〝標的〟は、ペントハウスに設置した監視モニターでエレベーターホールの激闘を凝視していた。息をする余裕もない。選りすぐった部下たちが、次々に倒されていく……。

 襲ってきた者たちもまた、彼らを凌ぐ殺人のプロだ。

 堅固な障壁だったはずのドアも、すでに破られている。

 それは、コントロールセンターが〝敵〟に占拠されたことを意味する。仕掛けてきた戦闘員は明らかに自衛隊員だ。今の今まで自分を守るために存在していた〝兵士〟たちだ。

〝標的〟は、己の油断を悔やまずにはいられなかった。日本という国家が自分に牙を剥くとは一瞬たりとも考えた事はなかった。それは、日本がアメリカ合衆国に叛逆することと同義だからだ。

 日本にできるはずがない――はずだった。

〝標的〟が最初に保護を求めたのは、今なお最も強いパワーを誇る国家――アメリカ合衆国に対してだ。祖国である中華人民共和国の崩壊に備えて、財産と家族はいち早く〝避難〟させていた。家族はもはや合衆国の国民と言ってもいいほどだ。〝標的〟自身も万一の事態に備え、移住を容易にさせるに足る財産を移転し、あらかじめ基盤を築いていた。

 恐れは的中した。祖国の経済は元の暴落が引き金になって溶解し、暴動が抑えきれずに無法状態と化した。しかも〝標的〟が江沢民派の牙城であったウォール街に対抗してEUとの連携を深めていたことが、逆にヨーロッパの没落を加速させた。党の崩壊が避けられない奔流になったとき、幹部たちはすでに蜘蛛の子を散らすように国外へ逃亡していたが、〝標的〟もまた合衆国に保護を求めるしかなかったのだ。

 だが、合衆国は中国の分裂を認めなかった。中国の内乱が合衆国の経済に波及しないように、関係をできる限り遮断したのだ。合衆国大統領は今も、中部戦区が〝正式な中国政府〟だと表明し続けている。

 だがそれは、中部戦区から〝標的〟たちの拘束と送還を求められれば拒否できないというジレンマを生む。要求に従って〝標的〟の身柄を送り返せば、その資産までも返還しなければならない。分裂した中国の一戦区に資本を還流させれば、危ういバランスが崩れて世界経済に致命的なダメージを与えかねない。

 しかも中国共産党から流出した〝標的〟たちの財産は、すでに世界の経済を駆動する〝燃料〟となっている。もはや〝手放せない資金〟と化していたのだ。合衆国にとって有利になるように中共資金の管理体制を固めた後でなければ、〝標的〟本人を殺す事もできない。証人保護プログラムなどを駆使して〝標的〟を匿う他に方法はなかった。

 一方で、中国が張り巡らせた官民ネットワークは合衆国の隅々にまで根を伸ばし、膨大な情報収集力を持つ。その追及をかわして〝標的〟を隠し切るのは容易ではない。そもそも、合衆国内に〝標的〟を隠していたことが露呈すれば、軍事衝突の火種にさえなりかねない。

 窮地に追い込まれた合衆国は、〝標的〟を一時的にこの世から消滅させる〝イリュージョン〟を企てた。〝イリュージョン〟の抜け道として選ばれた収容先が、同盟国・日本のファントム・プリズンだった。

〝標的〟は様々な国で無数の経済犯罪を犯している。日本国内でもいくつかの直営企業群が脱税事件を起こしていた。通常であれば重加算税を支払うだけで、逮捕まではされない案件だ。にもかかわらず、〝標的〟は企業群の最終的な統括者として株主から刑事告訴され、地裁で実刑を言い渡された。そして、上告もせずに早々と罪が確定したのだ。世界的には一切報道されない、砂粒のような〝微細な経済犯罪〟だった。そして〝標的〟は日米犯罪人引渡し条約の下に密かに日本に移送され、ファントム・プリズンに収監された。

 この世から姿を消したのだった。

〝中国政府〟は必死に〝標的〟の行き先を追い続けたが、その情報が漏れるまでは数週間を要した。行き先が日本だと判明した時には、〝標的〟はすでに自衛隊から手厚い警護を受けていた。自衛隊幹部にさえ、その〝正体〟が明かされぬままに――。

 一連の工作は、合衆国からの強力な要請の下に行われた。日本は、同盟国の依頼を引き受けたに過ぎない。その日本が、進んで約束を反古にすることはあり得なかった。

 合衆国は、今後の東アジアが情勢がどう転がっていくか固唾を呑んで見守っている。その展開を制御する駒として〝標的〟を利用することも想定している。情勢が読めない段階で〝標的〟を手放すことは、自らの腕を縛ることに等しい。何があろうと〝中国政府〟には渡せない。それは、日本も同じだ。いや、日本にとってこそ、混沌を極める中国と対峙するために最も重要な〝武器〟になる可能性を秘めていた。

 だから〝標的〟は、日本政府が自分を裏切ることはないと確信していた。そもそも〝標的〟を害する意図があるなら、このような隠れ家に長期間〝収監〟する理由などないのだ。

〝標的〟は油断による防御力の不足を悔いはしたが、その判断は揺らがなかった。

 敵は日本ではない。襲ってきたのは自衛隊ではあり得ない。

 ならば、あの〝自衛隊員〟たちは何者なのか……?

 結論は一つしかない。

 あらかじめ自衛隊内部に巣食っていた〝スパイ〟たちだ。これまで日本人に同化し、分散して息を潜めていた〝休眠工作員〟――いわゆる〝スリーパー〟が、〝標的〟の攻略のために一斉に蜂起したのだ。

 ならば、彼らは――。

 北朝鮮以外には考えられない。

 中国共産党の〝核心〟だった〝標的〟は、日本に対する三戦――「世論戦」「心理戦」「法律戦」を統括していた。あらゆる方法を駆使して、日本への浸透を企ててきた。

 政治家や官僚、教育界や法曹界、著名人やマスコミ、左翼系市民団体関係者など、ありとあらゆる有力者に接近し、贈賄やハニートラップで弱みを作り、それを材料に脅迫する――。共産党工作部の常套手段だ。その手法で左翼思想を煽り、軍拡を抑制してきた実績もある。そればかりか、実際に首相や政権の交代も引き起こしてきたのだ。成果は上がらなかったものの、安全保障法案の廃案や、沖縄独立運動にも大きなエネルギーを注いできた。いつの日か漢民族が皇室を乗っ取るための下準備として、母系天皇を容認する世論醸成にも多額の資金を投下していた。

 当然、自衛隊員にも恒常的に接近が図られている。顕著な例は、地方のスナックなどでの中国系ホステスのハニトラだ。自衛隊の情報収集や隊員への脅迫材料の捏造は、国家が売春婦たちに与えた〝崇高な任務〟だ。実際、性に餓えた若い隊員を陥れることは難しくはなかった。重要施設周辺のコンビニのアルバイトに〝地方出身の純朴な中国人少女〟を配置したり、中国国内でエイズに罹患した少女たちを日本の性風俗産業に送り込むルートも確立されている。また大量の帰化人や留学生に国保の資格を取らせて高額の医療負担を強い、福祉財政を破綻に追い込む工作も加速する一方だった。

 それでも、中国人にとっては自衛隊の内部深くに〝スパイ〟を確保することは至難の技だった。自衛隊内にこれほどの組織を構築できるものなら、真っ先に〝標的〟自身が行いたかった。宿敵と定めた日本を、いつの日か内部から腐らせていくために――。

 だがそれは、ついに叶わぬ夢に終わった。

 しかし、朝鮮は違う。

 一時は国際法に則って合法的に併合されて〝日本の一地方〟となった歴史を持ち、言葉も教育も近づいた。男たちは志願して日本兵として参戦し、その戦略や思考法、そして軍規を吸収した。日常の些細な生活習慣まで身に付けた者も多い。戦後は在日朝鮮人として大量に日本に流入し、独自のコミュニティを維持してきた。にもかかわらず日本に同化することを拒み、マスコミや政治に強大な影響力を及ぼしながら、敵国の中で独自の反日教育を進めるという〝離れ業〟まで実現した。世代を重ねるうちに見かけ上の差異は薄まり、来歴は曖昧になり、戸籍を操作すれば日本人を装うことも難しくはなくなった。自衛隊という名の〝日本軍〟に潜伏するスパイとして、これほどのポテンシャルを持つ民族はいない。

〝標的〟自身が、北朝鮮が持つスパイ網から伝えられた情報で政策を決定したことも少なくない。

 だからこそ〝標的〟は、軍の近代化の名の下に7つの軍区を解体して5つの戦区への再編を強行した。朝鮮半島と接する瀋陽軍区が北朝鮮と結びつくことを恐れての決断だった。〝標的〟の軍部支配は、トップの挿げ替えによって成功したように見えた。しかし結局は、国家の崩壊を早めただけだった。旧軍区とはすなわち独立採算制の企業体のようなものに過ぎず、その解体は膨大な数の軍人たちの〝生業〟を奪うことを意味していたからだ。地方に根を張った軍区は一時的に勢力を弱めたものの、影の支配者としてしぶとく生き残った。

〝標的〟は賭けに出た。それまでの集団指導体制――いわゆるチャイナセブンの体制から、トップの一人に権力が集中する〝皇帝制〟を目指したのだ。それは、一向に衰退しない江沢民派の数人をはじめとする対抗勢力を政治の中枢から除去する方策でもあった。そして次世代のリーダーと目された重慶市のトップを粛清することから、あからさまな行動を開始した。

〝狙われた側〟も当然、閑職に追いやられた途端に逮捕や処刑されることを知っている。中国の権力闘争の、それが常識なのだ。だから序列3位の張徳江をはじめとする3人は、5年ごとに行われる共産党大会にも出席せずに、北部戦区に〝籠城〟する挙に出た。そして、中部戦区から送り込まれていた軍トップを公然と抹殺し始めた。戦区の反乱だ。

 困窮する経済と相まって、共産党の求心力は急速に弱まっていった。そして今、祖国中国は多くの戦区に分裂し、内部抗争に力を消耗している。中心にあるのは依然として中部戦区だ。彼らは今でも、核の制御権を手放さず、世界に対して〝唯一の中国〟だと名乗っている。

 その〝北京政府〟に対し、最も鋭く対立してきたのが旧瀋陽軍区だ。歴史的には満州と呼ばれた地域とおおむね一致し、北朝鮮との繋がりが極めて深い。朝鮮戦争をともに戦ったのは、主に彼らなのだ。朝鮮族が多く居住する旧瀋陽軍区の独立志向は、古くから連綿と続いていた。ところが北朝鮮の張成沢一派の粛正以来、中朝は離反を強いられた。だがそれは表向きに過ぎず、軍人の間では瀋陽と北朝鮮の繋がりは消えていなかった。だから彼らは、〝他国〟である北朝鮮の核開発を陰から援助し、いずれはその核を奪取することを目論んだ。その長期にわたる青写真が、中国の内戦と北朝鮮の困窮によって現実化した。北部戦区にはその旧瀋陽軍区を中心に、内モンゴルや飛び地として山東省までが含まれている。結果として兵器生産から強大な海軍力までを備え、北京を三方から取り囲むような構図となってしまったのだ。

 巨大中国の崩壊が避けられなくなると、北部戦区は公然と北朝鮮と一体化に舵を切った。同時にロシアとの密約を推し進めた。すなわち羅津(ナジン)港までは割譲するが、東倉里(トンチャンリ)の核ミサイル基地は死守するという北朝鮮の東西二分化だ。ロシア大統領との密約が、一旦は日本側へと接近した北朝鮮を引き戻す原動力となった。そして今では、自衛隊内のスリーパー組織と核兵器という、二つの強力な武器を掌中に納めるに至った。その自信が、〝標的〟への襲撃として表に現れたのだ。

 その北部戦区が何よりも欲しているのは、国家を運営していく資金だ。

〝標的〟は、共産党が人民から絞り上げた膨大な資金を個人資産として着服している。公職についていた間は、親族を通じてバージン諸島などに設立した会社で巨額の資金を運営していた。〝標的〟は国外逃亡後に、その資金をスイス銀行に集約した。新中国指導者の要求で資産が凍結されることを警戒したからだ。租税回避地のバージン諸島の銀行は小回りが利き、運用には適している。だが、国家や公的機関が行う差し押さえに対しては防御が弱い。対してスイス銀行は、長い歴史とずば抜けた秘匿性と信頼性を誇り、最も安全に資金を保管することができる。

 かつては対立していた幹部たちも、国外へ脱出してからは〝標的〟だけが利用できるその口座の魅力に逆らえず、彼に資金を託すことになった。結果的に秘密口座の残高は爆発的に膨れ上がった。

 その仕組みを指南したのはウォール街の投資ファンドで、実態は江沢民の孫たち――〝紅二代(こうにだい)〟と呼ばれるグローバル資本家たちだ。彼らは生まれながらに、人民を私有財産としかみなさない中共幹部と親和性が高い。そして、共にその資金を元手に利潤を貪り続けていた。〝標的〟のみが引き出せる資金をファンドが運用し、世界の経済を動かす――そのシステムがファントム・プリズンを中心にして確立されていったのだ。

 近年は、いわゆるスイス銀行でも犯罪捜査などの必然性があれば情報提供や口座凍結が行われ、絶対的な安全性は消え去ったともいわれている。ただしそれは、数10億円あれば作れる程度の口座に限られる。所有者は、一般の感覚での〝金持ち〟にすぎない。彼らは、いわば表通りの〝看板〟なのだ。

 どんな世界にも裏口があり、人目には触れない〝裏側〟がある。世界を動かすのは、その〝裏側〟だ。

 その最たるものが、〝標的〟が利用しているスイスのプライベートバンク――厳密な意味で〝個人が所有している〟銀行だった。ジュネーブに拠点を置くプライベートバンカーズ協会の一員であり、十八世紀に創設された名門銀行で、代々ヨーロッパの富裕層や貴族たちの財産管理を任されてきた歴史を誇っている。伝統的なプライベートバンクの常として、すべてはオーナー一族の財産と責任によって運営されている。顧客から預かった資金の運営に失敗すればオーナー自身が破産することから、資産の保全と守秘性には最も高い信頼を置かれているのだ。

 顧客の中のほんの一部は、裏の世界で桁外れの資産を委託している。それぞれが日本の年間予算にも比較される額だ。そんな者たちが世界にどれほどいるのか、どれほどの総額が日々世界を駆け巡っているのか、どんな意志を持って世界をどう動かそうとしているのか――公にされることはない。だが彼らこそが何物に替えても守り抜かなければならない顧客だった。

〝裏側〟の住人は国家指導者や多国籍企業のオーナーたちで、世界を牛耳るほんの一つまみの人々だ。その結束は固い。その固さはすなわち、歴史と伝統の重さだ。いったんその〝サークル〟に加われれば、以後は確実に信頼性を担保される。そうでなければ、銀行は彼らを顧客として囲い続けることはできない。そもそも、プライベートバンクのオーナーたちがその〝ほんの一つまみの人々〟自身なのだから。

 世界は彼らが回す。だから、安全性は絶対だった。

〝標的〟が守る資産は1兆ドル超、日本円で150兆円を軽く越える。プライベートバンクに保管するその資産を、北部戦区は奪いに来たのだ。

 だが、守りは尽くしている。たとえ敵が目前に迫って銃を突き付けようとも、銀行の鍵は開けられない。いったいどんな方法で鉄壁のガードを破ろうというのか――?

〝標的〟の頬には薄笑いがあった。

 資金を守る体制だけは万全だという確信は揺らがない。鉄壁のガードは、破れないから〝鉄壁〟なのだ。

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