愛縁危縁 8

 次の日の早朝、椿は里長に連れられ、客間へと足を運んだ。そしてそこで、里長の妻により、上質な振袖に着替えさせられる。

 こんな高級そうな振袖がどうしてあるのだろうかと疑問に思いつつも、男である自分が女物の着物で着飾って良いのかと問えば、山神様は綺麗なものが好きだという話があるから良いのだ、と返された。

 椿はこれまでの儀式がどんなものだったのかは知らないが、過去の儀式もすべて、男女に関わりなく贄は振袖を着たのだろうか、とぼんやり思った。

 赤を基調とした振袖に身を包んだ椿は、今度は普段里長とその家族が食事を取っている座敷へと連れていかれた。言われるままに入室すれば、今まで見たこともないような豪華な食事が並んでいて、椿は思わず目を丸くする。

 一体ここで何をすれば良いのだろうか、と困惑する椿に、長は普段自分がいる上座に座るようにと指示を出した。その言葉にも戸惑った椿だったが、きっとこれも儀式の一環なのだろうと判断し、大人しく上座に腰を下ろす。

 そうして椿が座ったところで他の皆も席につき、長の言葉で食事が始められた。

(覚えている限りだと、誰かが用意した食事を食べるのなんて初めてだな……)

 胸中でそう呟いた椿は、ここ数日で朧に出したものよりも遥かに豪勢な食卓に恐縮しながらも食事を口に運んだ。

 会話のない、ただ静かなだけの朝餉の時間が過ぎていく。長もその家族も言葉を発さず、椿もまた、黙々と食事を口に入れる作業に徹した。嫌でもこの先のことを考えてしまうせいか、美味しい筈の料理は味気なく重りのように胃の腑に落ちていくだけだった。

「椿」

 長がそう椿の名を呼んだのは、椿が最後の一口を飲み込んだあとだった。

「なんでしょうか、旦那様」

 長を見て返事をすれば、長はひとつ息を吐いた。

「贄として送り出す者の最後の食事は、可能な限りの贅を尽くしたものにすると、そう決まっている」

 それを聞いて椿は、ああなるほど、と思った。つまり、これが椿の最後の食事だったのだ。

「……恨んでいるか?」

 ぽつりと、里長がそう零した。それに対し、椿は数度瞬いたあとで、首を横に振った。

「いいえ。旦那様もご家族様も、僕をここにおいて養ってくださいました。里の皆さんも、僕のことなどきっと追い出したかっただろうに、ここにいることを許してくださいました。両親に捨てられたあのとき、まだ物もよく判らない僕を救ってくれたのは、間違いなくこの里です。あそこで里から追われていたら、僕は間違いなく野垂れ死んでいたことでしょう。……ですから、恨みなどありません。この身ひとつで皆さんへのご恩が返せるのであれば、どうぞ差し出してください」

 恐怖はある。生きたいという気持ちもある。だがそれでも、椿は嘘偽りのない心でそう言った。里によって生き永らえた命ならば、里のために使うのは道理だ。

 そんな椿の言葉に、長もその家族も何も言わなかった。ただ長だけが、少しの沈黙のあとで、そうかとだけ呟いた。

「……では、向かうか」

「……はい」

 立ち上がった長に倣い、椿も静かに腰を上げる。

「山神様のもとへは、私と各家の代表が連れていく。家内や子らとは、ここでお別れだ」

 長の言葉に、椿はこくりと頷いてから、座敷に座っている長の妻と子に深く頭を下げた。

「長い間、お世話になりました」

 心からの礼には沈黙しか返ってこなかったが、椿は気にせず顔を上げ、長へと向き直った。それを見て歩き出した長の背を追い、椿も部屋を出る。

 大人しく後ろからついてくる椿に、長は振り返らないまま口を開いた。

「このあとは、外に出て山神様のもとへと向かう。今頃、同行する皆が籠を持って家の前まで来ている頃合いだ」

「……籠、ですか?」

「ああ。お前を乗せて山を行くための籠だ。その着物で足場の悪い山道を歩くのは、難儀するだろう」

 長の言葉通り、玄関から出た先に待っていたのは、質素な造りの籠だった。代々の儀式で使われている由緒ある物、ではないのだろう。少なくとも椿は、ここ数年の間に作られたような新しさを感じた。

(……そういえば、代々の儀式は一様ではないって話を聞いたことがあるな。もしかすると、籠で贄を運ぶのは初めての試みなのかも)

 となると、贄に振袖を着せるのも初めてなのかもしれない、と椿は思った。

 そうこうしているうちに、里の人間が椿の目を布で覆って隠して、両腕を後ろ手に縛った。きつく縛られた訳ではないが、ちょっとやそっとでは外せそうにない拘束は、勝手に目隠しを外さないようにするためのものだと言われた。

 そのあとで、椿は誰かに誘導される形で籠に乗せられた。申し訳程度の座布団のようなものが敷かれているようではあるが、お世辞にも座り心地が良いとは言えない籠だった。何度か身じろいだ椿が腰を落ち着けると、それを合図に籠が持ち上がる。

 あとはもう、ただ揺られるだけだった。途中途中で籠の運び手を交替しながら、一行は山へと入り、儀式の場を目指して進んでいく。目隠しのせいで何も見えない椿には、木々の隙間を通る風の音や鳥たちのざわめきから、籠が確かに進んでいることがかろうじて判るだけだった。

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