空音の揺籃 2

 ふと気がつくと、椿は畑をせっせと耕している最中だった。目線の高さから、先ほどまでいた場面から幾分か時間が経ち、成長した自分の中にいるのだと思い至る。

 とはいえ、この椿も今の椿と比べるとまだまだ幼い。小さな身体にとって、手にした農具は大きくて重く、振り上げるだけでも精一杯という有様だった。それでも、幼い椿は今日中にこの広い畑一面を耕さなければならない。それが自分に課せられた仕事だから、きちんとこなせなければ食事の量を減らされてしまうのだ。だからどれだけ腕が怠くなっても、必死に農具を振り上げて、振り下ろす。苦しいも辛いも口にすることなく、ただ黙々と腕を動かす。

 こういう日もあったな、と、椿はかつての日々を思い出した。畑仕事も、洗濯も、掃除も、料理も、どれもこれも、初めの頃は大変だったものだ。特にこうした体力仕事はいっとう辛くて、けれど泣き言を零す先もなく、言う資格もないと思っていたものだから、ひたすら必死に働いた。

 そうやって椿が過ぎ去った日々に思いを馳せていると、幼い椿が鍬をざくりと地面に刺して、柄にもたれかかるようにして動きを止めた。そのまま彼は、荒い呼吸を繰り返しながら静かに目を閉じる。

 こうして休んでいる暇などないと、幼い椿は判っていた。けれど、全身に重くのしかかる疲労が、その動きを止めてしまうのだ。

 これも、椿がかつて通った道だ。それ故に、幼い椿から伝わる苦しさは椿にもよく判る。そして、自らも経験したことだからこそ、この後自分がどうするのかもよく知っていた。

 彼はきっと、あともう少しだけ休んだら、またすぐに鍬を振り上げ始めるのだ。今すぐ倒れ込んでしまいたいような身体に鞭を打って、自らに課された仕事に再び向か、

「椿、大丈夫?」

 小さな椿が鍬を握り直したそのとき、ふと背後から優しい声が聞こえたかと思うと、そっと肩を抱き寄せられた。それに少しだけ驚いたような顔をした幼い椿が、頭上を振り仰ぐ。視線の先、椿を見下ろして微笑んでいたのは、長い黒髪に赤い瞳の美しい女性――椿の母だった。

「お母さん、もどったの」

 小さな椿が嬉しそうに頬を緩ませて笑うと、母もまた柔らかな笑みを深めた。その顔は少し前の場面、村長宅の座敷で見たときと変わらぬ温かさを湛えていたが、そのときと比べると少しやつれて、顔色も良くないように見える。だが、彼女は表情に疲労を滲ませるようなことは一切せず、小さな椿の手から優しく農具を取り上げて、ぽんぽんと頭を撫でてきた。

「ええ、今戻ったところなの。ごめんなさいね、あなた一人でやらせてしまって。お母さんが代わるから、椿は少し休みなさい」

「でもお母さん、ぼくまだがんばれるよ」

「あら、それは凄いわ。強くなったのねぇ。でも、お母さんも椿に負けないように頑張らないと。だから、そうね、椿はお母さんのことを応援していてくれる?」

「ん……、おうえんは、するけど……」

 母の提案に、幼い椿は少し不満そうな声を上げる。すっかり疲れきっているのは事実なので、休めること自体は嬉しい。けれど、だからといって大好きな母にばかり働かせるのは嫌なのだ。母が働くのならそれを手伝いたいし、自分が休むのなら母も一緒に休ませてあげたい。

 そんな我が子の考えは、母にはお見通しであるらしい。彼女は少し考える素振りを見せると、次いで浮かべる笑みを微かに深め、口を開いた。

「そうねぇ、それじゃあ、応援しながら、土を耕したところの雑草を取ってもらってもいい?」

「うん! まかせて!」

 母からのお願いに、小さな椿は疲れを忘れたかのように元気な返事をした。そんな様子に、母はいい子ねと言って、また椿の頭を撫でてくれる。

 それから母は、幼い椿が作業を終えたところの続きから、鍬を振るって土を耕していった。小さな椿の方は、柔らかく掘り返された土から邪魔な雑草を取ってまとめつつ、時折母に向かって頑張れと声を掛ける。そうすると、母はありがとうと笑って返してくれて、その度に小さな椿の胸の内がほわほわと温かくなるのを、椿は感じていた。

 そして、ああそうか、と椿は胸中で呟く。ここには母親がいるから、この幼い椿は、誰かに頼ることができるのだ。

 それをどこか呆然とした心地で眺めている椿の気持ちを置き去りに、夢は場面を変えながら進んでいく。

 夢の中の幼い椿は、信じがたいほどに恵まれていた。無論、村八分に近い扱いをされていることは同じだし、過酷な仕事を多く与えられていることも変わらないので、当時の椿と比べて生活が楽だということはない。けれど、苦しいときも悲しいときも、数少ない安堵のときも、この夢の中の幼い椿の隣には、いつも優しい母の姿があった。

 冬場の水仕事のせいで小さな手にできたあかぎれが痛んだとき、同じように荒れている手が包み込んで温めようとしてくれた。掃除の際に誤って家財を傷付けてしまったとき、厳しい折檻から椿を庇ってくれた。山菜取りも、二人でやれば一人のときよりずっと早く終わって、少しばかりできた時間で、一緒にこっそりとアケビを食べて美味しいと笑い合った。どんなに苦しくて大変な仕事を押し付けられても、母が優しくありがとうと言ってくれれば、それだけでいくらでも頑張れるような気がした。

(……ああ、お母さんがいるって、こういうことなのか……)

 隣にその人がいるという幸福を浴びながら、椿はぼんやりとそう感じた。そのとき胸の奥に閃いた何かは、幸福だったのか、悲しみだったのか、もしかすると、嫉妬だったのかもしれない。だが椿がその正体に辿りつく前に、またも時間は飛び石のように次の場面へと移ろう。

 そうして次に椿が意識を浮上させたとき、彼は全身を襲う怠さと息苦しいほどの熱を幕一枚隔てた場所から味わうような、不思議な心地の中にいた。今まで感じたことのないその感覚に初めは戸惑った椿だったが、その正体は、体調を崩した幼い椿が感じているものだった。身体を共有しているとはいえ、この身体に対して椿は異物だから、身体の感覚全てが直接的に伝わるものではないのだ。

 そういえば、こうやって日々の労働に耐えきれず、身体を壊してしまったこともあったな、と思い出した椿は、しかし自分のときとは違い、この幼い椿の隣には優しく我が子を労わる母がいることに気づいた。

 すっかり風邪に侵された身体は、指ひとつ動かすことも辛いほどに怠く、こんなにも熱いのに、身体の芯は冷え切っているように寒い。苦しくて、辛くて、いっそ泣きそうで、それでも、幼い椿は働かなければならない筈だ。日課となっている仕事は多く、休んでいる暇などどこにもない。そう思って無理矢理に動こうとする椿を、しかし温かな手が、優しく布団の中に押し留めた。

「大丈夫よ、椿」

 そう言って見下ろしてくる赤に、幼い椿は微かに首を横に振る。熱のせいで上手く回らない舌では、お母さんだって大変なのに僕だけ休むなんて、と思ったことを言葉に紡ぐまでには至らなかった。

 けれど母は、そんな椿の気持ちなどお見通しだった。大丈夫よ、ともう一度言った彼女は、椿の顔にかかる髪をかき分け、熱を持った額に優しく触れて囁いた。

「椿はいつも、お母さんのことをたくさん助けてくれるでしょう? その分今日は、お母さんが椿のことを助けたいの。だからゆっくり、安心してお休みなさい。椿が休んで早く元気になってくれたら、お母さんはとっても嬉しいわ」

 母の手がとても優しい動きで椿を慰撫し、それを受けるとどうしようもなく心が安らいで、動くための残された力が、寝転ぶ布団にするりと溶け落ちてしまった。

 そうして動けなくなった椿をひとり置いて、母は部屋を出ていった。それを横目に見送って、それから椿は、浅い眠りと朧げな覚醒を繰り返し、ふと気がつくと、暗い部屋の中、母の腕に抱かれていた。

 母が戻って身を休めているということは、もうそれなりに遅い時間であるということだ。そんな時間まで寝ていたおかげか、体の怠さは随分と軽くなり、悪寒も殆どなくなっていた。

 覚醒しきらない意識でそれを認識した椿の頭を、子の目覚めに気づいたのか、母がそっと撫でる。お母さん、と開いた口からは呼気が零れる音しか出なかったが、彼女は答えるかのように我が子をいっそうに抱き締めて、静かな子守唄を奏で始めた。そうやって母の腕の中、美しい歌声と、小さくとくりとくりと伝わってくる拍動を聞いているうちに、椿は今度こそ、穏やかで深い眠りに落ちた。

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