愛縁危縁 7
午前中の仕事を終えて自室へ戻った椿は、ふうと息をついた。それから外へと目をやって、雪化粧が窺える山を見る。
(……明日、かぁ)
心の中でぽつりとそう呟き、椿はそっと膝を抱えた。
朧がこの里にやってきてから、九日が経った。明日、椿は儀式の贄として山の神に捧げられる。
だからなのか、今日の午後の仕事は全てしなくて良いと言われていた。恐らく、明日で終わる命を憐み、半日の自由を与えようということなのだろう。その心遣い自体は嬉しく思うが、だからと言って椿にはしようと思うことなど何もなかった。
物心ついたときにはもうこの里にいて、二十年近くずっとこの家の雑務をこなすだけの毎日だったのだ。今更望むことはなく、たった半日で叶えられるような願いも持ち合わせていない。
こんなことなら、いっそ今日もいつも通りに仕事に追われていた方がまだ良かった。そうすれば、嫌でも首をもたげてくる生への執着を思わずにいられただろうに。
(…………雪、増えた気がするな……)
現実逃避のように、椿はふとそんなことを思った。そのままなんとなく過去を反芻して、やはり山を彩る雪の量が増えた、と胸の内で呟く。
例えば十年前は、ここまで山が白に染まることはなかったように思う。目まぐるしい毎日の中では記憶も朧気だが、もしかすると、年々山に降る雪は増えていたのかもしれない。
そこまで思ったところで、椿は息を吐いて視線を落とした。こんな逃避をしたところで、意味などない。
雑務の傍らで聞こえてきた噂によると、儀式を行わなくても済むようにと、朧が随分と尽力してくれたらしいが、結局今日この日まで何も変わらないということは、そういうことだ。
果たして朧が本当に山の神を退治すると言ったのかどうかは知らないが、どのみち椿は、里の人間がそれを許すとは思っていなかった。儀式は罪の償いであり、おいそれと止められるようなものではない。増してや償うべき対象を討つなど、許される行為ではないだろう。
だから、椿の未来はとうの昔に決まっていた。椿は明日、あの山の奥にある洞窟に連れていかれ、そこで生を終えるのだ。
「…………死にたく、ないな」
ぽつりと、小さな声が零れる。
思わず落ちたそれは、いつの間にか降り始めた雪の音に紛れて、椿の耳にすら掠れて届いた。
「ああ、それを聞いて安心したよ」
不意に背後から声がして、椿はばっと振り返った。驚きに見開かれた赤の瞳が、障子戸の向こうに影を捉える。
「……朧、さん」
姿が見えずとも、声で判った。そして、誰に伝えるつもりもなかった言葉を聞かれてしまったという事実が、羞恥心という形で椿に向かう。
自分で考え、選び、決めた答えだ。それに今更尻込みをするなど、そんな情けないところを見せるつもりはなかった。椿は高潔からはほど遠いただの子供であるからこそ、死にいく自分自身への手向けとして、せめて上辺だけでも高潔であろうと思っていたのに。
ほんの僅かな油断と揺らぎで、これまで積み上げてきた全てが崩れ落ちたような感覚だ。必死に踏み堪えていた地面が唐突に消え失せたように不安定になり、椿の意思に反して目頭がじわりと熱くなる。
だが、しかし椿はそれを堪えた。誰に見られている訳でもなく、その一粒で何かが変わる訳でもない。それでも椿は、唇を噛み、無様な顔を晒して零れ落ちることがないようにと、必死に耐え抜いた。それを落としてしまったら、本当にすべてが無駄になってしまう。そんな強迫観念が、溢れる筈だった雫を全て目の内へと押し戻した。
潤み出していた目を精一杯に開いて乾かし、常の瞳を取り戻そうと大きく呼吸をする。そうして椿が落ち着きを取り戻したところで、まるでそれを待っていたかのように、障子戸の向こうの影が言葉を落とした。
「今日まで交渉を続けてきたけれど、残念ながら、やっぱり私は儀式当日は里にいられないようなんだ。それどころか、もう二度と立ち寄るなとまで言われてしまってね。まあ、古くからの慣習にあれこれ口を出してしまったから、当然のことではあるんだけれど」
幾分気落ちしたようにも聞こえるその声に、椿は申し訳なさで一杯になった。
「……すみません」
「どうして君が謝るんだい?」
「……朧さんは、儀式が気になっていたのでしょう? でも、僕を気に掛けてくださったせいで、今回の儀式を見ることは勿論、その結末を知ることもできなくなってしまったではありませんか」
椿の言葉に朧は、ああ、と言った。
「体の良い言い訳を与えてしまったのは確かだけれど、どのみち私は今日中に追い出されていたし、二度と来ないようにと言われていたよ。そうでなければならないからね」
「……そうでなければならない……?」
問うように言葉を繰り返した椿に、障子の向こうの気配が小さく笑った。
「ああいや、気にしないでおくれ。兎に角、私はこれで失礼することになったから、挨拶をと思ったんだ」
「そう、ですか」
ならば、障子戸を開けて見送るべきだ。そう判っているのに、椿は動けずにいた。朧に直接会って、あの青い目で見られてしまったら、自分の心の奥が見透かされてしまうような、そんな気がしたのだ。
動く気配のない椿に、しかし朧はそれを咎めることはなかった。その代わりに、戸の向こうの影が動いて、何かを床に置くのが見えた。
「これは私からの
そう言い残して、影がすっと離れていく。それを追おうにも、椿の心は立ち上がることも許してくれず、結局椿が障子戸に手を掛けたのは、朧がいなくなってから随分と経ったあとだった。
「……根付け……?」
戸を開けた先の床にころんと置いてあったのは、小さな鈴の根付けだった。
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