室内には、まだ薄い靄のようなガスが立ちこめていた。5号様の部屋と同じ雰囲気の、白を基調にした明るい居間だ。〝敵〟の気配はない。

 黒服たちが警戒を強めながら、しかし素早く室内に突入し、散開する。

 腕を撃たれた一人は、ケイコとの間に矢作を挟んでエスコートした。ケイコの手には、料理人から奪ったナイフが握られている。ドアをくぐる。かすかに、薬品のような刺激臭が鼻を突く。だが、黒服たちは意に介していなかった。神崎の言うように、ガスは人体には影響がないまでに薄まっているようだ。

 顔面にナイフを突き立てられて死んだ執事の他に、倒れている者は見えない。ガスが催眠性なのか致死性なのかも、矢作には分からない。恐怖心が高まる。それでも、彼らに付き従う以外の選択肢はなかった。

 先頭の黒服が、あたりの気配に注意を向けながら執事の死体からナイフを抜く。

 執事が握っていた改造銃は、真っ先に突入した黒服が奪っている。

 居間の横から声がする。

「北側、クリア」

 反対側も呼応する。

「南側、クリア」

 このフロアに〝敵〟は残っていないようだった。部屋の構成は、5号様の居間と同じようだ。ならば、螺旋階段を封鎖すれば、上下階からの〝敵〟を封じ込められる。だが、この部屋にも監視カメラがあるなら、〝敵〟にこちらの動きを見られているはずだ。

 しかし、黒服たちの動きは止まらない。無言だが、互いで指先でサインを送り合って連携をとっている。先頭の黒服が改造銃を突き出しながら螺旋階段を早足で上っていった。警戒はしているが、急いでいる。一気に決着を付けたいのだ。時間が限られているようだ。

 同時に階段の上から銃声が轟いた。銃弾が黒服の喉を抉り、その身体を後ろに吹き飛ばした。黒服が螺旋階段を転がり落ちる。

 ケイコたちが矢作の前に出た。自ら盾になって矢作を守ろうとしている。南側から黒服が飛び出す。仲間が落とした改造銃を素早く拾うと、螺旋階段に向けて身体を投げ出し、転がりながら銃を撃つ。

 階段の上から、銃が滑り落ちてきた。続いて、顔面を砕かれた執事がゴロゴロと転がってくる。銃を持った黒服はすぐに体勢を立て直すと、二つの死体をまたぎながら階段の上へ突入していく。

 矢作を守っていた黒服がケイコに命じる。

「二人で上へ」

 うなずいたケイコが矢作の腕を取って階段へ向かう。

 命じた黒服は落ちた銃を拾い上げ、身を翻して螺旋階段の下へ向かう。もう一人の黒服が戻ると、彼に命じた。

「ここは俺が抑える。お前も上へ」

 黒服は、階段を上っていく矢作たちを追った。同時に、階上から二発の銃声が起きる。

「急げ!」

 階段の登り口では、矢作が銃声に首をすくめていた。だが、ケイコに守られた矢作は傷を負ってはいない。先行した黒服が発砲したのだ。

 矢作は、放心したようにじっと外を見つめていた。銃声には緊張していたが、180度広がる景色から目が離せない。

 壮大な風景が〝映し出されて〟いた。

 周囲を覆う山々と一面緑に染まった森林、そして足元の広々とした芝生を見下ろす。目に前には、細長いビルが一本だけ聳えている。3、40階はありそうな建物で、まるで太いロウソクを立てたような姿だ。どの部屋も大きな窓に覆われ、太陽の光を反射して輝いている。

 この部屋は、そのビルの頂上と同じ高さから周囲を俯瞰していた。5号様の部屋で映し出せる〝風景〟は残らず見たが、これと同じものはなかった。なにより、建物の〝高さ〟を感じさせる映像は一つもなかった。

 小高い山は針葉樹らしい木々に覆われていたが、川が流れたように広い幅で森林が切られている。その伐採跡は、刃物で切りつけたように直線的だ。伐採跡に沿って何本もの鉄柱が立ち、ワイヤーが渡されている。

 矢作は、そこがスキー場だと気づいた。草が生え放題になっているゲレンデに、目の前のビルから長い影が伸びていた。そしてその横には、もう一本の陰がある。二本のタワーが並んで建っているのだ。

 矢作は不意に走り出して、突き当たりに両手をついた。5号様の部屋では、ビデオ画像を流していた〝壁〟だ。だが――。

「違う! これは映像じゃない! 窓だ! この部屋は外が見えるんだ!」

 部屋の明るさは、本物の窓から差し込む太陽の光によるものだ。壁全体に大きな窓が連なっていて周囲が見回せる。窓の外には回廊状のベランダがあり、頑丈そうな高い手摺で囲まれていた。

 神崎の声が響いた。

『そうだ。そこはタワー1の最上階だ。元は展望レストランだったが、VIP用に改造した。早く〝標的〟の元へ向かえ。我々はタワー2の地下管制室を占拠している。ここから指示を送る』

 振り返ると、背後は一面の壁だった。この階はドーナツ型のフロアを半円状に仕切っている。壁の中央は、エレベーターホールに当たるはずだ。だが、ドアはない。5号様のプラベートフロアでもそこは壁で、出入り口はなかった。この〝監房〟も同様で、出入り口は矢作たちが侵入した一ヶ所だけらしい。

 ドアはずっと右の、外壁近くに付いていた。開いている。銃声は、そこから聞こえたようだ。

 矢作はそのドアへ向かう黒服の後を追った。

 中に入ると、二人が倒れているのが見えた。互いに改造銃を持っている。突入した黒服と執事が相打ちになったのだ。黒服が、毛足の長いウールのカーペットに広がる血溜まりの中でもがいている。床でもがく二人を、ソファーに座った太った男が見下ろしていた。

 黒服が男の首を片手で掴み、顔を上げさせた。あっと息を呑む声が聞こえた。

 矢作でさえ知っている顔だった。数年前はひっきりなしにテレビのニュースで映されていた。

 中国の内乱が激化する直前に行方が分からなくなった、元中国共産党のトップである総書記、国家主席の周金幣だった――。

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