須要の霽レ 7
朧が想定していたように水の流れ自体を使うのではなく、流れている水に無理矢理渦状に力を浸透させていくという結構な力業だが、これならば、水の流れを使うよりもずっと長い時間、浄化の力を場を留めておくことができるだろう。そして、恐らく蘇芳は、そこまで考えた上でこの方法を選んでいる。
(理屈でそう考えたところで、実行するのには相当な力が必要な筈だけれど……)
いくらこの山のヌシの座にあるとはいえ、流れを無視して力を浸透させることは難しい。それをいとも簡単にやってのけた彼女に、朧は素直に感心した。
だが、彼女が朧と
朧が内心でそれを残念に思うなか、暫く指をくるくると回していた蘇芳が、不意にそれを止めて腕を下ろした。それとほとんど同時に、朧も彼女の手を包んでいた自分の手を離す。
穢れの浄化が終わったのだ、と悟った椿は、大した時間もかけずに山全体を清めてしまった二人の力に素直に驚き、それから二人に向かって労いの言葉をかけた。
「お二人とも、お疲れ様です」
「ありがとう、椿くん。息苦しさはもう大丈夫かな?」
「はい」
浄化のお陰で空気がすっかり澄み渡り、気持ち良いくらいだ、と言って笑った椿に、朧は柔らかな微笑みを返してから、蘇芳の方を見た。
「お手伝いありがとうございました。大変助かりました」
「どうだかな。この感じじゃあ、別にアンタ一人でも何の問題もなかった気がするが」
「貴女がお手伝いくださったからこそ、最小限の力で浄化を施すことができましたから」
「ふぅん、否定しないのか」
含みのある音で言った蘇芳に、朧がいつもの笑みで応える。
「貴女は既に確信しているご様子ですから、否定するだけ無駄というものでしょう」
「……アンタも大概食わせ者だよな」
そう言った蘇芳の嫌そうな顔に、朧はいつもの微笑みだけを返しておいてから、さて、と言った。
「あとは、ヌシの譲渡を済ませればそれで、」
「待った」
朧の言葉を遮って制止をかけた蘇芳に、朧と椿が不思議そうな顔を向ける。
「ヌシの譲渡は少し待て」
「……それは構いませんが、いくら貴女でも、あまり長い間ヌシの座にいると、この山に縛られ変質してしまう可能性があります。それに、貴女はここに留まってヌシであり続けたいと思うような方でもないと思うのですが」
そう言った朧に、蘇芳が勿論だと頷く。
「誰が好き好んでヌシなんぞになるもんか。そうじゃなくて、今のうちに目的を果たしたいんだよ」
その言葉に、椿が首を傾げつつ思考を巡らせる。彼女の目的と言えば……。
「…………お酒……」
思わず椿が呟けば、耳聡くそれを聞いた蘇芳が、そうだと言った。
「アタシはまだ、目的の酒を見つけてねぇんだよ。山の浄化が済んだのは何よりだが、こっから酒まで真面目に探すとなると、酒を拝めるのがいつになるか判ったもんじゃねぇ。けど、今なら水を通して山全体のことが大体把握できるんだ。だったら、これを利用しない手はないだろ?」
真面目な顔でそう言った蘇芳に、朧がなるほど道理ですね、と頷く。一方の椿は、彼女の酒にかける情熱というか執念というかに、感心するやら少しばかり呆れるやらだった。
結局、ヌシの譲渡は酒を見つけ次第行うという話に纏まり、三人は酒を求めて再び山を歩くこととなった。
あちらの方角から酒の気配を感じると言う蘇芳に従って山を進めば、暫く歩いたところで、ふと椿の鼻を甘い香りが擽った。同時に、蘇芳が目に見えてそわそわとした素振りを見せ始める。
もしやと思った椿が朧を見れば、彼はにこりと笑った。
「そろそろのようだね」
その言葉通り、ほどなくして甘い匂いがこれ以上ないほどに濃くなり、そうしてたどり着いたのは、椿の両手には余るくらいの大きな果実をたわわに実らせた、一本の大木だった。甘い匂いのもとは、この果実であるらしい。
「ああ、これだ! この酒だよ! どうやらこの様子じゃ、酒までは穢れがいってなかったみたいだな!」
もしくは、山を浄化した際に酒ごと浄化されたのか。まあどちらにせよ、酒が呑める状態であるということが大事だ、と機嫌よく言いながら大木へと歩み寄る蘇芳に、椿は首を傾げた。
「あれは果実ではないのですか?」
そう言って朧を見れば、朧は椿に視線をやって微笑んだ。
「果実だよ。けれど、少し特殊な木のようだね。その影響で、熟れた果実の内部が発酵して、良質なお酒になっているみたいだ」
「なるほど、あの果実自体がお酒なのですね。……でも、特殊と言うのは?」
「見ていれば判ると思うよ」
そう言った朧に従い、椿が大木へと視線を戻すと、木の下まで蘇芳が辿り着いたところで、突然その場に柔らかく繊細な女性の声が響いた。
『ああ、新たなるヌシ様。ようこそいらっしゃいました』
鼓膜を介してというよりは直接脳に染み入るようなその声に、椿が驚いてきょろきょろと辺りを見回してから、大木へと視線を戻して口を開く。
「……これは、あの大木の声なのですね」
その呟きを拾った朧が、こくりと頷いて返す。
それを受け、椿は朧が言った特殊の意味を理解した。この大木は、長い年月を重ねて木の精としての特性を得た木だったのだ。
『新しいヌシ様が、穢れに呑まれた先代のヌシ様を止めてくださったのですね。その上、山の穢れまで浄化してくださって……。お陰様で、まだこの命を繋いでいられます。山の生命を代表してお礼を申し上げますわ。本当にありがとうございます』
そう言って枝葉を揺らした大木に、蘇芳が肩を竦める。
「アタシ一人じゃなく、後ろの連中の力も借りてのことだ。それに、ヌシっつったってもうすぐ辞めるヌシだしな。だから畏まった礼なんかはいらないんだが、そんなことよりアンタの酒を分けてくれ」
『私の果実を、ですか?』
「ああ、アタシはそれが目的で来たんだよ」
遠慮会釈もなく酒を要求する蘇芳に、大木は少しだけ戸惑ったような反応をしたが、だからといって渋ることもなく、私の果実で良ければお好きなだけどうぞ、と柔らかな声を返した。
『元より、これは歴代のヌシ様を始めとした、山の生命のために作っているお酒なのです。ですから、今のヌシ様である貴女に差し上げるのは道理というもの。ごゆっくりお召し上がりくださいね。勿論、お連れ様もお望みでしたらどうぞ。ヌシ様同様、この山を救ってくださった恩人ですから』
「よっしゃ! それじゃあ早速!」
嬉しそうに言った蘇芳が、許可は得たとばかりに果実をもぎにかかる。その様を見て椿は、本当に自由な方だな、と感心半分呆れ半分の顔をした。
そんな二人を見て小さく笑った朧は、次いで大木に向き直り、軽く一礼をしてから、事の経緯を説明し始めた。
蘇芳は酒目的らしいが、自分たちは山の穢れを祓うためにやって来たこと。先代のヌシは既に手遅れだったため、致し方なく殺めたこと。山の均衡を保つため、不在となったヌシの座に、一時的な処置として蘇芳を据えたこと。故に、この後すぐにでもヌシの座を別の誰かに譲渡する必要があること。
それらを簡潔に告げれば、大木は改めて朧に対して感謝を述べてきた。それに微笑みで応えた朧が、それで、と言って話を進める。
「貴方はこの山に在って長いようにお見受けするのだけれど、次のヌシに相応しい存在に心当たりがあったりはしないかい?」
その問いに、大木は少しだけ考えるように黙ったあとで、さわりと葉を揺らした。
『ええ、きっと彼が良いでしょう。すぐにお呼びいたしますわ。この近くを住処としている獣ですから、そう待つことなくやってくると思います』
そう告げた大木が、ざわざわと枝を大きく揺らす。すると、そのざわめきが周囲の木に伝搬していき、それから少し経ったところで、茂みの奥から一頭の大きな猪が姿を現した。
ゆっくりと歩み寄ってきた猪をじっと見つめた朧が、ひとつ頷く。
「確かに、彼であればヌシに相応しい。それでは、彼にヌシの座を譲渡しよう」
そう言った朧が、落ちている枝を拾って地面に陣のようなものを描き始める。少しの時間をかけてそれを完成させた朧は、次いで果実に舌鼓を打っている蘇芳を呼んだ。至福の時間を邪魔されて文句のひとつくらい言うかと思われた彼女は、意外にも素直に近づいてきた。
「ヌシ渡しか?」
「はい。彼と一緒にこの陣の中に入っていただき、彼の頭に片手を触れさせてくれますか?」
「はいよ」
朧の指示通り、蘇芳が猪の額に触れると、陣が僅かに発光し、そしてすぐに光を失った。
「はい、これでおしまいです」
そう言った朧に、蘇芳は猪から手を離しつつ、ぱちぱちと瞬きをした。
「これでか? 随分とあっさりしたもんだな」
「お楽しみを中断させてしまったので、できるだけ簡素に素早く済まそうと思ったのですが……。……もう少し厳かな演出をした方が良かったかな」
真面目な顔をしてそう呟いた朧に、蘇芳が呆れた顔をする。こうしてあっさりと譲渡を済ませることもできるが、やろうと思えばいくらでも豪勢な演出を施すこともできた、と言うような口ぶりに、目の前の男の訳の判らなさが増したのだ。
そんななんとも言えない雰囲気を感じた椿が、場を繕うように声を上げる。
「蘇芳さん、ここまでご協力いただき、ありがとうございました」
「ええ、お陰様で思っていたよりもずっと簡単に済ますことができました。ありがとうございます」
「あー、まあアタシは大したことしてないし、結果酒が手に入ったしで、願ったり叶ったりさ」
そう言ってにっと笑った蘇芳に、椿と朧も笑顔を返す。それから朧は、椿を見下ろして口を開いた。
「それじゃあ、私たちは先に進もうか、椿くん」
「はい」
頷いた椿の頭をぽんとひと撫でしてから、それではこれで失礼します、と言って朧は立ち去ろうとした。だが、彼が大木と蘇芳に背を向ける前に、その肩を蘇芳がむんずと掴んだ。
「まあ待てよ」
思いがけず引き留められた朧が、きょとんとした顔をして蘇芳を見る。
「まだ何か?」
「何があるって訳じゃあないが。まあ折角なんだ、アンタも付き合っていけ」
「……ええと」
「山の危機が救われた記念と、新たなヌシの誕生祝いだ。酒盛りしないでどうするってぇんだよ、なあ?」
そう言った蘇芳が、片手に持っていた果実を掲げてにやりと笑う。それに、少しだけ驚いたようにぱちぱちと瞬きをした朧は、次いでふっと小さく噴き出した。
「ふふふ、そうですね。それでは、そこの新たなヌシ様と、それから山の生き物たちも交えて、宴としましょうか。椿くんも、それでいいかな?」
「はい、勿論です」
そう言って椿が微笑めば、蘇芳もそうこなくっちゃなあ、と言って笑う。
こうして朧と椿は、暫し賑やかな宴の時間を過ごすこととなったのだった。
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