愛縁危縁 12

『へぇ、やるなぁお前』

 素直に感心した声を出した異形に、朧は肩を竦めて返した。

「記録がでたらめである以上、その歴史もどこまで正しいか知ったものではないけれど、それでも、随分と昔から続いているものなんだろう? だったら、私のように真実に気づいた存在だっているんじゃあないのかい」

 そう言った朧に、目はにんまりと笑うように弓なりに歪んだ。

『そうそう。お前みたいに、ほんのたまーに気づく奴がいるんだよな。五百年に一度もあるかどうかってとこだが、そういうときは、処理せざるを得なくなって面倒なんだよ』

「ああ、やはり、始末してきたんだね」

『そりゃあお前、頑張って育て上げた大事な餌場だからな』

 そう言った異形が、その一ツ目をカッと見開く。瞬間、うねるようにして周囲を漂っていた暗色の帯たちが、朧に向かって一斉に襲い掛かった。

 まるで無数の手が伸びてくるかのような光景に、椿が小さな悲鳴を上げる。そんな椿を、朧が庇うようにして抱き寄せた。そしてそのまま、向かってくる闇の群れに、朧が手を翳す。すると、まるで糸が解けるようにして、帯たちがしゅるしゅると細く割けていき、朧の身体に触れる前に、力を失って落ちていった。

 予想だにしない光景に椿が目を丸くするなか、そんな椿を抱く腕に少しだけ力を込めた朧は、腕の中の子供を見ることなく前を向いたままで口を開いた。

「ただの装置と舐めていたが、思っていた以上に強い。私から離れてはいけないよ、椿くん」

「は、はい」

 反射的にそう返事をしてから、椿は朧の言葉に引っ掛かりを覚え、そっと彼の顔を窺った。そんな椿の視線に気づいた朧が、やはり椿を見ないままに言う。

「あれはね、神なんかではないし、生き物ですらない。ただの装置だよ」

「そう、ち……?」

「そう。本体に栄養を吸収して運ぶための装置だ。少し違うけれど、植物の根っこのようなもの、と言うと想像しやすいかな。ああ、言葉を発しているのは本体なのだろうけれど、本体がここにいる訳ではなく、本体が発した言葉を装置が届けているんだろうね」

「で、では、その、装置が、里に恩恵を与えていたと……?」

 生き物が何かしらの作用をするなら、なんとなく感覚的に理解もできるのだが、装置がそういったものを与えるというのは、あまり想像がつかない。そんな椿の言葉に、朧はいいや、と言った。

「そもそも、恩恵を与えるというのが違うんだ。別にこの装置は里に恩恵を与える効果があるものではない。本体が言っていただろう? ここは餌場だと」

 言いながらも、朧は襲い来る攻撃を全て無効化し続けている。朧は涼しい顔をしているが、果たして無限に湧いているようにすら思える闇の帯たちの動きが止まることはあるのだろうかと、椿は不安になった。

 そんな椿の不安を拭うように、朧はいつもと変わらない声で話を続ける。

「恐らく、本来は本当に餌場としての意味以外なかったんだ。けれど、餌を消化していくうちに、あれはきっとそれがもたらす副産物に気づいた。そしてそれを利用して、より自分の好みの餌が得られるように育てたんだ」

「あの、どういうこと、でしょうか……?」

 椿の問いを受け、朧は言う。

「豊かな土壌、水量の十分な川、自然から得られる食物しょくもつに、異常なまでに早い雪解け。これらは全て、この装置が餌を吸収した際に漏れ出る残滓によるものだ。つまりね、装置が捕食行動を取った際に生じるものが、たまたまこの地を豊かにしていただけだなんだよ。だから、この装置に贄を与えるから恩恵を返して貰っているんじゃない。この装置が何かを捕食して本体に送るから、この地が豊かなんだ」

 要は、因果関係が違うのだ。里が豊かであるために重要なのは、贄を捧げることではなく、この装置がここにあることだけなのである。装置が栄養の吸収を担っているのだとしたら、里の人間が贄を捧げようが捧げまいが、この装置は何らかの手段で餌を入手し、それを食うだろう。そうすれば、その際に副産物的に生じた何かによって、この地は豊かになる。

 そう、あの装置から発された通り、贄とはただの嗜好品なのだ。それがなければ装置が役目を果たせない訳でもなければ、里が豊かであるために必要なものでもない。どうせ食べるのならば美味しい方が良いと、ただそれだけの話なのだ。

 突き付けられた事実に、椿は絶句する。ならば、無惨に殺された両親は、日々を耐え忍び贄となることを受け入れた椿は、一体何だったのか。良し悪しはどうあれ、そこに意味がありさえすればまだ救われもしただろうに、すべてが無意味だったのだ。

 最早何を思えばいいかも判らないような状態の椿を見て、闇を纏う異形は五つの瞳をぎょろりと回転させた。

『ははっ、可哀相になぁ。だけど仕方ねぇさ。普通は気づかねぇんだよ。俺のゲップ・・・でこの山が生かされてるなんてな』

 嘲るような声に、椿が思わず唇を噛む。内側から湧き上がってくるものが羞恥だったのか怒りだったのか憎悪だったのか、それは椿にも判らない。椿に判ったのはただ、全身の血が沸騰したのかと思うほどに身体が熱いという事実だけだった。

 だが、そんな椿の頭を、優しい手が撫でた。その温もりに、椿が思わず手の持ち主へと顔を向ければ、深い青の瞳がこの上ない静謐さを持って椿を見つめていて、そして次の瞬間、それは柔らかく緩められた。

 たったそれだけで、椿の身体から急激に熱が引く。そして同時に、先程までとは違う、もっと優しくて心地良い柔らかな熱が身体を満たした。

 強張っていた椿の表情が和らいでいくのを見た朧は、もう一度だけ小さな頭を撫でてから、再び闇の中心に佇む異形へと視線を戻した。

「あまり、この子を苛めないで貰おうか」

 そう言った朧が、襲いくる闇の群れへと翳した掌を一杯に広げてから、勢いよく握り締めた。その瞬間、際限なく溢れて二人に向かってきていた闇の濁流が、一斉に弾け飛んだ。

 そしてそのまま、一ツ目が纏う闇の衣までもが見る見る内に剥がされていき、椿が瞬きを二度終える頃には、身一つとなった目が宙にぽっかりと虚しく浮くのみとなっていた。

 丸裸にされて無防備な姿を晒す目の中の五つの瞳が、朧をまじまじと見て唸る。

『参ったな。この土地の豊かさの本質的な理由を言い当てられたのも初めてなら、こんな状態にされたのも初めてだ』

「それは光栄だね。……では、初めてついでに、これで最後になって貰おうか」

 そう言った朧が、おもむろに膝を折り、地面に手を突き入れた。驚いた椿が朧の腕の先を見ると、彼の手が埋まっている地面は液体のように波打っており、まるで石が水に沈むかのような自然さで手を受け入れていた。

 そんな不思議な光景に椿が息を呑む中、朧は目を閉じ、更に腕を深くまで突き入れる。だが、

『あー、判った判った。今回は俺の負けだ。ここは放棄してやるよ』

 そんな異形の言葉がしたかと思うと、ばつんっ、と何かが千切れるような音が周囲に響き、それと同時に、目を見開いた朧が勢いよく腕を引き抜いた。

 そして再び地上に晒された彼の腕を見て、椿が小さな悲鳴を上げる。

「お、朧さん!」

 朧の腕は、地面に埋まっていた箇所が強力な酸で溶かされたかのように爛れ、黒い煙を上げていた。

『なんだ、せめて腕くらいは持って行ってやろうと思ったんだが、……お前、強いなぁ』

 にやにやと笑うような声が、辺りに響く。それを聞いた椿が反射的に異形に視線をやると、一ツ目の中にあったはずの五つの瞳孔は消え、大きな目はただの洞のようになっていた。

『美味い餌場がひとつ消えたのは腹立たしいが、まあ良いさ。だが、なあ、お前』

 そこで言葉が切れたかと思うと、その声は吹いてもいない風に乗るようにして、椿のすぐ傍、朧の耳元で囁いた。

『俺の食事を邪魔したこと、覚えてろよ』

 あまりに重く、まるで皮膚という皮膚を食い破って身体の内で這いまわるような不快な音色に、椿の全身が総毛立つ。だが、それも短い時間のことだった。

 異形が残した言葉が周囲の空気に溶け、消えてなくなる頃には、空間一杯に圧し掛かるような威圧感は完全に消え失せ、ただそこには、朧と椿と、抜け殻となった目だけが取り残されていた。

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