タワー2の備品庫の窓ガラスを破壊した神崎は、タワー1の壁面に張り付いた二人を息を詰めて見守っていた。

 二人の身体がわずかに下がった瞬間は、手摺とともに落下することを覚悟した。それは、作戦が根本から瓦解する危険を意味する。それを救ったのは、矢作の身体能力だった。

 神崎は、矢作のアスリートとしてのポテンシャルの高さに感謝した。

 神崎には信じ難いことだったが、彼らは垂直に聳えるタワーの壁を這い上がっていった。平らにしか見えない壁面のわずかな突起を手掛かりに、じりじりと登っていく。彼らがペントハウスに戻るまで、次の手は打てない。待つしかないのだ。

 神崎は、ペントハウスのテラスから5階下にいた。備品庫の兵器区だ。転落防止のために換気程度しか開かない窓を小銃で撃ち砕き、次の一手の準備を終えていたのだ。

 傍らが準備したのは、救命索発射銃――『レスキューマックス』と呼ばれる装置だった。兵器ではなく、消防や警察で使用されている民生品だ。ペットボトルロケットのように圧搾空気を噴出する容器が、150メートルもの長さのロープを曳航する。ビル火災などの際に隣からロープを張れるように、容器の先端には鍵状のフックがついている。タワー1のペントハウスに打ち込み、二人をタワー2に移動させる作戦だ。

 しかし、レスキューマックスの命中精度は必ずしも高くはない。しかも神崎には救命索を発射した経験がない。その上、二つのタワーの間には強い風が吹いている。今発射すれば、タワーを登る二人の背中を直撃する危険があった。

 残り時間は少ない。タワー2のドアをすべてロックし、非番の隊員は居室に封じ込めた。エレベーターも停止させている。活動中の隊員もすべて2階以下のフロアにいて、緊急用の階段に出るドアは開けられない。それらをロックした後、制御室のコンピュータは破壊してきた。隊員がタワーを登る通路は可能な限り塞いだ。

 だが、タワー1の根元ではすでに隊員たちが破壊されたペントハウスを見上げ、よじ登る二人に銃を向ける者もいる。彼らがタワー2へ突入してドアが破られるまで、一〇分ほどの猶予しか期待できないだろう。

 完全武装の上に二本の小銃を抱えた坂本伍長が、備品庫を出ようとする。その目には、覚悟を決めた男の清々しさがにじんでいる。

「自分は下で敵を食い止めます」

 ロックが破られれば、階下の自衛隊員たちが大挙して押し寄せる。館内制御プログラムを破壊したので、エレベーターは動かない。坂本は狭い階段を上がってくる彼らを、たった一人で押し止めようとしている。立場は有利だ。だが、数には敵わない。

 それは、確実に死に直結する。

 振り返った神崎は、小さくうなずいて命じた。朝鮮語だった。

「死ぬことは許さない。捕らえられても構わないから、絶対に死ぬな。可能なら、自衛隊員も殺すな。ここは、祖国とは違う。殺しさえなければ、命までは奪われないかもしれない」

 振り返った坂本の表情が、意外そうに曇る。

「ですが……」

「言いたいことは分かる。私も同じ教育を受けてきた。だから、この無謀な作戦に身を投じた。だが同時に、特殊部隊員として『己の頭で臨機応変に考えて、祖国に報いる最善の手段を探せ』とも教えられてきた。お前も、長い潜伏期間にこの世界の真の姿を学んだはずだ。世界から、祖国がどう見られているか知っているはずだ。だから、考えろ。どうすれば祖国を誇れる国にできるのか、考えろ。どうすれば祖国の人々を安全に、幸せにできるか考えろ。それが軍人の責務だ。だから、死ぬな。これは、命令だ」

 坂本の目から、一筋の涙が流れた。

 神崎には理解できた。その涙は、神崎の涙でもあったのだ。

 祖国やそこへ残った家族への思い、日本で費やす〝終わりが見えない〟時間と苦闘、そして正体が暴かれることへの絶え間ない恐怖――。そのすべては、常に激しい葛藤を伴っていた。

 自分は、祖国を守るために敵地に潜入した。だが、その祖国は果たして正しいのか。守るべき価値があるのか。日本は本当に悪なのか。ただ、国に洗脳されていただけではなかったのか……。

 葛藤は、自衛隊員として過ごす時間が長くなるほど大きく、深く育っていく。揺るぎないと信じていたアイデンティティーが溶けていく。自分がこの世に存在する理由を掴めずに、祖国への忠誠心もかすんでいく。自分はいったい、何のために戦っているのか? 時間を追うごとに、本当の世界を知るごとに、その疑問は膨れ上がった。

 それでも、祖国は裏切れない。裏切ることは、人質に取られたも同然な家族を殺すことを意味する。国家の尖兵として日本に送り込まれた彼らには、他に選べる道などなかったのだ――。

 すべてが重圧だった。その重圧は、この作戦を決行するために――ただそれだけのためにあったのだ。

 坂本が敬礼を返す。日本語で応える。

「お言葉、決して忘れません」

 それは、長い年月の間に染み付いた自衛隊式の敬礼だった。

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