須要の霽レ 5

 そんな風に他愛のない話をしながら、三人は目的地へと向かって山の中を移動する。と言っても、椿はその会話にはほとんど参加していない。踏み出すごとに空気がどんどんと重くなり、呼吸をする度に淀みで肺が埋め尽くされていくようで、椿はお喋りどころではなかったのだ。

 まるで速度を緩める様子のない二人とは対照的に、椿は身体を蝕む重苦しさから、その足取りを少しずつ乱し始める。だが、椿がとうとう微かな吐き気を覚え始めた辺りで、朧と蘇芳が唐突に足を止めた。

 吐き気を堪えつつ、椿が二人に一歩遅れて立ち止まると、振り返った朧が椿を見て口を開いた。

「大分つらそうだね」

「吐き気が、少し……」

 椿が素直にそう返せば、こういう場面で強がらないのは良いことだよ、と言って微笑んだ朧が、椿へと手を伸ばして、その胸にとんと軽く触れた。

 すると、あんなに強く感じていた重圧がすっと軽くなり、胸の奥に淀むように溜まっていた吐き気が、嘘のように消え去った。

「これで大丈夫かな?」

「は、はい。ありがとうございます」

 相変わらずよく判らないが、朧が椿を苛むものを取り除いてくれたことだけは確かだ。自身の力を使ってくれたのだろう朧に感謝の念を抱きつつ、椿は立ち止まった先に見える景色に目をやった。

 立ち並ぶ木々が急に途切れたそこは、どうやら崖になっているらしい。いつの間にか先を行っていた蘇芳が、崖の淵に立ってその下を覗き込んでいる。そこで椿は、彼女が見ている先、崖の底の方から、低い地鳴りめいたものが聞こえてくることに気づいた。

 はっとした椿が朧を見れば、彼は小さく頷いて蘇芳の元へと足を向けた。そんな朧を追うようにして、椿も崖の淵に向かう。

 辿り着いたそこで、蘇芳に倣って下を覗き込んだ椿は、目に映ったものに思わず息を呑んだ。

 大きな、とても大きな獣だ。四つ脚のその獣は、長身の朧すらも優に上回るほどの身の丈をしており、地面を踏み締める四肢は、ずいぶんな年数を重ねた木の幹を思わせるほどに太い。

 ひと目で山を統べるモノであると判るような風体のそれは、恐らく巨大なヤマネコだ。恐らく、としか言えないのは、獣の全身が黒々しく滴る汚泥のような何かに塗れているせいで、正確な全貌が把握できなかったからである。

 最早生き物かも怪しいようなその有様に顔を顰めた椿は、そこで、滴り落ちる汚泥に紛れるようにして、何かがぼたりと零れ落ちていることに気づいた。一体何が落ちているのか、と目を凝らした椿は、一拍置いてその正体を知る。

 肉だ。腐り落ちた果実が落ちるかのように、獣の身体を造っている肉が、ぼとぼとと腐り落ちているのだ。

(なんて……惨い……)

 生きながらにして肉が腐り落ちるその苦痛はいかばかりか。だがそれでも、山のヌシは無残な身体を引きずって、必死に動いていた。

 身震いがするほどに悍ましく、同時に酷く痛々しい姿に、椿が思わず小さく声を洩らして口元を押さえる。そんな椿の横で、蘇芳が酷いなと呟いた。

「アタシはこういうことに詳しい訳じゃあないが、それでも判る。あれだけ穢れを溜め込んで腑まで腐ってちゃあ、もう駄目だ。仕留めるしかない」

 はっきりと言い切った彼女に、横に立っている朧も頷きを返す。それを見てから、蘇芳はしかし、と言葉を続けた。

「アンタ、これをどうするつもりなんだ? 殺すだけならどうとでもなるが、代替わりもなしにヌシが死んだら、山の均衡が崩れる。このあっちもこっちも穢れきった状況で均衡を失えば、そこかしこから山が死んでくぞ。そうなったら、穢れを祓う以前の問題だ。穢れの有無に関わらず、一度死んだ土地ってのは、そう簡単には生き返らないもんだからな」

「ご心配は判ります。ですが、私に任せてはいただけないでしょうか。考えがあるのです」

 果たして、出会ったばかりの朧の言葉を信じて貰えるのだろうか、と思った椿が、不安げな顔で蘇芳を見つめる。だが椿の心配をよそに、蘇芳はあっさりと頷いてみせた。

「そうかい。じゃあ、アンタに任せるとしよう。で、アタシがやることはあるか? 手ぇ組んだ分の仕事くらいはするが」

 拍子抜けするほど躊躇いなくそう言った蘇芳に、朧は彼女を見てから、そっと目を伏せた。

「それでは、彼女を送ってあげてください」

 私にそれをされるよりも、貴女にそうして貰える方が、彼女にとっても良いでしょう、と続いた言葉に、蘇芳は訝し気な顔をしたが、追及をするような真似はしなかった。

「よくは判んねぇが、アタシが適任なんだな? それなら、さっさと済ますか」

 そう言った蘇芳が、ぐっと大きく伸びをする。それから彼女は、なんの気負いもない様子で、ひょいと崖下に身を投げた。

 その光景に、椿が悲鳴を上げそうになる。今いる場所からヌシのいる底までは、かなりの高さがあるのだ。空を飛ぶことができる椿ならまだしも、蘇芳では地面に叩きつけられて終わるのではないか。

 そう思ったが故の悲鳴だったが、それが音として発される前に、朧が手ですっと椿の口を塞いで止めた。驚きと焦りのままに椿が朧を見上げれば、彼はにこりと微笑んでから、崖下を指差した。それに釣られて椿が崖下へと視線を向ければ、軽やかに地面に着地した蘇芳が、ヌシに向かって走り出したところだった。

 風を操って落下の速度を落としただとか、質量を操作して落下の衝撃を弱めただとか、そういう訳ではないのだろう。恐らく彼女は、純粋な身体能力だけで、何の怪我もなく地面に降り立ったのだ。

(す、すごい……)

 思わず内心で感心してしまった椿が見つめる先で、朧と戦ったときのように鋭い爪を露わにした蘇芳が、ヌシへと跳びかかる。一方のヌシも、蘇芳の姿を見るや否や、凄まじい咆哮を上げて蘇芳に襲い掛かった。

 大きく口を開けたヌシが、その牙で蘇芳を串刺しにしようと地面を蹴る。その巨体からは想像がつかないほどに俊敏な一撃は、しかし危なげなく身体を捌き、横へと跳んだ蘇芳に躱された。

 あっさりと空を切った己の牙に苛立ったのか、先程よりも更に激昂したような雄叫びを上げたヤマネコが、身体を反転させて再び蘇芳へと向かう。

 目を血走らせて蘇芳に跳びかかるその姿に、椿は思わず顔を歪めた。

 蘇芳が攻撃を躱していくのとほぼ同時に次々と追撃を仕掛けるヌシの動きは、椿では目で追うのがやっとなくらい俊敏だ。だが、その素早い動きに、今のヌシの肉体がついていけていない。

 ヌシの腐りきった肉は、身体が動く速度と衝撃に耐えることができず、絶えず千切れ飛んでいた。だが、皮が剥がれ、肉が落ち、腐りかけの骨が少しずつ空気に触れ始めても、ヌシは止まらない。己の身体のことなど気にしていないのか、気にすることすらできないほどに狂ってしまっているのか。それは椿には判らないが、あまりに痛々しい姿に、彼は唇をぎゅっと噛んだ。

 そんな椿の肩に、朧がそっと手を乗せる。

「大丈夫だよ。……もう、終わるから」

 朧がそう告げると同時に、ここまで回避に徹していた蘇芳が、片足で地面を踏み切って攻勢に転じた。ヤマネコの俊敏さを上回る速度で駆け抜けた彼女は、獣の懐に潜り込むような形で肉薄し、鱗を纏う右腕をヌシの胸の中心へと叩き込んだ。

 胸を貫いた一撃に、ヤマネコが地響きすら感じさせるような凄まじい悲鳴を上げる。だがそれも、そう長くは続かなかった。

 数度の咆哮ののちにヌシの巨躯がぐらりと傾いだのを合図に、蘇芳がずるりと腕を引き抜く。支えを失ったヌシの身体は頽れ、そのまま地面へと倒れ込んだ。そしてヤマネコは、喉から搾り出すような声で数度苦しそうに鳴いてから、目だけをゆっくりと動かして、自分を見下ろす蘇芳を視界に収めた。そして直後、その瞼が下ろされる。

 死んだのだ。

 この大きな山を守ってきたヌシの最期としては、あまりに酷い結末だ。けれど椿には、獣が蘇芳を見上げたあの刹那、濁った瞳に僅かな光が戻り、ヌシが微笑んだように見えた。

(……最後の最後に、戻れたのかな……)

 真実は判らないが、そうだったなら良い、と椿は思う。朧はそんな椿の頭をぽんと撫でてから、私たちも降りようか、と言って椿に手を差し出した。

 こくりと頷いてその手を握れば、柔く笑んだ朧が椿を抱えあげる。そして、蘇芳がしたのと同じように崖下に向かって身を投げた朧は、まるで風を一身に受けて飛翔するかのような軽やかさで、ふわりと地面に着地した。

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