10

 矢作は最上階に身体を上げて、テラスに転がり込んだ。もがきながらハーネスを外す。

 息が切れて、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。しかもハーネスとロープを付けたままの登攀なので、恐怖心は桁外れだった。もしも手摺が落下すれば、その重さと衝撃で壁から引きはがされることが確実だったからだ。だが、二人分の体重がかからなくなった手摺は、それ以上揺らぐことはなかった。

 枠から外れて手摺に倒れ掛かっていた窓は、消えている。爆発で吹き飛ばされたのか、燃え去ったのか……それほど爆発の威力は凄まじかったようだ。手摺は原形をとどめていたが、表面の塗料が融けた痕跡ははっきり残っていた。

 かすかな物音に振り返る。ケイコの指先が、フロアの端を掴んでいた。思った通り、強靭な肉体とバランス感覚の持ち主だ。

 矢作は這い進んで、ケイコに手を差し伸べた。フロアに引き上げると、ケイコはにこりと微笑んだ。

「助けてくれてありがとう」

 ケイコのスーツは汚れ、顔の擦り傷から血がにじんでいる。縛った髪も乱れている。

 矢作は笑い返した。

「有能な秘書には見えないね」

「あなたも、ボコられたヤンキーみたい」

「お互いさまだな」

 矢作の頭の中で神崎が言う。

『ロープを撃ち込む。そこから離れろ』

 矢作はあたりを見渡した。

「どこにいる?」

『タワー2。君たちの正面のタワーの、5階ほど下だ』

 神崎の姿を探す。頂上から10数メートル下の窓に人影があった。割れた窓から身を乗り出し、巨大なライフルのような銃を構えている。先端に三方向に別れた鉤爪が付いていた。

 矢作はケイコに言った。

「ロープを発射してくる! 場所を空けよう!」

 二人はテラスの奥へ回り込んだ。破壊された窓から、ペントハウスの中が見える。内部は真っ黒に焦げていた。中にはまだ熱がこもっている。まるで、葬儀場の火葬炉を覗いたようだ。窓枠の一部は、金属が溶けたように歪んでいる。中にあったはずの男たちの死体も、跡形もない。どこかに吹き飛んだというより、その場で溶けて消えたのではないかという印象だ。

『撃つぞ!』

 神崎の声に続いて、かすかな噴射音が聞こえた。鉤爪を付けたペットボトルほどのロケットが、細いロープを引っ張りながら飛んでくる。ロケットは、正確に室内に飛び込むと天井にぶつかって床を滑っていった。

 ケイコは室内に近づき、床や窓枠の残骸に触れて温度を確かめた。触れられる程度だと確認すると、最も太い窓枠を揺すって強度を調べる。そして足首の辺りに隠していた小さなナイフを取り出すと、部屋に飛び込んだ鉤爪の部分を切って長さ5メートルほどのロープを切り出す。そのロープを口にくわえると、開いた両手でタワー2に繋がるロープを窓枠に三重に巻いて、しっかりと縛り付けた。

「向こうのロープも固定するように連絡して!」

 矢作が伝えるまでもなく、神崎が応える。

『今やっている!』

 ロープがどんどん張られていく。

 その間にケイコは、どこからか二本の鉄パイプを探し出してきた。一本を矢作に手渡す。パイプは、中央付近でわずかに曲がっていた。

 何をすべきかは、すぐに分かった。鉄パイプを握ってロープにぶら下がり、滑降するのだ。タワー2までの距離はおよそ50メートル。高さは30階以上。地上には、矢作に向けて銃を撃ってくる自衛官たちがいる。

 命賭けの〝ステージ〟だ。

 神崎が言った。

『わざと落ちたりするなよ。そんなことをすれば、子供と元嫁をすぐに殺させる』

 聞き飽きた脅迫だ。やはり逃れる道はない。当然、ケイコもすべての事情を知っていてもおかしくはない。神崎が矢作を守るために、そして裏切りを防ぐために送り込んでいたスパイなのだから。命の恩人ではあるが、〝敵〟でもある。

 分かりきっている。だが、それはもはや、矢作にとってもうどうでもいい問題になっていた。大事なのは、目の前に乗り越えるべき障害が立ちはだかっているという現実だ。障害は、打ち倒すべきものだ。避けて通ることなど、矢作には許せない。しかも、この障害を越えれば〝家族〟も救われる。

 もはや、家族のために挑むのではなかった。挑む結果として、彼らが救われるのだ。誰かのため、何かのために、嫌々従うのではない。本能が〝乗り越えろ〟と叫んでいる。これは、矢作自身の戦いだ。

 アドレナリンが再び沸騰し始める。

 ケイコは、切り取ったロープの一端を自分の胴体に縛った。反対側を矢作に巻き付けて縛る。二人は、2メートルほどの長さのロープで結ばれた。

 矢作にはその意味がすぐに分かった。空中でパイプを手離せば、確実に死ねる。自分が死ねば、国を裏切る事はなく、家族も救える――。この状況なら、そう決断する日本人は少なくないだろう。ケイコはそう考え、矢作の〝自殺〟を防止しようとしている。矢作が手を離したら、自分の力で支えようとしている。

 ケイコはまだ、矢作という男の本性を知らなかった。

 目の前に『SHINOBI』以上に困難な障害を突きつけられているのだ。障害から逃げることは屈辱だ。ならば、逃げない。まずは、障害をねじ伏せる。その先は、先に進んでから考えればいい。困難であればあるほど、障害は乗り越えなければならない。

 そう考え、行動するのが、矢作だった。

「やるさ。やり遂げてみせるさ」

 成功する自信はある。子供たちを救うために、成功しなければならない。決して国を裏切りたい訳ではない。だが、息子を失うぐらいなら、あえて汚名を受け入れる。すで覚悟は決めている。

 ロープが、ピンと張られた。矢作は不安定になっていた手摺を蹴った。一部が壊れて、落下していく。その下では、数十人の自衛官たちが動き回っていた。

 彼らに時間を与えれば、必ず攻撃してくる。この場を乗り切るチャンスは、今だけだ。

 矢作は両腕の間にロープを挟んで、鉄パイプの両端を握りしめた。背後を見る。ケイコも同じ体勢で鉄パイプを握っている。

「準備はいいか?」

「はい」

「行くぞ!」

 テラスを蹴り出すと、ロープががくんと下がる。同時に、正面のタワーに向かってパイプが滑り始める。一瞬、ケイコに結んだロープに引っ張られたが、すぐにその感触はなくなった。ケイコも同じスピードで滑り始めたのだ。

 強い風が吹き付ける。二人の体重でピンと張ったロープが、びりびりと細かく振動する。ロープを滑るスピードが上がる。同時に、揺れも激しくなる。上下左右に、身体が振り回される。だが、できるのは鉄パイプを握りしめることだけだ。

 両腕に力を込める。筋肉はすでに悲鳴を上げている。だがそれは、馴染んだ感覚だ。ステージが進むに連れて困難になる『SHINOBI』と戦っている時の感覚だ。巨大な敵に挑む緊迫感だ。

 まぎれもない、喜びだ。

 矢作は自然に雄叫びを上げていた。それは言葉に表すことができない、動物の本能だった。

 下からの攻撃が始まった。絶え間ない銃声が聞こえる。激しく揺れる彼らの周りには、無数の銃弾が飛び交っているらしい。地上150メートルという高さが味方しなければ、あっという間に蜂の巣にされる。矢作は、銃弾が身体にめり込むことを覚悟した。避けたくとも避ける手段はない。ひたすら幸運を願う以外にないのだ。

 いや、一つだけ身を守る方法があった。

 矢作が叫ぶ。

「もっと体を振るぞ! 手を離すな!」

 ケイコの答えに躊躇いはない。

「はい!」

 矢作は体をバウンドさせ、さらに脚を大きく振り回した。直線的に滑走していた二人の体が、上下左右にランダムに大きく弾む。その動きによって逆に火線に飛び込むこともあり得た。だが、狙撃手の腕が確かであればあるほど、その恐れは減る。どちらにしても、賭けなのだ。どうせ賭けるなら、矢作は身を縮めるより〝動く〟ことを選ぶ。

 腕にかかる荷重が急激に増す。その重圧を跳ね返すように、矢作は再び吠えた。狼のようなその咆哮には、全身からほとばしる喜びが混じっていた。

 そして、銃弾は当たらなかった。自衛隊のプロたちでも、ぶれる標的を簡単に射抜ける高さではなかった。

 ロープを滑る速度が急速に弱まるのが分かった。力一杯張ったつもりでも、長いロープは二人の人間がぶら下がればたるむ。ロープの先にはタワー2が見えているが、およそ10メートルほど手前で止まりそうだ。目標が静止すれば、下から打ち抜かれる危険も高まる。

 だが、銃撃は止まっていた。と、矢作の背後からブーンという甲高いエンジン音が聞こえた。巨大な蜂の群れの羽音のようだ。周囲を見回す。だが、音源が分からない。

 ケイコが背後で叫んだ。

「ドローンよ! 偵察用のヘリをぶつけようとしてる!」

 地上の自衛隊員が銃撃を諦めて、機転を利かせたようだ。敵地での偵察装備をリモコン操作に切り替え、攻撃機に転用することを思いついたのだ。

 首を巡らせた矢作の視界を黒い陰が二つ、通り過ぎる。マンホールの蓋ほどの大きさの物体に、小さなローターがいくつか取り付けられている。一機のエンジン音が上空に向かう音がする。落下しながら体当たりされたら、さすがにパイプを手離してしまうかもしれない。

 エンジン音が耳元で大きくなった。矢作は首をすくめて衝撃に備えた。すでに身体は完全に止まっている。強風に吹かれながらロープを挟んだパイプにぶら下がっているだけだ。身を守る方法はない。

 と、タワー2から銃声が聞こえた。連射だ。ロープの先の窓から、小銃を構えた神崎が顔を見せていた。三度目の連射で、音源が一つ消えた。さらに何度か小銃を撃つと、二つ目の偵察機も撃ち落とされる。

 神崎が叫んだ。

「そこから進めるか⁉」

 矢作は笑った。

「軽い!」

 ロープの最も低い位置に到達して、身体は動かない。背中に、ケイコの身体が押し付けられている。

 矢作は懸垂の要領で一気に身体を跳ね上げた。勢いで身体が浮いた瞬間、パイプを手放す。そして身体が落ちる寸前に、両手でロープを握った。

 それは『SHINOBI』の第二ステージ、瞬発的な懸垂を繰り返しながら垂直に並んだフックを登っていく『フィッシュラダー』と同じ攻略法だった。横のケイコに言う。

「できるか?」

「当然!」

 ケイコは同じやり方で軽々とパイプをロープに握り替えた。

 矢作は再びゆっくりとした懸垂で身体を持ち上げ、ロープに脚を絡めた。腕の負担が一気に軽くなる。ロープをたぐり寄せながら、タワーににじり寄っていく。

 タワーの壁に、時々火花が散った。耳元をかすめていく風切り音も聞こえる。銃弾だ。下からの銃撃が再開されたのだ。精度も先ほどより高まっている。当たるのは時間の問題だ――。

 神崎が叫ぶ。

「急げ!」

「分かってる!」

 ロープをたぐるスピードを速める。腕の筋肉はすでに破裂しそうに張っていたが、全く気にならない。窓から差し出された神崎の手を握って引き寄せられると、窓の中に転げ込む。すぐに、ケイコに手を貸した。

 神崎がほっとしたように言った。

「我々のレンジャーよりはるかに優秀だな」

「オールスターズだからな」

 だが、ケイコは肩の近くを押さえていた。手のひらに、血がにじんでいる。

 矢作が叫ぶ。

「撃たれたのか⁉」

「偵察機のローターが当たったの。骨は無事だし、皮膚が切れただけ」

 矢作は絶句した。

 腕を切り裂かれて出血しながら、矢作と同じステージを無事にこなしたのだ。並の精神力ではない。

 神崎が迷彩色のポーチを渡す。

「治療器具が入っている。出血を止めなさい。厳しいのはこれからだ」

 矢作は、第三ステージの入り口に立ったにすぎなかったのだ。

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