愛縁危縁 10

『なんだ、ビビってんのか?』

 そう言って、目が嗤うように弧を描く。だが、椿は震えるばかりで、それに対して答えることができなかった。

『心配するなよ。今すぐ取って喰う訳じゃねぇ。それより、なあ、良いことを教えてやるよ』

 そう言った目は、ぎょろりと瞳を躍らせた。

『全部な、嘘なんだよ』

「……は?」

 ぽろりと落ちた椿の声に、目は一層嗤うように弓なりに歪んだ。

『嘘なんだ。お前がこれまで聞いてきた話』

「……ど、ういう、」

 言葉に詰まる椿の身体に、闇から伸びた帯が纏わりついていく。

『俺は里の人間に贖罪なんか求めてねぇ。そもそも、償わせるようなことなんて何もねぇからな。それに、お前の両親もお前を捨ててなんかいないし、里長んところの金を盗んだりもしていない。あいつらはただ、里長の家にお前を預けてこの山に登っただけだ』

 楽しそうな声が話すが、それが耳に入っていながらも、椿はまるで呑み込めずにいた。ただ、呆然と目の前の重瞳を見つめることしかできない。

『この山にはな、妖しの重病に良く効く薬草が自生しているんだ。いや、実際はそんなもんねぇんだが、そういうことにしてある。そうしたら、お前の両親みたいなのが引っ掛かるんでな』

 最早なんの言葉も発することができない椿に、声は更に言葉を続けていく。

『二十年前、お前の父親はとある病に掛かっていた。俺が撒いた病だ。他人に移ったり遺伝したりはしねぇが、放っとくと身体の端から徐々に腐り落ちて死に至る病でな。治すためには、特殊な薬草を煎じて飲むしかない。そしてその薬草がこの山に生えている、という噂を流した。まあ全部嘘だ。実際はこの病に治療法なんてのはない。俺がそう作ったからな』

 つまり、椿の両親はその病を治すためにこの里に訪れたのだと。働こうとしない頭で、それでも椿はかろうじて理解した。当然ながら、父の病のことは初めて聞く話だった。

『そうしてやってきたお前の両親は、この上なく親身に話を聞き、良くしてくれた里長の一家にお前を預け、薬草を求めてこの山に登った。そして里の男たちは、総出でそれを追って殺した』

「…………、え……?」

 唐突な言葉に、椿は本気で何も理解できず、ただ間の抜けた音だけを落とした。そんな椿を見て、五つの重瞳が楽し気に躍る。

『いくら妖しとは言え、妖鳥自体はそんなに強い種族じゃねぇし、男の方は病持ちだったからな。非力な人間でも、数で圧倒すれば容易いことだった。まずは女の方を捕らえて男の前で散々嬲って殺し、そのあとで、男の方も腐った身体を少しずつ削いで殺した。なにせまあ酷い殺し方だったもんでな。死体はあっちこっちへ散って、最終的にどこへいったのやら。ま、その辺の獣なり虫なりが食って掃除はしたんだろうさ』

 全身から力が抜けていくような、そんな感覚が椿を襲う。混乱する頭はやはり働こうとせず、しかしぼやけた思考が、まるで抵抗するように、この目の言うことが真実だとは限らないだろう、と椿に訴えた。

 だが、目はそれすらも嘲笑うように言うのだ。

『嘘じゃねぇぞ。本当のことじゃなきゃ、俺が困るんだ。本物じゃなけりゃ、俺の糧にはならねぇからな』

 そう言って、目は話を続ける。

『そうやってお前の両親を殺して、そこから先はお前の体験したとおりさ。在りもしねぇ盗人の罪をお前に肩代わりさせ、生かさず殺さずこき使い続けた。お前を追い出せと言った里の人間の叫びも、それを哀れだと庇った里長の情も、全部ただの茶番さ。お前の両親がこの里に来た時点で、……いや、お前の父親が俺の撒いた病に罹った時点で、お前の結末は決まっていたんだ』

 倒れた伏した頭を何度も何度も殴られるような、そんな痛みにも似たものが椿を襲う。

 椿はこれまで、両親の行いを罪と認識し、それを償うためにと、全てに耐えてきた。どんな扱いを受けても一言も文句を言わず、泣き言も吐かず、ただただ、罪を濯ぐためにと尽くしてきた。そしてその集大成として、今ここにいる。その筈だった。

 それが、蓋を開ければ両親に罪などなく、それどころか、椿が命を以って守ろうとした里の人間たちこそが、椿から両親を奪い、自由を奪い、未来を奪ったのだと、そう言うのだ。

 ならば、椿が生きてきた意味は何だ。耐え忍んできたのは何のためだったのだ。

 これまで歩んできた道の全てが音を立てて崩れていくような感覚に、椿は正しく絶望した。絶望して、そして、それからどんどん別の感情が流れ込んでくる。

「…………なんの、ために……、」

 掠れた音で微かに落ちた声に、五つの瞳孔がぎゅるりと回った。

『俺のために』

 迷いなく放たれた言葉は、これまでで一番愉悦を含んだ声をしていた。

『全ては俺の糧となるために、だ。俺はな、生き物の絶望や憎悪、怨嗟なんかを代表とする、負の感情を食うんだよ。いや、感情だったらまあなんでも良いんだが、俺の好みでな。こういう鉛や泥みてぇな感情ってのは、この上なく甘美なんだ。だから、里の連中にはそれを用意して貰ってる。そして俺はその代わりに、この土地を豊かにしてやってる。まあ、共生ってやつだな』

 声が折り重なるようにして椿の胸の奥に淀んでいき、それが重さを増すごとに、椿の中に感情が渦巻いて落ちてくる。

『別に、生き物なら何でも良いんだが、用意するのに手間と労力がかかる以上、あんまり短命なのは好ましくない。だからな、お前らなんだよ。妖しってのは比較的長命な奴が多い。大した力もないお前ら妖鳥だって、二百くらいまでなら生きるだろ?』

「…………食べられるのが感情、なら、肉体は、死なない……」

 顔を俯け地面を見ながら椿がそう呟けば、目はまた嗤うような声で言った。

『そうだ。俺はただ、生まれた感情を食うだけ。食うっつっても、食ったことでその感情がなくなる訳じゃない。浴びるつった方が近いのかもしれねぇな。まあなんにせよ、贄がそれで死ぬことはない。そしてお前は、死ぬまでそれを生み続ける家畜だ』

 声と共に、椿に巻き付く闇たちが、徐々にその拘束をきつくしていく。

『ちっぽけな命が消えるそのときまで、俺のためにその感情を捧げろ。ここで俺に囚われ、外に出ることも叶わず、お前を捧げて幸福を享受する連中を養う糧として、無為に生き続けろ。それが、俺の贄の役割だ』

 囁く声が誘う。無垢な感謝を抱き、嘆いても涙することなく、ただ高潔であろうと努めた幼い彼の心を、いとも容易く染め上げる。

 椿が抱いたのは、これ以上ないほどの悲しみだ。椿が抱いたのは、底が見えないほどに深い絶望だ。椿が抱いたのは、果てなど存在しない憎悪だ。それらが怨嗟となって、椿の心を満たしていく。そして鮮やかに染まったその色に、五つの瞳孔は初めて、その全てで椿を見つめた。

『ああ、ほら、やっぱり俺好みの、良い色だ』

 恍惚とした声が耳元で響いたが、椿にとってはもう、どうでも良いことだった。

 こんなもののために、椿は罪のない両親を罪人として扱い、自由であるべきだった己に自ら枷を嵌め、罰せられるべきだった筈のものたちの幸福となるのだ。ああ、なんて無様で、なんて醜いのだろう。

 力なく俯いた顔に嵌まる両眼に張る水の膜が、じわじわと盛り上がってくる。そしてとうとう溢れたそれが、椿の目から零れ落ちようとした、そのとき。


 りぃん、と、澄んだ鈴の音が辺りに響き渡った。


 それと同時に、背後から突如白い手が伸びてきて、椿の両目を柔らかく覆う。そしてその耳に、優しく囁くような声が落ちてきた。

「落としてはいけない。君は気高く、穢れないのだから」

 ああ、耳によく馴染む、春にそよぐ風のような声だ。夏に流れる川のような音だ。椿はこの音色を知っている。椿が生きてきた短い時間の中で、椿に残っている記憶の中で。その声だけが優しかった。その声だけが、椿を椿として扱ってくれた。

「…………おぼろ、さん、」

 弱々しく震える声が名を呼んで、そして彼は、それに応える。

「君は選んだ。だから、助けに来たよ、椿くん」

 声がそう言って、椿の目を覆う掌がそっと外される。そして声の主――朧は、椿の前へと一歩進み出た。

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