愛縁危縁 11

 予期せぬ朧の登場に安堵しかかっていた椿は、その行動に再び顔を青褪めさせた。

「お、朧さん、」

 この得体の知れないものは危険だ。大した能力を持たない妖鳥の椿ですらそう確信できるほどに、強大な何かだ。だからこそ椿は、それを知らせようと彼の名を呼んだのだったが、その声に振り返った朧は、まるで椿を安心させるように柔らかな笑みを返してきた。

「大丈夫だよ」

 そう言って、掌が椿の頭を撫でる。すると、椿を拘束していた闇の帯が弾かれるようにして解けた。驚いた椿は朧を見上げたが、朧はやはり、優しい笑みを浮かべるだけだった。

『……なんだてめぇは。どっから湧いた?』

 弾かれた帯をまじまじと眺めた重瞳が、次いで朧を捉えてそう言った。五つの赤い瞳が睨むように朧を見たが、朧は一切気にした風もなく、常と変わらぬ顔で口を開く。

「道標の代わりにと渡したものを、この子がきちんと持っていてくれたからね。それを辿って、私と彼の間にある距離を縮めて跳んだ」

『随分簡単に言ってくれるな。この世界にそんな真似をできる奴がいたなんて、俺は知らなかったが』

「世界とは、自分が思っているよりもずっと広いものだよ。私こそ、山神の正体がこんなものだなんて思いもしなかったさ」

 穏やかな声で言う朧に、異形の目がすいっと細められる。

『……端から、この餓鬼を囮にして俺の下へ辿り着くつもりだったのか?』

 異形の問いに、朧は首を横に振った。

「いいや。私がここに来るかどうかは、この子次第だった。この子の選択に従おうと決めていた。……だから、私がここに来たのは、この子の意志だ。あの里の養分になどなりたくないという彼の選択が、私をここに呼んだんだよ」

 だがその返答に、目はハッと嗤った。

『よく言うぜ。お前、里の秘密に気づいてたんだろ? だからこそ、こんな回りくどいやり方をした。違うか?』

 目の言葉に、朧は何も返さない。それをいいことに、異形は更に言葉を続けた。

『あの里がやってきたことを考えれば、この餓鬼が贄となることを拒絶するなんて判り切ってる。だから、これは決まった筋書きだ。お前の思った通りに事が運んだだけだ。そうだろ?』

 侮蔑を含んだ声がそう言ったが、朧は重瞳を真っ直ぐに見つめ返して、それを否定した。

「いいや、私も結末は知らなかったよ。ただ、里の人々が儀式についての全てを隠しているということだけは確信していた。だから、もしもその秘匿がこの子に明かされ、その結果この子の思いが変わることがあれば、そのときは手を貸そうと思っただけだ」

 凪いだ湖面のような静けさで紡がれた言葉に、嘘はない。少なくとも、椿はそう感じた。

『……里の連中は儀式についてよく話したろう? 記録だって見せたはずだ。それでどうして、嘘だと思った』

「そうだね、最初の違和感は、山神を退治しようかと言ったときの里長の反応だ。うまく隠していたけれど、困惑の中に僅かな動揺が見られた。それでもそのときは、突然示された道に戸惑っているだけだろうと思ったよ。けれど、あの記録の山を見て、そうではないと思った」

 朧の言葉に何も言わぬ異形に、彼は話を続ける。

「あの記録は、あまりにちぐはぐだ。あんなにも詳細に、それこそ不必要だろう部分まで丁寧に丁寧に記載がされているのに、歴代の記録はどれひとつとして同じ形式に統一しようとした痕跡が見られない。伝えることが目的の記録なら、どこかで統一しようという意思が働くものだろうに、それが一切ないなんて、おかしな話じゃないか。昔の記録を紛失して、その度に新しい形式で記録をしていた、と言うなら判るけれど、記録は紛失を避けるために常に複数の複写があるくらい厳重に保存されていた。だったら、どうして形式を統一しないのか。簡単な話さ。伝えることが目的なのではなく、伝えないことが目的だからだ」

 そう言って朧は、ゆるりと目を細めた。

「そうやって考えると、あれだけ共通点のなかった記録たちに、たったひとつだけ共通したものがあることに気づいた。……それはね、無秩序であることだよ。あれらの記録は、相互にも秩序がなく、そして個々にも秩序がなかった。一貫して、読み手の予想する構造になっていなかったんだ。あれは、無意識にできるようなものじゃあない。誰かが意図を持って、読みにくさだけを追い求めて作られた構成だ。だが、時間をかけてきちんと整理さえすれば、内容は一切の矛盾なく理解することができる。つまり、内容に意味はないんだ」

 朧の言葉に、椿は困惑した顔で彼を見た。そんな椿に気づいたのか、ちらりと椿を見た朧が笑みを返す。

「ああ、ちょっと判りにくかったかな。要するにね、それだけ巧妙に儀式を秘匿しているんだから、そこから読み取れるものなんて嘘八百なんだよ。思考する生き物というのは、苦労して読み解いた暗号に意味を見出してしまうものだけれど、それこそが罠だったということさ。大方、本当の儀式は口伝で受け継いでいき、絶対に里の外部には洩らさずにきたんだろうね。全部里全体で行ってきたことさ。そして、だからこそ厄介だ。里の人たちは、嘘が並びたてられたあの記録に従って、背景から話す内容まで、僅かな乱れもなく徹底的に役目を演じている。贄として外部の妖しを調達しなければいけないのだから、それくらいしなければならなかったのだろうけれど、あそこまで周到だと、儀式の本質に辿りつくことはまず無理だろう」

 そこまで聞いて、椿はようやく、儀式の前日に朧が言っていた言葉の意味を理解した。

 あのとき、里を追い出されてしまうことになったと告げた朧は、そうでなければならないから、と言った。あれは、万が一にも儀式の内容を見られてはいけない里の人々が、儀式の当日に部外者である朧を里に置いておくような危険を冒すはずがない、ということだったのだ。

 里の人は、恐らく今回の儀式についてもでたらめな記録を残す。もしも朧が里に残り、垣間見えた儀式の一端でも記録として書き留めてしまったら、いつかその記録がどこかに流れ、そこから矛盾が発覚してしまう恐れがある。それはきっと、ほとんど有り得ないような確率の杞憂だろう。けれど、里の人はそんな僅かな憂いすら許さなかったのだ。

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