思ひ寝の共 3
「椿くん」
「……朧さん」
自分を呼ぶ声に椿が顔を上げると、そこには椿を覗き込む朧の姿があった。
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、椿は周囲を見回す。沢山の露店が並び、多くの人が行き交う賑やかな町の、大通りから一つ外れた脇の道。その道の端に、椿はしゃがみ込んでいた。
呆然としている椿に、朧が竹の水筒を差し出す。
「はい、どうぞ」
「あ……、ありがとう、ございます」
反射的に水筒を受け取った椿は、そのまま流れで水筒に口を付けた。冷えたお茶が喉を通っていくと、気分がすっきりするようで、椿はふぅと息を吐き出した。
そこで椿は、不意に思い出す。あのとき、朧と共に大通りを外れた後、道の脇にしゃがみ込んだ椿に対し、朧はお茶を買ってくると言って大通りへと戻って行ったのだ。大人しくそれを待つことにした椿は、手持ち無沙汰からなんとはなしに周囲の露店を眺めていた。そして、隣でござを広げている店の様々な品揃えに目をやって、その内の一つが、
「……朧さん、それは……」
「うん、これかい?」
目についたそれを椿が指摘すると、朧はひょいと右手を掲げてみせた。朧が持っていたのは、一つの鳥籠だった。
扉の近くに鳥の小さな浅浮き彫りが飾られているそれは、間違いなく、隣の露店に売り物として並べられていたものであり、あの世界で椿に様々な記憶を見せてきた鳥籠だ。
しかし、椿が店に並べられているのを見たときも、あの世界の最後のときも、鳥籠の中には何も入っていなかった筈だ。それが今は、何か小さなものが入れられている。なんだろうか、と思った椿が見てみると、籠の中にあったのは、椿と同じ名前をした、赤い花の根付だった。
それを認めた椿の脳裏に、鳥に変じて飛び立ったあの花の姿が蘇る。
「あ、あの、朧さん、これ、」
「ああ、オマケで貰ったものなんだ。同じだからね、埋めてあげるには丁度良いかと思って」
なんてことはない調子で告げられた言葉を反芻し、事の次第を大まかに理解した椿は、沈痛な面持ちで朧に向かってぺこりと頭を下げた。
どうやら椿は、また助けられてしまったらしい。しかも今回は、旅路に必要のないものまで買わせてしまった。異常事態であれば朧が解決してくれそうだ、と思ってはいたが、実際にそうなると、やはり申し訳なさが募る。
「すみません、朧さん。またお手数をお掛けしてしまいました」
「ふふ、なんのことかな」
朧はそう笑って、ぽんぽんと椿の頭を撫でた。許されてしまったのだと理解した椿が、そろそろと顔を上げると、朧の柔い微笑みが迎えてくれる。
きっと、これ以上椿がこだわって恐縮すると、逆に朧を困らせてしまうのだろう。そう考えて、椿は謝罪の代わりに、今度は感謝の言葉を口にした。
「ありがとうございます」
「うん、どういたしまして」
優しい微笑みを浮かべたまま、朧がまた椿の頭を撫でる。それに頬を薄く染めながらも、椿はゆっくりと立ち上がった。
暫く休ませて貰ったおかげか、すっかり体調は良くなったようだ。これならもう、動いても大丈夫だろう。
それを伝えようと口を開いた椿は、しかしその途中で、ふと籠の中の根付を見る。
「……そういえば、ついていましたね」
「うん?」
「その根付です。鳥籠のオマケに頂けたなんて、ついているなぁ、と」
「ああ」
同じく籠の中に視線を落とした朧は、すぐに視線を持ち上げると、椿を見て少し悪戯っぽく笑った。
「オマケはオマケでも、鳥籠のオマケじゃあないよ」
「え、そうなんですか?」
ぱちぱちと瞬きをしながら、椿は朧を見上げた。他に何を買ったようにも見られなかったので、てっきり根付けは鳥籠を買った際に付いてきたものだと思っていたのだが。
不思議そうにする椿の前で、朧は袂から包みを一つ取り出した。そして、椿の片手には少し余るくらいの大きさのそれを、椿へと手渡す。反射的に受け取った椿が、ぱちぱちと瞬きをしながら包みを見つめていると、朧は開けてごらんと言った。促されるままにしゅるりと包みの結び目を
平たく細長い艶やかな黄色の織物と、精巧な椿の簪だ。
暫く惚けたようにそれを見ていた椿の視線が、次いで朧の方へと移り、そしてまた掌の上に落ちて、再び朧に戻る。そんなことを数回繰り返したところで、朧がふっと小さく噴き出すように笑った。
「気に入らなかったかな?」
「えっ、いえ、そんなことは! ……で、でも」
どう考えても、この二つは朧から椿への贈り物だ。椿が髪を結うのに今使っている紐は、みすぼらしいボロ布のような端切れなので、恐らくは、それをちゃんとしたものに、という意図なのだろう。しかし、椿にはこれを受け取るだけの理由がない。寧ろ、朧には助けられ、与えられてばかりなのだから、椿の方が何かを返すべきだ。だというのに、椿は今のところ、何一つ報いることができていないままだった。
それなのに、受け取ってしまって良いものなのだろうか。朧の厚意を受け取るだけの価値が、自分にあるのだろうか。
そんなことを思った椿だったがしかし、厚意だと判っているからこそ、無下にするのも憚られる。
そうやって悩んだまま、手の上の織物と簪をどうすることもできず、椿はすっかり固まってしまった。
すると、不意に動いた朧が椿の手から優しく織物を攫った。そしてそのままの流れで、朧の整った指が、結い上げらている椿の黒髪を解く。
ぱさりと己の髪が落ちる感覚に、椿は目を開いた。
「お、朧さん、」
「うん、動かないでね」
そう言うと、朧は器用にも、正面から椿の髪を再び結い始めた。美しい指が髪を梳いていく感触に、内心ですら悲鳴を上げられないまま、椿が緊張で身を硬くする。
大して時間もかからず椿の髪を結い上げた朧は、最後に簪を手に取って、椿の髪に挿した。しっかり固定されているかを確認し、じっと椿を見た朧が、満足そうな顔をして頷く。
「君の黒い髪によく映える。うん、きっとそうだろうと思ったんだ。やっぱりよく似合っているよ」
そう言う朧の表情には、慈愛に似たものが滲んでいた。優しく夜道を照らしてくれる月光のような、柔らかなあたたかさに包まれた錯覚を覚えて、椿は思わず顔を俯ける。
身に馴染みのないそのあたたかさを受け取らないことは、もうできそうになかった。だって、嬉しいのは、喜ばしいのは、幸福なのは、紛れもない事実なのだ。
泣いてしまいそうだ、と椿は思う。けれど同時に、泣きたくないとも思った。朧は本当に、なんてことはないのだと、そんな風に与えてくれようとしている。それは多分、椿にあまり背負わせないためなのだろう。だから椿も、なんてことはない贈り物のように、この人の優しさを受け取りたいと思った。椿の内実はどうあれ、そうしたいと願った。そのために、涙は必要ないものだ。
何回か深く息を吸って吐いて、ゆっくりと心を落ち着ける。そしてようやく顔を上げた椿は、満面の笑みを朧に向けた。
「ありがとうございます。嬉しいです、朧さん」
「うん、喜んで貰えたなら良かった」
そう返して微笑んだ朧が、椿を見てまたひとつ頷く。
「顔色もすっかり良くなったし、体調はもう大丈夫のようだね」
「はい、朧さんが休ませてくださったお陰です」
そう言った椿ににこりと笑ってから、朧はそれじゃあ行こうかと言って、大通りの方へ足を向けた。それに続きながら、椿はそっと、頭に飾られた簪に触れる。
同じ名前の、赤い花の飾り。
あるはずのないぬくもりを指先に覚えながら、椿の視線は朧が持つ鳥籠へ向いた。その中にある赤い花の根付を見て、なくしたものに泣いていた鳥籠の声が、ふと脳裏を
例え代替でも。本物はもう二度と帰ってこないとしても。それでもきっと、あの嘆きは止んだのだろう。あの
(ああ……、僕も、そう在りたい)
このひとにとっての、鳥籠の
胸の内に咲き誇る花の赤さを静かに深めながら、椿は強くそう願い、恋しい人の背を見つめた。
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