愛縁危縁 1

 灰色の空から雪が落ちてくるような、そんな寒い季節だった。





 一晩中降りしきった雪がようやく止んだ、その日の早朝。

 冷たい水が流れる川辺に、齢十ほどの少年が一人ぽつんといた。伸びた黒髪を雑にまとめ上げた彼は、傍らの籠にたっぷりと入った衣服を取り出しては川の水に晒し、両手で丁寧に洗っていた。連日の雪のせいか、氷のような温度の水は少年の細い指をちくちくと刺すように苛んだが、それでも彼は洗濯の手を止めようとはせず、無言で布の汚れを落としていく。

 暫くそうやって洗濯をしていた彼は、不意に背後で雪を踏む音がしたのを聞いて、くるりと振り返った。

 こんな寒い朝に川に用がある人など自分以外にはいないだろうから、獣か何かだろうか。そう思いながら背後を見た少年だったが、見やった先、彼の赤い目に映ったのは、人の姿だった。

「やあ、おはよう」

「え、お、おはよう、ございます」

 朗らかな声で言われ、少年は思わず挨拶を返してから、ぱちぱちと瞬きをした。

 美しい人だ。何をも差し置いて、まず最初にそれだけが浮かんできた。

 月のように冴えた銀の長髪は、冬の薄い陽光にきらきらと輝き、長い睫毛に縁取られた瞳は深く青く、澄んだ湖の底を切り取ってきたのかと思うほどに美しい。

 まるで名のある人形師が計算し尽くして作り上げたかのように、性差を超越して部品が完璧に配置されたその人のかんばせは、この世のものとは思えないほどに神々しかった。

 挨拶を返したきり、何も言えないまま見惚れてしまっている少年に、その人はことりと首を傾げた。その拍子に銀糸が揺れて、少年の心臓がひとつ大きく跳ねる。

「この辺りに山里があると聞いたんだけれど、もしかして君は、その里の子かな?」

「え、あ、は、はい」

 この辺りにある里と言ったら、少年が住んでいる里しかない。慌てて頷いて返した少年は、そうしてから改めて目の前の人物を見た。

 どこを取っても美しい容姿は顔を見ただけでは性別が判然としないが、体格や声の調子から、きっと男性だろうと推測できる。ごく一般的な旅装束に包まれた背中には大きめの木箱を背負っていて、彼が薬師であることを物語っていた。それにしても、見た目もそうだが、雰囲気がどこか浮世離れしているように感じられるのは、旅人であるからなのだろうか。

 男は優しい笑みを浮かべる顔を少年から川の方へと移し、川べりにしゃがみ込んだ。そして、何かを確かめるように、白い手を伸ばして川の水に軽く触れる。そんな男に、少年がどうしたのだろうかと内心で首を傾げていると、振り返った男は不意に少年へと手を伸ばして、彼の小さな手を取った。

 唐突な男の行動と体温に、少年は思わずびくりと肩を跳ねさせたが、男は気にした風もなく自分の手の内にある子供の指をじっと見つめて、そして、口を開いた。

「痛そうだね」

「え、あ……」

 曖昧な返事を返しながら、少年は自分の手を見た。水の冷たさで真っ赤に腫れ上がった手には、昨日今日できたのではないあかぎれが無数に散っている。ここのところ寒い日が続いているから、そのせいで傷が塞がりきる前に再び開いてしまうのだ。

 男の言う通りひび割れた皮膚はとても痛むが、この程度のことなら慣れている、と思った少年だったが、さすがに初対面の相手に言うのは憚られたため、胸の内で呟くに留めた。代わりに誤魔化すように笑ってから、大丈夫ですよと答える。

「この時期ですから、水仕事をすると、どうしてもこうなってしまうんです。でも、見た目ほど痛くはないんですよ」

 言いつつ、取られた手を引き戻し、頭を下げてから洗濯に戻る。男と会話をしてしまったせいで、少しばかり遅れが生じている。帰りが遅くなって、その後の家事に支障が出るのは避けたいところだった。

 そんなことを思いながら無心で布たちを洗い続け、最後の一枚の水を絞ったときには、指の感覚はほとんど失われていた。それに構わず、洗った布たちをしっかりと籠を詰めた少年は、次いで籠を持とうと手を伸ばしかけてから、一度その手を引っ込めた。こんなかじかんだ手のままでは力が入らず、籠を落としてしまいそうだと思ったのだ。

 今すぐ籠を運ぶことを諦めた少年が、何度か手を握ったり開いたりして感覚を取り戻そうとしていると、不意に後方から伸びて来た手に、ひょいと籠を攫われた。

 驚いた少年が振り返れば、洗濯籠を持った旅の男が、優しい笑みで少年を見下ろしている。

「あ、あの……?」

「その手では籠を運ぶのも難儀するだろう? 私が持っていくよ」

「え、い、いえ、そんな訳には、」

 慌てて籠を取り返そうとする少年に対し、しかし男はやんわりとそれを止めた。

「良いんだ。どうせついでだから」

「ついで、ですか……?」

 首を傾げた少年に、男が頷く。

「君の住む里に用事があって来たんだ。だから良ければ、これを運ぶ代わりに案内して貰えないかな」

 男の申し出に少年は困ったような表情を浮かべたが、少しの逡巡ののちに、こくりと頷いて返した。そんな少年の反応に満足気に笑った男が、そこでふと思い出したように、ああ、と言う。

「名乗りもせずに失礼をしてしまったね。私は薬師を生業としている朧と言います。君は?」

 冷えた風に銀糸を揺らしながらそう言った男に、少年はおずおずと口を開いた。

「椿と、申します」

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