14

 戸惑う矢作の頭に、再び声が響く。

『中国の戦闘機が来たわよ! 神崎! 準備は終わった! 詰めの時間だ! ほら、さっさと撃って跳びなさい!』

 と、また機体が大きく揺らぐ。矢作は不意の旋回にバランスを崩して壁に手をついた。

 ケイコが周金幣の身体を押さえつけているのが目に入る。恐怖に目を剥いた周は、震えながら椅子から立ち上がろうともがいていた。

 矢作は混乱していた。〝社長〟からは『神崎とともに海に飛び込め』と命令された。機内から脱出しろというのだ。物理的に危険な賭けだが、問題はそこではない。

 神崎は北朝鮮のスパイだ。機内に残れば、そのまま祖国に帰れる。そのためにこれまで命がけの作戦を行ってきたのではないのか?

〝社長〟もまた、北朝鮮に協力していたのではないのか?

 むろん、矢作は北朝鮮や中国などに連れ去られたくない。矢作にだけ『逃げろ』と命じるならばまだ理解できる。

 だが、二人で逃げる必要がどこにあるのか……?

 疑問が膨れ上がる。神崎はなぜ〝逃げる〟のか?

 北朝鮮のスパイだと暴かれた今、日本に残っても祖国のためにできることなどないだろう。むしろ、マイナスになることばかりだ。闇に葬られるだけならまだいい。最悪の場合はスパイ組織の全容を喋らされるだろう。

〝社長〟は、なぜそんな危険を犯すのか?

 北朝鮮にとって、どんな利益があるというのか?

 不意に気付いた。

〝社長〟が何者かを、矢作は全く知らない。彼女がなぜ神崎に命令できる立場にいるかも分からない。北朝鮮に利益をもたらそうとしているのかもどうかも、定かではない。〝社長〟が中国から送られてきた〝管理者〟だという可能性は高い。だとするなら、中国は北朝鮮を切り捨てようとしているのか? 日本に対して北朝鮮のスパイ組織を暴き出すことが、中国の利益になるというのだろうか? 

 確信が持てる〝事実〟を、矢作は一つも手にしていない。今まで頭の中に出来上がっていた国家間の争いの図式が、激しく揺らぐ。誰がどの国の利益ために危険を冒しているのか、見当がつかない。完成直前だと気を緩めていたジグソーパズルの最後の一ピースが、全く一致しない形をしている……。

 それまでの作業がすべて間違っていた証拠だ。

 あり得ない事態だった。

 大きく開いた後部ランプの先に、再び追手の機体が入った。神崎が機関銃をそのオスプレイに向ける。一瞬もためらわずに、連射を始めた。放たれる銃弾は、光の点線のようになって追手に向かっていく。

 威嚇ではなかった。オスプレイの後部と射線が交差する。同時に、その場所が火を噴いて煙を引く。オスプレイは急速に離れていった。

 迷彩服は、通信機のマイクに向かって何事かを叫んでいた。焦りが見える。必死に本国と連絡を取ろうとしているようだ。

 と、目の前を巨大な影が横切った。まるで、空飛ぶ恐竜のような姿だ。オスプレイではない。過ぎ去った瞬間、衝撃を伴ってジェット噴射の轟音が爆発した。

 矢作の頭の中にまた命令が響いた。

『今だ! 跳べ! 矢作! 神崎に飛びかかれ!』

 神崎が振り返った。こっちへ来い、というように小さく手招きする。やはり神崎にもこの命令が聞こえている。そして、矢作に『従え』と促している。

 少なくとも、神崎は〝社長〟の意図を理解している。彼らは一つの目的の下に行動している。

 理由など分からない。だが矢作は、今まで〝社長〟と神崎に操られていた。その命令に従い続けてきた。息子たちの命を守るために。ならば、ここで逆らう理由はない。従えば、少なくとも北朝鮮や中国に拉致されることはないのだ――。

 考えて分かることではない。そんな知識も情報も持ち合わせていない。決断するしかない。迷いが命取りになることを、矢作は『SHINOBI』から学んでいた。

 矢作は神崎に飛びかかった。神崎は、抵抗した。だが、本気ではない。ケイコや迷彩服が二人の〝争い〟に目を向ける。

 ケイコの視線が一瞬、矢作と絡み合った。

 矢作は、悲しげな眼をしたケイコが『さようなら』とつぶやいたような気がした。

 神崎が矢作の胸元をつかむ。かすかにウインクをした後に、殴り掛かった。矢作は拳を避けるように神崎にしがみつき、転がった。

 神崎は、〝乱闘〟の演技を機内に見せているのだ。

 迷彩服が銃を抜いて矢作に向ける。しかし、激しく揺れる機内の中では狙いを定めることはできない。

 神崎は矢作を掴んだまま開いたままのランプの上で転がる。

 神崎が叫ぶ。

「身体を丸めて頭を抱えろ!」

 そして、自ら空中に転がり出た。矢作も引きずり出される。二人の身体が宙に浮く。

 次の瞬間、二人は海面に叩き付けられた。

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