愛縁危縁 13

 そこでようやく椿は、助かったのだ、と認識し、力が抜けてその場にへたりこんだ。死が回避された安堵と、それよりも重い何かに出会ってしまったという恐怖とがない交ぜになり、彼は複雑な気持ちを抱えたまま朧を見上げる。

 不安を拭うべく縋る視線を受け、しかし朧はそれに気づかない様子で、爛れた腕をじっと見つめた。

 焼けた皮膚から上がっていた黒煙は徐々に収まってきてはいるが、この有様では、きちんと処置を施してある程度治るまでは、動かすことも難しいだろう。

(今すぐ完治させられない訳ではない。……けれど、それをやろうと思うと、通常では考えられないほどに力を使うな)

 僅かでも動かそうとするたびに激痛が走る己の腕に、朧が目を細める。

(根を辿り、本体にまで手を伸ばそうと思ったのだけれどね。…………成そうと思って実行したことが成せなかったのは、記憶にある限り初めてのことだな)

 そう。朧はいつだって、しようと思ってやったことはなんだって成し遂げてきた。それがどんなに困難でどんなに不可能のように見えても、まるで平坦な道を歩むかのような容易たやすさで成してきた。だがそんな朧が、初めてその行いを阻止された。それはつまり、あの重瞳の異形は朧に匹敵する力を持っているということで、ならばあれこそが、もしかすると――

「朧、さん……?」

 不安そうな声が鼓膜を叩き、そこで朧ははっとして椿を見た。自分を見上げる子供の目には、未だ色濃く怯えが映っている。それを認めた朧は、細く静かに息を吐き出してから、椿に向かって柔和な笑みを浮かべた。

「ああ、ごめんね。怪我は……、うん、ないようだね。いや、間に合って本当に良かったよ」

「あ、ありがとう、ございます。あ、あの、でも、朧さんが、」

 痛ましい腕を見て顔を歪める椿に、朧が気恥ずかしそうに笑う。

「いや、これは私の未熟さが招いた事態だ。だから、君は気にしなくて良いんだよ。それに私は薬師だからね。ここを出て落ち着いたら、手持ちの薬で治療するさ。大丈夫、これくらいなら、きちんと処置を施せば問題なく完治するから」

 その言葉に、椿はほっと胸を撫で下ろした。朧は気にするなと言ったが、自分を守ってできた傷だ。気にしないなんてことができる訳がなく、治らないようなことがあれば、一生引き摺るところだった。

 そんなことを思う椿の横で、朧が空っぽの目を見て言う。

「さて、それじゃあ、後処理だけしていこうか」

「……後処理、ですか……?」

 首を傾げた椿に、朧は頷いた。

「ああ。でも、決めるのは君だ」

 そう言った朧は椿へと向き直り、彼の目を見た。

「選択肢は沢山あるけれど、大きく分けるなら三つかな。このまま何もしないで終わりにするか、君とご両親を陥れた里の人間たちに復讐するか、この先も変わらず里が恩恵を得られるように種を撒いていくか。一つ目を選ぶなら、あの装置がもたらした副産物を失った土地は近いうちにやせ細り、里は里としての在り方を維持できなくなるだろう。二つ目は、もっと直接的に里の人間を損なわせる選択だ。復讐と言うと悪いもののように聞こえるかもしれないけれど、君が彼らから受けた仕打ちを考えれば、当然の報いだと私は思う。そして最後を選ぶなら、私が責任を持って、この土地が豊かであれるように種を埋めてあげよう。種といっても、植物の種ではないよ。あの装置が漏らしていた副産物のように、大地に流れ出るだけでその地を繁栄させるような、そういう類のものだ」

 流れるように紡がれた朧の言葉に、椿は困惑し、答えを探すように視線を彷徨わせる。朧は、そんな椿に向かって優しい笑みを浮かべた。

「素直な君の気持ちを聞かせてくれれば、それで良い。これはね、正解なんてない類の問いなんだ。だから、君がどれを選んだとしても私はその選択を尊重するし、それを成せるよう、最後まで力を貸すよ」

 朧のその言葉には、きっと偽りなどないのだろう。根拠はないが、椿はそう確信した。そして、だからこそ、目を閉じて深呼吸をしてから、自問する。自分はどうしたいのか。自分にとって、何が一番選びたい答えなのか。

 そうやって考えて、少しの時間が経ったところで、椿はゆっくりと目を開けた。そして、朧を見上げて口を開く。

「……このままで」

 短い回答に、朧は一度だけぱちりと瞬いた。

「良いのかい?」

「はい。僕は、それが良いです」

 朧の目を見つめ、椿ははっきりとそう言った。

 復讐を考えなかった訳ではない。椿の中には、里の人間たちのことを心の底から憎み恨む気持ちが確かにあるし、彼らに報復をしたいという気持ちだってあった。

 だが、あのとき朧は言った。高潔であろうという椿の想いを肯定するように、言ってくれた。


――落としてはいけない。君は気高く、穢れないのだから。


 絶望に呑まれそうになる中、そんな椿をすくいあげるようにして落とされた言葉を、椿は思い出す。

 朧は優しさを知らない椿に優しくしてくれた。ひとり落ちていく筈だった椿を助けてくれた。そして、椿が目指した在り方を、肯定してくれた。

 ただ一人、椿を椿として見てくれた人が、その在りようを認めてくれたのだ。ならば、椿はそう在り続けようと思った。本当に自分がそう在れているのか、自信はないけれど。それでも、椿はそうで在り続けたいと思ったのだ。

 だから、椿は復讐を選ばない。朧はそれを当然の報いだと言ったが、それでも、穢れない自分を自分で認め誇るそのために、椿は復讐を選択しないことを選ぶ。そして同時に、彼らを救済することも選ばない。それもまた、己が高潔であるための選択だった。

 だから、このまま何もせず、ただ自然のまま、この大地をあるべき姿に。

 大地を潤していたものが消えたのならば、当然そうあるべき結果として、この土地は枯れるべきだ。その結果、山に住む数多の命が失われようとも、それでもきっと、そうなるべきなのだ。

 そして、それらを糧としていた里もまた、滅びることになるのだろう。里の人々は、里を棄てて逃げていくのか、里と命運を共にするのか、それは判らない。だが、どちらにしても、彼らにとっては不幸なことだろうと椿は思った。

 あの里の人間は、遥か昔よりずっと、外の人間を拒み続けてきた。きっと、山神の秘密を守り、その恩恵を外の者に渡さないために、そうしていたのだろう。だがそのせいで、彼らには里の外に頼れる相手がいないのだ。

 里を捨てて逃げたところで、果たして一切の交流を拒んできたあの人々を、他の地の人々は受け入れてくれるのだろうか。

 そこまで考えたところで、椿は思考を放棄した。里を捨て、自ら決めた道を歩み始める彼にとっては、意味のない話だ。

「この先どうするかは、もう決まっているのかい?」

「いいえ。でも、ここではない何処かへ行きたいとは思っています」

 そう言った椿に、朧は少しだけ間を置いてから、口を開いた。

「それじゃあ、君が君の未来を決めるまで、私と一緒に来るかい?」

「え……、……良いの、ですか……?」

 驚いた顔で言う椿に、朧がにっこりと笑う。

「勿論だよ。ちょうどね、一人旅は寂しいと思っていたところなんだ」

 にこやかに言った朧に、椿は数度瞬きをした。

 椿は彼が何者かを知らない。初めは人間だと思っていたが、山神とのやり取りを見る限り、恐らく違うだろう。もしかすると、朧の方こそ神様なのかもしれない。少なくとも、今回の一戦で見せた朧の力は、そう思ってしまうくらいに規格外のものであるように椿には感じられた。

(……ううん、朧さんが何者かなんて、関係ない)

 胸の内でそう呟き、椿は朧を見る。

 大切なのは、彼が何者かではない。彼だけが椿を椿として見て、そして救ってくれた。それだけが全てだ。

「……では、ご一緒させていただいてもよろしいでしょうか」

 椿が小さな声でそう言えば、朧は勿論だと微笑んだ。そして、怪我をしていない方の手が、椿に向かって差し出される。

「それじゃあ、まずはここから出ようか」

 そう言って朧は自然に椿の手を取り、椿もまた、おずおずとその手を握り返した。

 記憶の中の両親は朧気で、椿には誰かと手を繋いだ思い出がない。だから、椿にとってはこれが初めてのようなものだ。

 掌に直接伝わる他者の温もりは、落ち着くような落ち着かないような、不思議な心地がした。





 厳しい冬の訪れがちらつき始めた、そんな秋の終わり。ひとつの小さな山里が、その役目を終えた。

 かつて緑に覆われていた山はやせ細り、豊かだった川の水は枯れ果て、それに生かされていた人々は里を捨てて方々に散ったというが、誰一人としてその行方は知れない。

 誰も知らず、誰も訪れず、誰に語られることもなく。小さなその里は、まるで存在そのものが秘匿であるかのように、山と共にひっそりと息を引き取ったのだった。

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