須要の霽レ 4

「で、これからどうするんだ? まさかなんの当てもありません、なんてことはないんだろう?」

「そうですね。取り敢えずは、この山のヌシを確認しようかと」

 朧の言葉に女は納得したようにそうかと頷いたが、椿は不思議そうに朧を見上げた。

「ヌシ、ですか?」

「そう、ヌシ。ここのように古くて大きな領域には大抵、その地におけるヌシが存在するんだよ。古くからそこに棲まう生き物が長い時間の中で力を蓄え、その地を治めるものとなるんだ。ヌシがいると、それだけでその土地の気の流れのようなものが整うから、そこは豊かになりやすいんだよ」

「しかし、土地の均衡を保つヌシがいて尚この有様ってことは、ヌシそのものに原因があってもおかしくはないな。ヌシは土地を司る。ヌシに障りがあれば、それはそのまま土地に影響するだろう。……もしかすると、何かあってヌシの気でも触れたか?」

 そう言って首を傾げた彼女に、朧は小さく頷きを返した。

「貴女の仰る通り、恐らくはヌシに何かあったのでしょう。酷く乱れた、荒ぶる気配を感じますから」

「ほお。ヌシってのは土地に最も馴染んだ存在だから、住処である地ではものすごく気配が読みにくいもんなんだが……、アンタよく判るな。アタシでさえ、この酷い臭いのせいで、ヌシの存在なんか追えたもんじゃないってのに」

 感心したような表情を浮かべた彼女は、アンタ結局何者なんだ、と言ってじっと朧を見つめた。だが、興味と好奇心を持って向けられた視線を受け止めた朧は、柔らかな微笑みを崩さないまま、無言を貫いた。

 そんな朧の様子に彼女は少しだけ訝し気な顔をしたが、それ以上の追及をすることはなく、大人しく引き下がった。

「で、アンタにはヌシの居所が判ってんのか?」

 問いを受け、朧は西の方へと視線を向けた。つられて椿もそちらを見たが、当然ながら、目に映るのは鬱蒼と茂る木々だけだ。しかし朧は、はっきりと確信を持った声で、あちらの方ですね、と言った。

「へぇ。ちなみになんだが、距離も把握してんのか?」

「ええ、おおよそですが」

 その答えに、彼女が感心したような呆れたような声を出す。

「ははぁ、ますます何者なんだアンタって感じだな。まあ良いや、そんだけはっきり言うってことは、ただの勘だとか予想って訳じゃあないんだろう? それじゃあ、さっさと行くとするか。案内は任せた」

「はい、任されました」

 そう言った朧は、椿に行こうかと声を掛けてから、二人を連れてヌシがいる方角へ歩き始めた。

 朧が選んだ道は、村人や旅人によって踏み固められた道らしい道ではなく、足場の悪い獣道のようなものだったが、それは川辺に向かっていた先ほどまでも同じである。だというのに、椿はどうにも先ほどよりもずっと強い歩きにくさを感じて、ただ歩くというだけの動作にかなりの神経を使う羽目になった。恐らくは、ヌシに近づいていっているせいなのだろう。一歩進むごとに、絡みつく空気の重さは増していき、それに比例して椿は身体の重さと息苦しさを感じた。

 それでもまだ一人で歩ける程度のものではあるので、己の状態を朧に告げることなく、椿は懸命に歩き続けた。きっと椿の状態などお見通しの朧が何も言わないのは、自分でできることは自分でしたいという椿の矜持を尊重してのことだろう。

 そんな朧の優しさに感謝をしつつ、椿は彼をそっと見上げてみた。

 椿はこんなにも疲弊しているというのに、朧の方は相変わらずこの空気の重さを気にする様子もない。続いて隣を歩く彼女へとちらりと視線を向ければ、彼女もまた、時折臭いと零して嫌そうな顔はしているものの、粘度すら感じるような嫌な感覚を気にも留めていないようだった。

 先ほどの朧との戦いから察してはいたが、やはり彼女は随分と強い何かであるらしい。戦闘の際、椿は彼女の肌に鱗が浮き出るのを確かに見たが、一体何の妖しなのだろう。

「……あの、」

 ふと湧いた疑問を本人に尋ねてみようと声を掛けたところで、椿ははたと気がついた。彼女に呼びかけようにも、椿はまだ彼女の名前を聞いていなかったのだ。それどころか、彼女に対して自分の名を名乗ることすらしていないではないか。

 なんて無作法をしてしまったのか、と恐縮した椿は、視線を向けてきた彼女に対して言う言葉を咄嗟に変えた。

「あの、そういえばまだ、名乗っておりませんでした。無作法で申し訳ないです。僕は、」

「あー、いい、言わなくていい」

「え?」

 名乗る前に制されてしまい、椿はきょとんとして彼女を見た。それに対し、彼女は椿に視線を落としたまま、親指でくいっと朧を指した。

「別にお前らが勝手に互いを呼び合う分にはアタシの知ったことじゃあないが、改めて名乗られたんなら、名乗り返さんと据わりが悪い。が、そこのに名を知られるのは避けたくてな。だからお前も名乗らなくていいぞ、小さいの」

 言葉を選ぶこともせずはっきりとそう言った彼女に、朧が彼女を見た。

「おや、私は何もしませんよ」

「気分の問題でな」

 そう言って肩を竦めてみせた女に、椿はどういう意味だろうかと考えを巡らせ、そこで、以前朧に教えてもらった話を思い出した。

 名とは、その存在を示すものであると同時に、その存在を縛るものでもある。故に、名付けるという行為は命を吹き込むのと同義になりえ、また、名を知るとはその存在を掌握することにも繋がるのだ。そして力があるものの中には、相手の名だけでそのものを如何様にでもできてしまうものもいる、と。確か朧は、そう教えてくれた。

 彼女はきっと、それを危惧しているのだろう。

 朧が彼女に何かをするとは思えないが、それは朧のことを知っている椿だからこその言い分であって、出会ったばかりの彼女にとって朧が警戒対象であることは理解できる。

 納得した椿は、判りましたと言って引き下がろうとした。だが驚いたことに、こういったことにはあまり頓着しない朧が、何故か今回は食い下がった。

「不安なら、誓いでも立てましょうか? 貴女がこちらに危害を加えようとさえしなければ、私から貴女をどうこうしたりはしない、と」

「なんだ、食い下がるな。そういうことをされると、是が非でもアタシの名前を知りたい理由でもあるのかと勘繰っちまうが?」

 そう言った女が、目を細めて朧を見る。その場にピリピリと肌を刺すような緊張が走り、椿は思わず息を止めて二人を窺った。

「……名前くらい、貴女に訊かずとも、知る手段などいくらでもあります。ですが、それでは意味がない。私は、繋いでおいた方が良いと思った縁は繋いでおきたいのです。そして、そういう縁を無理矢理に扱うのは、あまり好きではない」

 それだけですよ、と言って前を向いた朧を、女がじっと見つめる。

 それっきり口をつぐんだ朧と、推し量るように彼の横顔を見る彼女。二人が生む耐えがたいほどの緊張感を孕んだ沈黙が場を満たし、辺りには三人が土や下草を踏む微かな音だけが響いた。

 そんな息が詰まりそうな空気の中、ハラハラとした心地で二人の反応を窺っていた椿の見る先で、彼女はふっと小さく息を吐き出してから、椿へと視線を落とした。

「蘇芳」

「……え?」

「アタシの名だよ。知りたかったんだろう?」

 小首を傾げながら言われたそれに、椿が慌てて頷く。

「あ、ありがとうございます。その、僕は、椿と申します。そちらの薬師様は、朧さんです」

 椿の紹介を受けた朧は軽く会釈をして、朧です、と言った。

「知ってるよ。嫌でもアンタらが呼び合ってるのが聞こえるからな」

 そう言って、蘇芳は椿から朧へと視線を移した。そんな彼女に、柔い微笑みを浮かべた朧が口を開く。

「本当に教えていただけるとは思わなかった」

「よく言う。教えなきゃ無理矢理奪って好きにするって脅したのはアンタだろう」

「そんな意図はありませんでしたよ。第一、本当に私にその意図があると思っていたなら、貴女は容赦なく私に襲い掛かっていたでしょう?」

「ふん、食えない男だ。……アンタの言う縁がどうだとかはよく判んねぇが、繋ぐべきと判断した点には興味があるからな。繋いだ先に何があるのかをいつか知ることができるかもしれないなら、まあ乗ってやっても良いさ」

 そう言って笑った蘇芳に、朧が感謝の言葉を述べる。

 そんなやり取りを済ませると、蘇芳は再び椿に視線を戻して、それで、と言った。

「えっと……?」

「名前の話は思い付きだろ? 他に何か訊きたいことがあったんじゃないのか?」

「あ、は、はい。あの……、えっと……」

 椿としては、貴女は何の妖しなのでしょうか、という質問がしたい訳だが、名前を名乗ることすら渋った彼女相手に、果たしてその問いを投げても良いものなのか。

 言うべきか言わざるべきか迷った椿が、もごもごと口ごもっていると、呆れた表情を浮かべた蘇芳が椿の頭を軽く小突いた。

「良いから、言いたいことがあるなら言え。訊かれて困ることを訊かれるよりも、そうやってもごもごされる方が面倒だ」

「あ、す、すみません。……あの、蘇芳さんはとてもお強い方だとお見受けするのですが、一体何の妖しでいらっしゃるのだろうか、と思って……」

 おずおずと発された言葉に蘇芳は、ああなんだそんなことか、と言ってやはり呆れた顔をしてから、素直に口を開いた。

「鬼とみずちの混ざりものだよ。さっき水を操ったのは、蛟の方の力だな」

 こんな質問をして気分を害されないか、と心配していた椿は、蘇芳が思いの外あっさりと教えてくれたことに驚きつつも、答えてくれたことに対する礼を述べた。

 しかし、鬼と蛟とは、また珍しい生き物同士の組み合わせだな、と椿は思う。朧の旅路に同行し始めてそれなりに長い時が経ったが、鬼や蛟と出会ったことは未だにない。鬼、と呼ばれる存在に遭遇したことはあるが、あれは人がそう呼んでいるだけの何かであって、種族としての鬼ではなかった。蛟に至っては、それらしいものがいるという噂を聞いたことくらいしかない。

 だが、鬼も蛟もその希少性に相応しく非常に強大な力を持つ妖しであるため、彼女がそのふたつの混血であるというのならば、ここまで強いことにも納得がいく。

 そんなことを思いながら、椿がちらりと朧を見やると、朧は蘇芳の言葉に驚いた様子もなく、確かな足取りで歩み続けている。きっと朧のことなので、わざわざ訊かずとも、蘇芳の種族については察するものがあったのだろう。

「なんだ、混ざりものが珍しいか?」

「あ、いえ、そういう訳ではありません。ただ、鬼や蛟にはこれまでお会いしたことがなかったので、少し驚いてしまって」

「ああ、なるほどな。まあ好き好んで人目に触れようとする連中じゃあないしな。……アンタも会ったことはないのかい?」

 朧を見やって言われた問いに、彼は歩みを止めないままに蘇芳を振り返った。

「いいえ、旅の過程で、何度か会ったことがありますよ。貴女のときのように、戦ったことはありませんが」

 少しだけ笑いながらそう言った朧に、蘇芳はそいつは腰抜けだな、とふざけた調子で言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る