愛縁危縁 9
そうやって揺られ続けて、どれくらいの時間が経っただろうか。
唐突に籠の揺れが止むのと同時に、籠が地面にゆっくりと降ろされるのを椿は感じた。
着いたのだろうか、と椿が思っていると、籠の外から誰かの手が入ってきて椿の背に回った。そして、出なさいという里長の声が耳に入る。
手に誘導されてゆっくりと地面に足を下ろすと、足の裏に固い感触が伝わった。土ではない。恐らく、岩肌だ。
「ここから先は歩きだ。椿、私が誘導するから、お前は足元に気をつけてゆっくり進みなさい」
椿に下駄を履かせたあとで長はそう言い、椿の肩に手を回した。半ば抱えるような強さのそれは、視界が閉ざされた中で歩かなければいけない椿にとってはありがたく感じられた。
でこぼことした歩きにくい地面を、殊更ゆっくりと歩んでいく。時折滴る水の音が聞こえるこの場所は、風を感じず、あらゆる音が反響しているようだった。ここが贄を捧げる洞窟なのだろう、と椿は思った。
響く足音は、椿と長と、あともう一人分。小さく聞こえたやり取りから察するに、椿を支えている長に代わって灯りを持つ人物が一人いて、それ以外は全員籠のところで待機しているようだった。
一歩一歩慎重に足を運び、そろりそろりと歩み続け、暫くが経った頃。淀みなく動いていた長の歩みが止まった。そして、その身体がすっと椿から離れる。
唐突に縋るものを失って不安に駆られる椿に向かい、長の声が言う。
「きちんとお勤めを果たすのだよ、椿」
鼓膜を揺らしたその音に、椿は布の下で僅かに目を開いた。そして、見えもしないのに、思わず声の方を振り返る。だが、二人分の足音は止まることなく、早々に後方へと離れて消えていった。
一人残された椿は、鼓膜にこびりついて離れない長の声を払うように、耳に手を触れた。
気のせいだ。気のせいのはずだ。そう思うのに、一度浮かんだ疑念は消えようとしない。
(…………気のせい……? ……、本当、に……?)
椿を置いて去る長の声に、ほんの僅かな喜色が混じっていたような、そんな気が――
『――ああ、良い色だな』
突如響いた声に、椿は驚いて肩を跳ねさせた。慌てて周囲を探るように耳を澄ますと、椿の身体が向いている方から、何かを引き摺るような音が聞こえた。重いものではない。が、単数でもない。喩えるなら、いくつもの帯が地面をしゅるしゅると滑るような、そんな音だ。
『疑いの中に未だ芽吹かぬ僅かな怒りと恨みの種を滲ませる、良い色だ。俺好みに仕上げてきたな』
笑いを含んだ声がそう言い、椿は思わず一歩後ずさろうとして、地面にあった突起に引っ掛かって後ろに倒れた。
「っ!」
咄嗟に身体を捻って頭を打つことは避けたが、その代わりに固い地面に右肩を打ち付け、思わず呻く。
『ははは、そうビビるなよ』
面白そうに笑った声に、椿は上半身だけを起こしてから、なんとか声を絞り出す。
「……山神様、ですか……?」
その問いに、声が軽い調子で応える。
『ああ、お前の里の人間は俺をそう呼ぶな』
「…………では、本当は、山神様では、ない……?」
震える音で紡がれたその言葉に、声はこれまでとは違う嘲りを含んだ笑い声を上げた。
『まるで意味のねぇ問いだな。そんなもん、誰かが神と呼んだなら神なのさ。お前、自分の名はどうやって決めたんだよ。誰かが決めたんだろ? 同じだよ。お前らが俺を山の神と言った。だから俺は山の神だ』
言いながら、声は段々と近づいてくる。
『まあそんなことはどうでも良い。重要なのは、お前が使い物になるかどうかだ』
そんな言葉が聞こえたのと同時に、何かが椿の頬を撫でた。反射的にびくっと震えた椿は、自分に触れたそれから感じた、今までに覚えのないような感触に、頭の中で疑問を浮かべる。
人の肌とは違うし、獣のそれのようにも思えない。もっとのっぺりとしていて冷たく、けれど蜥蜴のように鱗がある訳でもなければ、蛙のようにぬるつく感じがある訳でもない、不思議な感触だ。
自分に触れているものの正体が判らない、という未知への恐怖が、椿の思考をゆっくりと浸食していく。だが、椿はもう逃げようとはしなかった。
この声の主が山の神だと言うのならば、それに捧げられるのが椿の役目だ。ここで本能に任せて逃げて機嫌を損ねれば、里に危害が及ぶかもしれない。それは、椿の望むところではなかった。
己の役目を脳内で反芻しながら、必死にその場に留まり続ける椿に、声はやはり楽しそうに笑った。
『別に逃げようとしたって良いんだぜ? どうせ逃げられねぇから』
声と共に、得体の知れない何かがするすると椿の身体を這う。椿が洩れそうになる悲鳴を堪えながらじっと動かずにいると、それは椿の腕と頭の後ろに回った。
『取り敢えずはまあ、その邪魔な拘束を取ってやろうか』
そんな言葉とともに椿の腕を縛っていた紐が解かれ、目を塞いでいた布が緩んでぱさりと落ちた。
『ほら、これで俺が見えるだろ』
言われ、椿は尻込みした。今のように見えないことを畏れる恐怖があるように、見えてしまったことを畏れる恐怖もあるものなのだ。そのどちらの方がマシだろうかと、そんなことを考え、そして椿はすぐに首を振った。
山の神は、見ろと言っているのだ。ならば、椿に逆らうという選択は許されない。
そんな思いで、己を奮い立たせて瞼を押し上げた椿は、次の瞬間絶句した。無意識に開いた口が空気を求めるようにぱくぱくと動き、見開かれた目が
『よお、初めまして。俺が
そう言ったのは、巨大な目だった。洞窟の奥一杯を覆うように広がる闇の中に、大きな目がひとつ、ぽかりと浮かんでいるのだ。そして、その目が纏うようにして揺れる闇は、無数の触手のような帯のようなものを蠢かせている。恐らく、先程椿に触れたのはあれの一部なのだろう。
恐ろしい様相の存在だ。だが、姿もさることながら、何よりも椿を怯えさせたのは、目の中に浮かぶその瞳孔である。
気味が悪いほど混じり気のない白をした地の中に、真っ赤な瞳が五つ、詰まっているのだ。それぞれの瞳は独立しているようで、てんでバラバラに動いで辺りを見渡している。その内のひとつが、椿を見下ろしていた。
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