空音の揺籃 1
夢を見ている。
夢の中で、椿は幼い子供だった。まだ物の道理も判らない、小さな小さな子供だ。その幼い椿の中に、今の椿が入り込んでいるような感覚だった。
椿がいるのは、朧に出会うまでずっと過ごしてきたあの村の長の家だった。その家の座敷で、幼い彼はぽつりと座っている。すぐ近くでは、見たことはあるが記憶のそれよりもずっと若い女が、監視するかのようにじっと椿を見ていた。
夢の中の小さな椿は、幼さ故に自分が置かれた状況を詳しく把握することはできなかったが、それでも不穏な空気を感じ取って、じっと大人しくしていた。
(……ああ、あのとき、なのか)
椿はふとそう思った。こんな幼い時分のことなど殆ど記憶に残っていないが、これは自分が両親と別たれたときのことなのだと、不思議とそう悟ることができた。
二人は幼い自分を置いて、山へと向かい、そして。
(今からでも追いかければ、二人に会えるのかな)
そうしたところで、どうなるものでもない。そもそも椿は両親の顔も覚えていないのだから、夢の中で二人が明瞭に再現されることもないだろう。それに、追いかけた先で両親に会うことができたとしても、その先に待っているのは目を覆いたくなるような光景のはずだ。
だが、それが判っていてもなお、椿はどうしても両親のことが気になってしまった。追ったところで意味はなく、見たくもないものを目の当たりにするだけだと理解しているのに、それでもどうしてか、椿の意識は両親が消えた山へと向いてしまう。
早く追いかけなければ、という焦燥感が椿の脳裏をぐるぐると渦巻いたが、しかしそれは夢の中の幼い椿には何の影響ももたらさない。相変わらずじっと大人しくしている自分自身に、何故動かない、何故伝わらないのだと、椿はもどかしさでどうにかなりそうだった。
そんなとき、突然座敷と廊下を隔てる障子が開けられた。幼い椿がちらりとそちらを見て、小さく目を瞠る。彼の中に宿る椿も、障子の向こうにあった姿に驚きを隠せなかった。
開いた障子の先に立っていたのは、妙齢の女性だった。使用人らしき男性に背を押されて座敷に入ってきた彼女は、長い艶やかな黒髪に大人しそうな美しい顔つきをしていて、そして、椿のそれによく似た赤い瞳が印象的な人だった。
「……おかあさん」
(お母さん)
幼い椿の呟きと、声にならない声で紡がれた椿の言葉とが重なった。
椿は父の顔も母の顔も覚えていない。それなのに、夢の中の幼い椿だけでなく、どういうわけか椿自身も、現れた女性が自分の母であるのだと確信した。
「椿」
母が小さく名を呼んで、静かに歩み寄ってくる。幼い椿は母の姿に安心していたが、同時に彼女の悲しそうな顔が気がかりで仕方がなかった。幼子なりに平常ではない母を思い、そわそわと落ち着かない気持ちでいるのだろう。それは、幼い椿と一体になっている椿にも伝搬してくる。
そんな我が子の心の機微に、母は気づいたのだろう。彼女は椿の前まで来て畳に膝をつくと、そのままぎゅうと彼を抱き締めた。
柔らかく温かな温度に包まれた椿は、自分を抱きしめる彼女から、花のような甘い香りが漂ったのを感じた。ああ、母の匂いだ。優しい香りを前に安堵の表情を浮かべた幼い椿だけでなく、母のことなどまるで覚えていない椿までもが、これこそが母の匂いなのだと強く感じた。
「椿、椿、……大丈夫よ、私が傍にいるから。私が、あなたのことを守るから……」
耳元で母がそう囁き、そっと頭を撫でてくれる。彼女の声音は優しくもどこか悲愴で、そして決意に満ちていた。母のぬくもりにすっかり気を取られている幼子は、もう彼女の様子など頭から抜け落ちてしまっているようだが、椿の方は、彼女の様子に悟るものがあった。
これは、あのときだ。けれど、あのときであってあのときではない。
どうやらこの夢は、現実世界において椿が両親と別れたときに、母は椿の元に戻り、残ってくれたと、そういう内容であるらしい。
無論、有り得ないことだ。あの村にいた化け物は、絶望や憎悪などの負の感情を好んで餌としていた。そのためには、椿はあの村で拠り所を持ってはならず、肉親という存在は不必要なのだから。もし仮に、母が現実でも父と共に山に登らず、村に残っていたとしても、結局彼女は無残に殺されていただろう。それにそもそも、母は父の病気のためにこの村を訪れたはずだ。ならば、病に侵された父を一人で山に登らせるなど、する筈もない。
その辺りはどうなっているのだろう、と考えたところで、夢に整合性を求めることの愚かさに気づいた椿は思考を打ち切った。その間にも、母は幼い椿を撫で続けていて、髪を滑るその心地良さに、幼い椿と椿はいつの間にか、微睡の深くに落ちてしまっていた。
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