朝影の密か 1

「木の呪い、ですか?」

「そう、木の呪い。まあ、噂なんだけどさ」

 昼下がりに朧と椿が立ち寄った食事処でそんな話をしてきたのは、たまたま相席になった女性だった。

「ほら、そこから見える小高くなってるところにさ、でっかいお屋敷があるだろ? あれ、領主様のお宅なんだけど、あそこの庭に生えてる大きな木が、どうも何か悪さをしてるって話でね」

 女性の話に相槌を打ちつつ、朧は屋敷に目をやった。遠目からでもよく判る、立派な造りの屋敷だ。この辺りの土地は随分と栄えている様子だったから、それを纏めている領主も実入りが良いのだろう。

「領主様のところに、それはそれは可愛らしい一人娘のお嬢様がいらっしゃるんだけど、どうやらそのお嬢様が、木に呪われてるみたいで」

「ほう」

「実はお嬢様、良縁に恵まれて、ちょうど三日後に晴れて祝言を挙げられる予定なんだけどね」

「それはお目出度いことですね」

 女性に目を戻して朗らかに笑った朧に対し、しかし女性は少しだけ眉を顰めた。

「それ自体は目出度いことなんだけど、半年ほど前に婚姻の話が決まって以降、お嬢様の体調が芳しくないって話でねぇ。と言っても、ちょっと軽い咳が出るとかその程度のことなんだそうだけど、それがもうずっと続いてて、医者に診せても一向に良くならないってんだから、領主様も随分心配なされてるご様子でさぁ」

 表情を曇らせる女性に、朧の横に座っていた椿が、心配そうな顔をして朧を見上げた。そんな椿に軽く微笑みを返してから、朧が口を開く。

「その体調不良の原因が、木の呪いだと?」

「いや、さっきも言った通り、所詮噂なんだけどね。……でも、ない話じゃあないと思うんだよ」

「と言いますと?」

 柔らかな声で促され、女性は難しい顔のまま言葉を続けた。

「お屋敷の庭の木ってのがね、お嬢様が生まれるまでは、毎年春になると綺麗な薄紅色の花を咲かせていたんだけど、お嬢様が生まれた年を境に、ひとつも花をつけなくなったのさ。そんときはまあ不思議なこともあるもんだってことで終わったんだけど、……お嬢様の婚姻が決まったその日から、まるで魔に憑かれたみたいに、木の幹がじわじわと黒く変色していったんだとさ。今じゃあもうほとんど真っ黒みたいな有様らしいよ」

「なるほど」

「実は庭の木は元々化け物で、それがお嬢様を呪おうと日に日に悪い力を増しているんじゃないかってね。……実際、祝言が近づくほどに、本当に徐々になんだけど、お嬢様の体調が悪化してるみたいな話も聞くしさ」

 心配だよねぇ、と言って顔を顰めた女性は、深く息を吐き出してから、朧の荷物にちらりと視線をやった。

「兄さん、見たところ旅の薬師様なんだろ? だったらさ、是非領主様のお屋敷に足を運んどくれよ。あっちこっち回ってる薬師様なら、ここらじゃ手に入らないような珍しい薬とかも持ってたりするんだろうし、どうにかこうにか、お嬢様に力を貸してやれんもんかね」

 言われ、朧はぱちりと瞬きをしたあとで、隣の椿に目をやった。深い海のような青い目が、行ってもいいだろうかと尋ねている。それをきちんと受け取った椿は、こくりと頷いて返した。

 朧の趣味は人助けだ。ならば、椿が否を唱える理由はない。

 そんな椿の反応を確認した朧は、改めて女性を見てにこりと微笑んだ。

「私がどれだけお力になれるかは判りませんが、一度伺ってみましょう」





 食事処で出会った女性に教えられた道を辿って領主の屋敷へと向かいながら、椿は隣を歩く朧をそっと見上げた。のんびりとした足取りで町を眺めながら進む彼の表情に、特段の変化はない。いつもと変わらない、穏やかな微笑を浮かべた美しい顔だ。

 だが、そんな表情の中に、椿はなんとなく少しだけ違和感を覚えた。なんとも言語化しにくいが、言うなれば、まるで何かを探っているような、そんな雰囲気を感じたのだ。

 違和感の正体を考えつつ、まじまじと朧を見つめていると、不意に朧が椿の方を見た。驚いた椿が思わず目を丸くすると、朧は悪戯が成功したときのような顔で笑う。

「そんなにじっと見られていては、いくらなんでも気づいてしまうよ」

 くすくすと笑う彼に、椿は恥ずかしさからほんのりと頬を染めつつ、視線を地面へと逸らした。そんな椿の頭をぽんとひと撫でしてから、朧が言う。

「それで、どうしたんだい?」

「え、えっと……?」

「何か言いたいことがあるんだろう?」

 言われ、椿は少しだけ迷うように視線を彷徨わせてから、朧を見て口を開いた。

「……朧さんが、何か、考えてらしてそうだったので」

 その言葉に、朧はぱちぱちと瞬きをしたあとで、にこりと微笑んだ。

「よく判ったね。うん、ちょっと不思議でね」

「不思議、ですか?」

 首を傾げた椿に頷いてから、朧は顔を上げて周囲を見た。それにつられて、椿も辺りに目を向ける。

 日中ということもあるのだろうが、それにしても随分と活気に溢れた町だ。生活に必要な食料や道具などを売っている店は勿論のこと、簪や化粧用具に、高級そうな着物を扱う呉服屋まであって、そのどれもに多かれ少なかれ人が入っている。擦れ違う人々を見ても、極端に痩せたり粗末な身なりだったりということはなく、少なくともこの町の中だけの話をするならば、顔を顰めたくなるような貧富の差は窺えなかった。椿は素直に、裕福な町なのだろうな、と思った。

 確かにひとつの町である以上、ただの集落などよりはよほど人で賑わっているものだ。だが、町に分類される場所が全てこんなにも栄えているかというと、そういう訳ではない。これまでの旅路で椿が見てきた限りでは、この町は町の中でも随分と賑やかな方だった。

 ちょうど視界に入ってきた、上品そうな菓子を扱う菓子屋をなんとなく眺めてから、椿は改めて朧を見上げた。そんな少年へと視線を戻して、朧が小さく首を傾ける。

「椿くんは、この町を見てどう思った?」

 問われ、椿は先程感じたことをそのまま口にした。

「とても栄えていて、暮らしやすそうで、町の皆さんも幸せそうだなと思いました」

「うん、そうだね。私もそう思うよ」

 そう言って、朧はにこりと微笑む。

「それに、多分ここの領主様は、町の人から慕われているんだろうね。さっきの女性もそうだったけれど、領主様のお嬢さんを心配する声がちらほらと聞こえるし、町人からも好かれる良い領主様なんだろう」

 そう言った朧は、だからこそ、と言葉を続けた。

「だからこそ、少し不思議なんだ。お嬢さんの身体に悪さをしているのは、本当に呪いなのかな」

「……朧さんは、そうではないとお考えなのですか?」

 椿の問いに、朧は近づいてきた領主の屋敷に目を向けた。ここまで来れば、塀に囲まれた庭に聳える大樹がはっきりと窺える。

 食事処で会った女性が言っていた通り、確かに黒ずんだ木だ。自然な黒さと言うには余りに深く、椿の目から見ても、異常であることは明らかだった。

「……呪いというのは、そもそもが一対一の関係ではないんだよね」

「一対一ではない、ですか?」

 椿の声に、朧が頷く。

「そう。呪いというのはね、単独で成り立つものではないんだ。誰かが誰かを呪ったとして、ではそれがそのまま呪われた誰かに効果を発揮するのかというと、そうではない。呪われた対象に表れる結果は、いつだって複数の呪いが互いに食い合ったあとの残滓なんだよ」

「え、ええと……」

 椿が困った顔で戸惑いの声を上げると、朧はごめんねと笑った。

「少し抽象的すぎたかな。……そうだね、それじゃあ、私が私を恨む誰かに呪われたとしよう。その呪いは私を損ねるためのものだけれど、その呪いの強さのまま私が呪われることはない。それは何故か。……椿くんは、私を損ねようと思って呪ったりするかい?」

 唐突な質問に、椿は驚いて首を横に振った。朧を損ねようだなんて、そんなことを椿が考える筈がない。

「うん、そうだね。じゃあ、椿くんは私に何を思う?」

 やはり脈絡を感じられない問いに、椿は少しだけ考えたあとで、おずおずと口を開いた。

「…………幸福、を」

 どうか幸せになって欲しいと、そう願う。それを口に出すのは少し躊躇われたが、椿は嘘をつけるような子ではなかった。

 そんな椿に、朧が柔らかく目を細めて笑う。

「ありがとう。だから、私は呪いに損ねられずに済む」

 その言葉に、椿がまたもや首を傾げる。だが、疑問を口にする前に、朧の方から答えが差し出された。

「私を損ねようとする呪いと、私の幸を願う祈り。話を簡略化するためにも、今回はこの二つがあると仮定しよう。その場合どうなるかと言うとね、二つの呪いは互いに食い合って、より強い方が残り、呪われる対象に効果をもたらす。……つまり、誰かの思いと椿くんの思いを比べたときに、誰かの方が強ければ私には負の効果が表れ、椿くんの方が強ければ正の効果が表れる、といった感じかな。もっとも、幸福が果たして正の効果と言えるかどうかは、きっと時と場合によるのだろうけれど」

 言われ、椿は合点がいった。呪いが食い合うとは、そういうことか。だが同時に、新たな疑問が生じる。

「……僕の気持ちも、呪い、なのですか?」

 幸福を願う椿の思いは、紛れもなく心からのものだ。そこに、朧を呪う気持ちなんて欠片もない。

 そう思った椿だったが、朧は椿の問いに頷きを返した。

「そう、それも呪いだ。他者の何かを願う行為というのは、押し並べて呪いなんだよ。そこに良し悪しは関係ない。勿論、それを祈りや祝福だと言うこともできるのだろうけれど、それがなければ生じ得なかった何かを引き起こす可能性がある以上、そういうのは全て呪いと言える。だからこそ、呪いというのは一対一の関係ではないんだ。誰かが誰かを怨み呪うのであれば、別の誰かが同じ誰かの幸福を願う。そうやって、ありとあらゆる呪いが集まって食い合って、残ったそれこそが真の呪いとして発揮されるのだとしたら、…………やっぱり私には、木の呪いがそこまでの効果を出せるとは思えない」

「……領主様もその娘さんも、こんなにも町の皆さんに慕われているから、ですか?」

 椿の言葉に、正解に辿りついた子供を褒めるように、朧が微笑んだ。

「そう。幸を願う呪いがこんなにも多い以上、一本の木の負の呪いがお嬢さんの身体に影響を与えるほどの力を発揮できるとは思えない。それこそ、木に対して死ぬよりも酷い何かをしたとか、そういうことがない限り有り得ないと思うんだ。でも、そういう話は一切聞かなかっただろう? もしかすると木にしか判らない酷い仕打ちが存在したのかもしれないけれど、それではきっと、大勢の人々の思いに負ける。それくらい、町の人々の思いが強いんだ」

 話しながらも動いていた朧の脚が、そこで止まる。話を聞くのに集中していた椿は、そこでようやく、いつの間にか自分たちが屋敷の前まで来ていたことに気づいた。

「まあ、詳しいことは、実際にお嬢さんと木を見てから判断しようか」

 そう言って柔らかく笑った朧は、立派な門扉に向かって手を伸ばした。

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