須要の霽レ 6

 それから椿を地面に下ろした朧は、蘇芳が見つめているヌシの亡骸に向かって歩き始める。慌てて椿もそれに続けば、亡骸まで近づいたところで、蘇芳が二人を振り返った。

「よお、取り敢えずはこれで良いんだよな?」

「はい、ありがとうございました」

 そう言った朧が、蘇芳と椿が見守る中で、地面に膝をついてヌシの腹に手を翳す。すると、ぐずぐずになった肉の中から何かが一人でにずるりと出てきて、引き寄せられるようにして朧の手の中に収まった。

「朧さん、それは……?」

 椿がそう問えば、朧は手の中のものを見ながら口を開いた。

「この山のヌシがおかしくなってしまった原因だよ」

 そう言って朧が見せたのは、木彫りの人形だった。

 椿と一緒にそれを覗き込んだ蘇芳が、あからさまに顔を顰めて鼻を摘まむ。

「酷い臭いだ、鼻がもげる。……しかし、ヌシみたいな大物を呪うために用意したにしては、随分チャチな作りに見えるな」

 彼女の言う通り、朧の手の中にある人形は、装飾どころか彫り込みすらもほとんどない、酷く雑な出来のものだった。

 それを指摘した蘇芳に、朧がいいえ、と言う。

「これは、ヌシを狙って作られたものではないと思います。恐らくですが、何か別の目的でこれを所持していた人間が山で倒れ、その人間をヌシが食らったときに一緒に食べてしまっただとか、そういうことなのではないかと」

「ほぉ、だが、だとしても妙だな。呪いってのは、基本的には呪うと決めた対象にしか効かないもんだろう。勿論無差別なものや適応範囲が広いものも中にはあるが、そういうのは個に特化していない分、威力も控えめになる。これだけの規模の山のヌシが、その程度の呪いにやられるとは思えないが」

 そう言った蘇芳に、朧はやはり首を横に振った。

「仰る通りですが、これは呪いを媒介する人形ではありません。これ自体には、他者を呪い、害するような機能はないんです。……これは、ただ穢れを吸って膨らませ、溜め込むだけのものだ。けれど、機能として単純な分、効果は強力です」

 その言葉に、蘇芳は納得したような顔をした。

「ああ、なるほど。この程度消化できると思って丸ごと食って、腹の中で育てちまったってぇわけか」

「ええ、恐らくそういうことでしょうね」

 言いながら、朧は人形をぐっと握り締めた。すると、手の中の人形は、まるで一瞬で時が過ぎたかのように風化して崩れ、さらさらと散っていった。

「……ヌシすら蝕むような厄介な代物だってのに、穢れもろとも消滅させたのか。つくづく規格外だなぁ、アンタ」

「こういうことが少し得意なだけですよ」

「少し、ねぇ」

 含みのある声で蘇芳がそう言ったが、朧はそれに対して小さく笑って返しただけだった。そんな彼の反応に肩を竦めた蘇芳が、まあいいやと言ってヌシの遺骸に目をやる。

「とにかく、これで穢れの大元は断てたわけだ。が、それだけで山が浄化されるかっつーと、そんなことはない。飽くまでもこれ以上は穢れが生じないってだけで、ここまで蔓延した分は消えないからな。その上ヌシが死んだ今、山の均衡が大きく崩れている。こりゃあ、自然浄化で元に戻れるような状況じゃあねぇぞ。それどころか、穢れが成長して山を飲み込んじまうのも時間の問題だ。……さて、それで、どうするつもりなんだ?」

 お手並み拝見といこうか、と愉快そうに言った蘇芳が、にやりと笑う。それに対し、そうですね、と呟いた朧は、足元から山の土をひと掬い浚った。それを両手で覆うようにして握った彼が、そこにふっと息を吹きかける。すると、指の隙間から黒い靄のようなものがするすると出ていって、空気に溶けるようにして消えていった。朧のこういった行動を見慣れている椿には、消えた靄の正体が土に染みついていた穢れであることがよく判った。

 そのまま握り飯を握るような動作で土を揉んだ朧が、次いでそっと両手を開ける。するとそこには、角が生えた小さな蛇のような人形がいた。

「手を貸していただけますか」

 土人形を片手に蘇芳に向かって言われた言葉に、彼女は数度瞬いたあとで、ほらよ、と言って片手を差し出した。

 向けられた掌に土人形を乗せた朧は、そのまま彼女の手を取って人形を緩く握らせた。そして、人形を包んだ蘇芳の手に朧が手を添えると、彼女の手の内側で人形が淡い熱を発した。それに片眉を上げた蘇芳が、次いで顔を顰めて、訝し気に自分の身体を見た。まるで、自分の肉体に何か違和感を覚えているような、そんな素振りだ。

 蘇芳が空いているもう片方の手を不思議そうに握ったり開いたりしていると、朧が彼女の手に添えていた自分の手をどかして微笑んだ。

「さて。これで貴女には、この山のヌシになっていただきました」

「…………はぁ?」

 唐突な台詞に、蘇芳が呆気にとられた顔をする。それは椿も同様で、彼は困惑したような顔で朧と蘇芳を交互に見た。

 そんな二人に向かい、朧が言葉を続ける。

「ヌシがいなくなったことで均衡が崩れたのなら、新たなヌシを立てれば良い。なので、山の土で作った人形を媒介として、貴女とこの山を結び付けました。勿論、貴女をこの山に縛り付けるわけにはいきませんから、この場限りの一時的なものです」

「……ははぁ、これがアンタの言ってた“考え”か。なかなか馬鹿げた力業だな。だが、一時的なヌシなら、別にアタシじゃなくて、そこの小さいのでも良かったんじゃないのか?」

 その問いに、朧は首を横に振る。

「いいえ、椿くんではヌシの役割に耐えられません。山との繋がりがない身にとって、山と深く結びつくことになるヌシの座は、猛毒のようなものですから。ですが、貴方は個としてとても強固だ。山の穢れを祓い、ヌシの立場を譲渡するまでの間くらいは、問題なく耐えられるでしょう」

「それじゃあ、アンタじゃ駄目な理由は?」

 間髪入れずに飛んできた問いに、朧は数度の瞬きのあとで苦笑した。

「そうですね、私はそういうものには向かないのです、とだけ」

「……ふぅん」

 朧自身に影響があるから向かない、という感じではないな、と思った蘇芳だったが、敢えてそれは口にせず、別の言葉を続ける。

「まあ、アタシが適任だったって点は納得してやるよ。しかし、そういうのは事前に言うのが礼儀ってもんなんじゃないのか?」

 騙し打ちのような真似しやがって、と言った蘇芳に、朧は素直に謝罪をした。

「すみません。けれど先程もお伝えした通り、貴方は個として強固ですから。ヌシになることを身構えられてしまうと、その個の強さがヌシの役を跳ねのけてしまう可能性があったので、事前に告げる訳にはいかなかったんです」

「なるほど、理屈は通ってるな。アタシにはそれが本当なのか方便なのかを判断することはできないが、今回はそれで納得してやるよ」

 そう言って片手をひらひらと振った蘇芳に対し、朧が苦笑しつつ礼を告げる。それから彼は、穢れをたっぷり内包したヤマネコの遺骸をちらりと見てから、蘇芳に視線を戻した。

「それでは、ひとまずは山の浄化をお願いします。貴女はもともと水と相性が良い方なので、山中に染み渡り巡っている水に作用するのが良いでしょう。普段の貴方のお力は知りませんが、ヌシとなった今なら、この山の水を掌握するくらいは容易いはずです」

「あ? ……あー、確かに、少し集中すりゃあ、山全体の水の流れは把握できそうだな。で、これになんかどうこうするって? まあ、水を通して何をどうってことくらいはできそうだが、アタシは浄化の力なんぞ持ち合わせてないぞ」

「それは私が補います。私が場を清める力を貴方に流し込むので、貴女は水を通して、それを山全体に巡らせてください」

「成程、意味が判らんが、まあなんとなくの感覚でどうにかなるだろ。取り敢えずやってみるか」

 そう言った蘇芳が、無造作に右手を朧へと向ける。朧がその手を取って両手で包み込むと、ほどなくして蘇芳が少しだけ驚いたような顔で、ぱちぱちと瞬きをした。

「ははぁ、アンタから流れ込んでくる、妙に清々しくなる感じのこれが、浄化の気ってやつか。なんつーか、のど越しと後味がすっきりした良酒みてぇな味わいだな」

「それはまた、初めて聞く喩えですね」

 蘇芳の言葉に笑った朧が、彼女の手を取ったままで言葉を続ける。

「私はこのまま貴女を満たし続けますので、貴女はこれを山の隅々まで流してください」

「はいよ」

 軽い調子で返事をした蘇芳が、空いている方の手の人差し指を立て、くるりくるりと回し始める。一体何の動作なのだろうか、と思った椿が彼女の指を見つめていると、その視線に気づいたらしい蘇芳が、椿を見て、ああ、と口を開いた。

「こりゃあただの気分さ。あちこちに巡らせるなら、こうやって渦を思い浮かべるとやりやすい」

「う、渦、ですか……」

 予想していなかった言葉に、椿はやや困惑したように呟いた。

 実際、彼女が指を回す動作を始めてすぐに、辺りにたちこめていた嫌な感覚が薄れていくのを感じたから、このやり方で上手くいってはいるのだろう。だが、こういう場合、普通は自分を起点に無数の枝葉が伸びていくような様を想像するものなのではないのだろうか。

 そこまで思った椿が、いや、もしかすると自分の方がおかしいのかもしれない、と考えて朧を見れば、彼も椿同様なんとも言えない顔をしていた。

「こういうことをするにあたって渦を持ってくるとは、なかなかに独特の感性をお持ちですね」

「洪水よりマシだろうが」

「それはまあ……。さすがに洪水のような勢いで流されると、折角の気がその場に留まらず、全部山の外へ流れていってしまいそうですから」

「だろう? 本当は洪水の方が圧倒的にやりやすいんだが、浄化の類の力ってのは繊細で面倒なことが多いからな。そう思って、こっちも慣れない緻密な作業をしてやってんだ。感謝しろ」

 言いながら、蘇芳は渦をゆっくりと広げていくような要領で、朧の力を水に流し込んでいく。

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