空音の揺籃 3
そこから先も、母と共に在るたくさんの日々は、途切れ途切れに少しずつ過ぎていく。同じ時を生きる存在がいるということは、随分と椿を孤独から救ってくれるものだった。
椿が普段隠している黒々とした翼は、村人の誰もが持たないものだ。そして椿が進む時間は、村にいる誰とも違う。その事実は、当時の椿を一層孤独な思いにさせた。
しかし、この椿には母がいる。同じ翼をもち、同じ時を生きる、血を分けた家族。椿と同じ赤を宿すその目が、椿への愛情を滲ませて笑ってくれる。
だから椿は、幸せだと思った。例え、いずれ贄として捧げられ、死んでしまうことになると判っていても。それで大好きな母がこれからも生きていけるのなら、それで良いと思えるくらい、幸せだった。死の恐怖がないわけではなく、それはいつもどこかで椿をじっと見据えていたけれど、それも母のためになるのだと思えば耐えられると、そう思って生きてきた。
そして、あの儀式の前夜はやってくる。椿は明日、山の神に贄として捧げられるのだ。
間近に迫れば、待ち受ける確約された死は、やはり恐ろしいものだった。椿は儀式の詳細を教えられてはおらず、その未知が余計に、椿の中に巣食う恐怖心を煽る。ひとりきりの部屋で、薄い布団にくるまり、椿は膝を抱えて蹲っていた。闇の中にちらつく死の影が、椿を眠らせてくれなかった。
だがそのとき、静かな音と共に障子戸が開いて、母が部屋に入ってきた。夜の闇の中では母の表情を窺うことはできなかったが、彼女が張り詰めた空気を纏っていることは、すぐに伝わってきた。
「……椿」
呟くように名を呼んだ母は、椿の元まで歩み寄ると、ぎゅっと我が子の小さな手を握った。
「……お母さん?」
「椿、行きましょう」
「……行く? 行くって、……どこへ?」
「ここ以外の何処へでも。……生贄になんてなることはないわ、私の可愛い椿。さあ、一緒に逃げましょう」
母の言葉に椿は驚き、目を見開く。椿が山の神の贄となることは、とうに決まっていたことだ。それなのにどうして今更、こんな直前にそんなことを言い出すのだろう。逃げるにしたって、いくらでも機会はあったのだから、もっと早く逃げた方が良かったのではないだろうか。
けれどそれらの疑問は、どれも椿の口に上ることはなかった。自分の手を握る母の手から微かな震えを感じ取ってしまった彼は、何も言うことができなかったのだ。
夫の犯した罪の贖罪と愛しい我が子の命とを天秤にかけ、きっと母なりにずっと考え、悩み、そうしてようやく弾き出した結論なのだろう。そう感じた椿が、戸惑いながらも大人しくしていると、行きましょう椿、急がないと、と言って、母は彼の手を引いた。己の中に未だ燻る躊躇いに見て見ぬふりをした椿は、母の手に従って布団から抜け出て、そのまま部屋の外へと出ていく。
椿と母に宛がわれている部屋は元々寒い場所だったが、それでもこうして外気に晒されると、冬の冷え切った空気がしんしんと沁みてくるようで、ふるりと身体が震えた。
外は空が曇っていて、酷く暗い。椿は夜目が利くわけではないから、余計にそう感じられた。もし今繋いでいるこの手を離してしまったら、もう二度と掴むことはできないだろうと、そう思わせるような暗闇だった。
じわじわと侵食してくるように辺りを満たす黒に、ぎゅっと母の手を握り直すと、温かな手が握り返してくれる。それにほっとしながら、椿は引かれるままに村長の家を抜け出した。
家の外の闇は、さらに色濃いものだった。自身と暗闇との境界線がとろけてしまいそうな夜道は、すぐ傍で手を引いてくれている母の姿すら、椿から隠してしまう。そんな中で、母もそう夜目が利くわけではないだろうに、彼女は惑う様子もなく確かな足取りで、先へ先へと進んでいった。
一体何処へ行くのだろう。
僅かな先も見えない、道であるのかすら定かではない道を歩みながら、椿はそう思った。ここ以外の何処へでも、と母は言ったが、何か当てでもあるのだろうか。もう何年もこの村に居て、ここ以外の場所のことなどほとんど知らないはずなのに、やはり母の歩みには、一切の迷いが感じられない。
そこで何故だか突如として、椿の内に大きな胸騒ぎが過ぎった。なんともうまく言えないが、自分が何か大きく間違えてしまっているような、そんな感覚だ。一体それが何に由来するものなのかは判らない。けれど、ざわざわと胸中を騒がせるそれは、気のせいだと切り捨てるには、あまりにもはっきりとそこにいた。
母の姿を覆い隠し、自分さえ見失ってしまいそうなほどに濃い暗闇が、椿の不安を煽り、そう感じさせているだけなのだろうか。けれど、だんだんと内側を占めていく恐れにも似たものは、いつしか椿に、自身の手が繋いでる先が本当に存在しているのかどうかすら疑わせ始めた。
母の声が聞きたい。あの優しい声で名前を呼んでもらえれば、きっとこの得体の知れない不安も晴れるはずだ。
そう思った椿が小さく口を開いたその時、ふと、厚く立ち込めていた雲が割れて、そこから月の光が差した。
思わず空を見上げた椿の足が止まる。どうやら今日は満月であったらしい。うっすらと雲を纏う丸く美しい月から、冴え冴えと柔らかな光が下りて、椿を照らしてくれている。
青白い光を浴びていると、不思議と嫌な不安が静まって、椿の安堵の混じった小さな吐息が、月光に白く輝いた。
「どうしたの、椿」
かけられた声に、椿ははっとして空からそちらへと視線を移す。椿が顔を向けた先で月の光に照らされた母は、困ったような顔で椿を見つめていた。
頭上から受ける柔い光に濃い影を落としている母の顔を見ていると、椿はやはり何かを間違えてしまっているような気がした。相変わらず間違いの正体ははっきりしないものの、それは先程よりももっと強い確信となって、椿の胸に警鐘を鳴らす。
「椿、一体どうしてしまったの? 行きましょう。ほら、急がないと捕まってしまうわ。そこここの闇から、手が伸びてきているでしょう」
立ち止まったまま動かない椿の手を、母が引く。そう言われると、確かに木々の、草むらの、母の、椿自身の、あらゆる影から、凝る暗闇から、椿を捕らえて引きずり込もうとする手の群れが襲ってくるような気がした。それに捕まってしまえば、きっともう何処にも行くことはできない。
その想像はとても恐ろしくて、しかし椿は、再び足を動かし始めるでもなく、もう一度空を見上げた。
椿、と焦れたような母の声が聞こえたが、椿はそちらを見ることなく、ただ答える。
「お母さん、暗いところは全部、あの月が照らしてくださっているから」
だからもう、怖がらなくたっていいのだ。
そう思いながら、空いている方の手を月へと伸ばす。遥か高くに浮かぶ月に手など届くわけがなく、降り注ぐ月光を掴めるはずもないのだけれど。
美しい輝きへと真っ直ぐに伸ばしたそれを、誰かが優しく握ってくれたような気がした。
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