるしかなかった。『何があっても、抵抗しないで検査を受けろと』も命令されていたのだ。後頭部に通信機を仕込んでいることは、絶対に話せない。組織は裏切れない。裏切れば子供たちが危ない。

 だが、MRIで調べられれば隠し通すことなどできない。黙って通信機を持ち込もうとしたことが暴かれれば、矢作自身が危なくなる。〝強盗〟を企んでいると疑われれば、二度と元の世界に戻れないかもしれない……。

 どう対処すればいいのか……?

 どうすれば検査をごまかせる……?

 矢作は焦った。〝組織〟は、ここまで詳しい検査をされることまでは予測しなかったのか? だが、通信を傍受しているなら今の会話も聞いているはずだ。ならば、どう対処すればいいか連絡してくるはずだ。

 矢作は神崎からの命令を待った。しかし、やはり〝声〟はない。神崎は、言葉通りに通信を制限しようというのか?

 だが、今は緊急事態だ。この状態でMRIに入れば、何が起きるか分からない。体内で機器が爆発でもすれば、矢作の命を奪うかもしれない。身体には影響がなくても、おそらく通信機は磁場の影響で機能を失う。通信機が無事でも、MRIの画像からは隠せない。矢作の正体が暴かれる。

 これ以上は先に進めない。どのみち、計画は破綻する。それなのに、指示はない。

 矢作は気づいた。〝組織〟はMRIのことを知って、計画を放棄した可能性がある。自分は切り捨てられたのかもしれない、と……。

 今、自ら通信機の存在を知らせるべきなのか……?

 そうすれば、この場での危険は避けられる。だが、なぜ、誰に通信機を仕込まれたのかを隠しておくことはできない。〝組織〟の存在を明かせば、施設内の〝内通者〟が通報する恐れがある。矢作の裏切りを〝組織〟が知れば、息子たちの命が危険に晒される。

 一方、このまま矢作が口をつぐんでいれば――。

 それは、この〝犯罪〟から自由になれることを意味する。計画の破綻は、矢作が原因ではない。組織の情報収集力が劣っていたからにすぎない。ならば、自分は解放される可能性がひろがる。逆に、組織の秘密を知った矢作が〝処分〟される恐れがあることも否定できない。だが、どちらにしても息子たちには危険は及ばない。大金を残すことは叶わなくても、家族が未来を失うことまではない。

 矢作は覚悟を決めて、穏やかに微笑んだ。たとえ自分はMRIの中で死んでも、息子が救われるならそれで構わない。どうせ矢作自身の人生は終わっている。ならば、かろうじて残っている〝生きた証〟を、命を捨てても守り抜くべきだ。たとえ、息子たちがそれを知ることはなくとも――。

 矢作は診察室の隣の部屋に通された。分厚い金属製のドアををくぐった先は、さらに広い部屋だ。その中に、巨大な白いドーナツを立てたような形の大きな機械が据えられていた。その穴に差し込まれるように、ベッドが置かれている。

 矢作はそのベッドの横たえられた。身体は太いベルトで固定され、耳にはヘッドフォンがはめられた。ヘッドフォンの中にはクラシック音楽が流れている。手に、何かを握らされる感触があった。

 矢作は、内心で冷や汗を流していた。MRIが動き出せば、何が起きるか予測できない。もしもここで死ぬのなら、一気に殺してほしいものだ――と祈るしかなかった。

 MRI室からオペレーターが去り、金属の扉が閉じられた。すぐにヘッドフォンに声が聞こえる。

「大きな音がしますけど、心配ありませんからね。苦しくなったり身体に異変を感じたら、手に握ったボタンを押してくださいね。では、機械を動かしますね――」

 機械の動作音が始まる。ガッ、ガッという激しい音で身体が揺さぶられるような気分だった。矢作は首筋に神経を集中した。

 何かが動く気配はないか――?

 急激な温度の上昇はないか――?

 体内で通信機が破壊されれば、何が起きるか分からない。発火や爆発があれば、骨や神経が分断される恐れもある――。

 だが、何も感じなかった。

 矢作が横たわったベッドが、ゆっくりとMRI装置の中に送り込まれていく。通信機が仕込まれた首筋が、装置の中心に近づく……。

 矢作は息を殺して衝撃に備えた。心臓が激しく、早く鼓動する。通信機が破壊されるなら、今だ――。

 だが、異常はない。通信機が体内で動く気配はない。熱も感じない。

 矢作はそのまま装置の奥へと送り込まれていく。当面の危機は去ったのだ。通信機は、磁場の影響を受けないように作られていたようだった。それでも、通信機自体が破壊された可能性はある。コンピュータが解析する画像には異物がはっきり映っているだろう。小さな血管の詰まりさえ発見するMRI装置が、小指の先ほどもある人工的な機器を感知しないはずがない。装置の操作だけを行うオペレータだけなら見逃すこともあるかもしれない。だが、その横では収監者の健康管理を任されたプロの医師が、リアルタイムで送られてくる画像を注視しているのだ。通信機はすでに発見されていると考えるしかなかった。

 矢作は、これで〝組織〟から解放されるのだ。その後の生死は定かではないが――。

 全身の走査を終えて診察室に戻った矢作は、じっと医師の表情を観察した。医師は、デスクの上のモニターをじっと見つめている。マウスを操作するたびに、白黒でモニターに映された矢作の体の断面が移動していく。横からモニターを覗き込む矢作には、それが自分の体のどの部分を撮影したものか見当がつかない。

 医師はゆっくりと、詳細にその画面をチェックしていった。しかし、画像に異変を発見した気配はない。数分後、医師は何事もなかったかのように言った。

「次はPET/CTでの検査になります。微量の放射線を用いますが、基本的に人体には影響はありません――」

 医師は細かい注意点を説明したが、矢作の頭には届かなかった。なぜ、通信機が発見されなかったのか――その疑問でいっぱいだった。そして、答えに思い当たった。考えられる理由は一つ。組織へ情報を流しているのは、この医師だ。

 それは同時に、矢作が次の段階へ送り込まれることを意味した。やはり〝組織〟からは逃れられないのだ。

 落胆した矢作の耳に、医師の声が聞こえた。

「――しかしすばらしい身体だ。外見ばかりではなく、体内も美しい。これほど健康な身体は久しぶりに見せてもらった――」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る