愛縁危縁 2

 二人が椿の住む山里までの道を進む中で交わした会話は多くはなかったが、それでもはっきりと感じるほどに、朧は不思議な人物だった。

 聞けば、もうずっと、特に当てどもなく旅を続けているのだという。一応目的はあって、椿の住む里へもそのために訪れようとしているらしいが、彼の目的の詳しい内容までは教えて貰えなかった。

 その代わりに、朧は己の旅路の中で出会った不思議な話をいくつかしてくれた。道中の慰みに、と言って話してくれたそれらは、里から出たことがない椿には未知のことばかりで、外にはこんなにも沢山の世界が広がっているのか、と椿は感嘆した。

 そうやって朧の話に耳を傾けながら、そう長くはない道のりを進めば、程なくして椿の住む里が見えてきた。

 大きな山の麓にひっそりと佇む、あまり広くはない集落だ。山を流れる川から水を引いて田畑を耕し、小規模ながらも家畜を飼育しつつ、時折山の獣や山菜、魚などを採って暮らす、ごく普通の里である。

 だが朧は、そんな里を物珍しそうな顔をして眺めた。

「とても豊かな土地なんだね」

「え……、そう、でしょうか?」

 貧しい土地だと思ったことはないが、いかんせん椿は他の里を知らない。

「うん。こう言っては失礼かもしれないけれど、里の規模は小さいのに、揃うべきものが全て揃っている。水、土、それに日当たりなんかもかな。これは勝手な憶測だけれど、この里は降った雪が解けるのも早いんじゃないかな」

 朧の言葉に、椿は驚いた顔をして頷いた。

「よくお判りですね。日の当たり方のお陰なのか、田んぼや畑に雪が積もってもすぐに溶けてくれるので、作物に大きな影響がないんです」

「なるほど」

 そう言った朧は、里を裾野に聳える山を見て、少しだけ目を細めたようだった。

 そんな風に里のことをちらほらと話しながら、二人は椿が住む家の前へと辿り着いた。

 屋敷とまではいかないが、集落の中では一番大きなその家屋は、里長の家だった。椿はここで、家事や雑事全般をこなしているのだ。

「朧さんのご用事がどのようなものかは判りませんが、この里のことでしたら、まずは里長様に訊かれるのが良いのではないかと思います」

「うん、ありがとう。でも、まだ結構早い時間なのだけれど、お邪魔してしまっても大丈夫なのかな?」

 洗濯籠を椿に返しつつ、その辺で時間を潰してから出直そうか、と朧が言ったところで、不意に家の戸ががらりと開けられた。

「遅いじゃないか椿! さっさと朝餉の支度を、」

 怒鳴るようにしてそこまで言ったところで、はっとした様子で言葉を止めたのは、初老の女性だった。

 彼女は戸から半分ほど身体を出したまま、訝し気な顔をして朧をじろじろと見た。胡散臭いものを見るときの表情を隠そうともしない彼女に対し、朧がやんわりと微笑みを返す。それに対して眉間に皺を寄せた女性は、苛立ったような様子で椿を睨んだ。

「誰だいこいつは。お前、家事をほったらかしにして、どこの誰とも知らない輩と遊んでいたのかい」

「い、いえ、あの、この方は、」

 慌てて説明しようとした椿だったが、その肩を朧がぽんと叩いた。思わず言葉を止めて朧を見上げた椿に対し、彼は優しく微笑んでから、女性に向き直った。

「申し遅れました、私は薬師の朧と申します。この里に用があってこの辺りまで足を運んだのですが、肝心の里の場所が判らず迷っていたところ、たまたま出会った彼が道を知っているとのことだったので、無理を言って案内を頼んだのです。ですが、そのせいで彼の仕事の邪魔をしてしまったようですね。大変申し訳ありません」

 そう言って頭を下げた朧に、女性は先程までとは打って変わって笑顔を浮かべた。

「あらあらあら! 薬師様でいらっしゃいましたか! いえね、何分小さな里でしょう? お医者様は勿論薬師様もいないもので、薬はとにかく貴重なんですよ。さあさあ、お寒いでしょうからどうぞ中に。何してんだい椿! 洗濯物を干したら、薬師様の分も含めてさっさと朝餉の準備をしな!」

 女性は朧の手を取って家に招きながら、椿を睨んでそう言った。それに対し、椿が頭を下げる。

「はい、奥様」

 そんな椿を忌々しそうに見てから、彼女は朧に視線を戻して困ったような表情を浮かべた。

「ああもう、躾がなってなくてお恥ずかしい。さあさ、朝餉ができるまでの間、火にでも当たってくださいな」

 促された朧が、ちらりとだけ椿に視線を投げる。それに対し、椿はぺこりと頭を下げた。自分のことは気にせず行って欲しい、という意味を込めたつもりのそれは、どうやら正しく伝わったようで、朧は少しだけ申し訳なさそうな顔をしたものの、何も言わずに家の中へと消えていった。

 それを見送ってから、椿は籠を抱えて駆け出した。まずは庭に出て洗濯物を干してから、急いで朝食を作らなければ。薬師である朧は賓客として扱われるだろうから、鶏小屋から卵を採ってきてある程度豪勢な食事にしないといけない。昼は昨日採って雪に埋めてある魚と山菜で、夜は保存してある猪肉だろうか。

 途端に忙しくなってしまった、と思いながらも、朧が滞在している間の献立を数日分、頭の中で組み立てていく。彼が何日ここにいるのかは判らないが、ひとまずは長めに一週間ほど見ておけば良いだろう。それよりも長くなるようであれば、そのときにまた考えよう。

 そんなことを思考しつつ、洗濯と朝食の準備を済ませた椿は、食事を運ぶために座敷へと向かった。

 ぴたりと閉まった障子の前に辿り着き、開ける前の一声を掛けようとしたところで、ふと中で行われている会話を聞き咎めて、椿は思わず言葉を呑み込んだ。

 

――こちらで行われているという、儀式に興味がありまして。


 障子越しに椿の耳に飛び込んで来たのは、朧の声だった。聞こえたその言葉に、椿が小さく肩を震わせる。

 だが、すぐに息を吐き出した椿は、一度目を閉じてひと呼吸してから、障子に向かって口を開いた。

「ご歓談中に失礼いたします。お食事をお持ちしました」

 そう声を掛ければ、玄関先で椿を叱咤した女の声が、早く持って入って来いと返してくる。それに従い、椿は障子を開けて朝餉の盆を運び入れた。

 まずは客人である朧の前に。次いで、家の主である里長、その妻、長男、次男、長女、といういつもの順で準備を整え終えた椿は、畳に手をついて深く頭を下げてから、静かに退室しようとした。

 だがそんな椿に対し、穏やかな声が掛けられる。

「君はここで食べないのかい?」

 その言葉に、椿は内心で困惑して声の主、朧を見た。問いに答えるのであれば、食べないとだけ返せば良いのだろうが、それが家人の機嫌を損ねないとは言えない。

 返事に困った椿が黙って固まっていると、里長が朧に向かって笑った。

「ああ、気に掛けていただきありがとうございます。しかし、あれは良いのですよ。使用人のようなものですから、食事はいつも厨で一人で済まさせているのです」

 そうだな椿、と言われ、椿は慌てて頷いた。

「はい。ですので、どうかお気遣いなく」

 里長としては、これでこの件は終わりのつもりだっただろう。だが朧は、何故か食い下がってきた。

「使用人のようなもの・・・・・、ということは、正確には使用人ではないのですか?」

 言われ、里長がほんの僅か顔を顰める。だがすぐにそれを笑顔へと戻した彼は、朧を見て頷いた。

「一応ながら里の長を務めている身ではありますが、ご覧の通り小さな里での話です。お恥ずかしながら、使用人を雇うような余裕はないのですよ。ですから、椿は使用人として雇用している訳ではありません」

「ほう。では、どのようなご関係で? ああいえ、お答えしにくいお話なのでしたら、深く追求する気はないのですが」

 物腰柔らかな笑みのままそう言った朧に、里長は少しだけ躊躇うような素振りは見せたものの、素直に口を開いた。

「この子は捨て子でしてね」

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