影双形対を願う 4
「あら、こんにちは、朧さん。今日は畑仕事のお手伝いですか?」
ある日の昼下がりのこと、畑を耕している朧の元にやってきた鈴は、いつものはつらつとした笑顔でそう言ってきた。
「ああ、うん。源さんが腰を痛めて動けないって言うから、代わりにね。君の方も、その腰関係かな?」
「ええ、早く畑仕事に復帰したいから、一瞬で治る薬をくれですって。勿論そんなものはないから、持ってきたのはただの痛み止めですけどね」
手に持っている薬箱を持ち上げて悪戯っぽく笑った彼女に、朧も微笑みを返す。
「源さんなら家で横になっているから、早く行っておやり」
「ふふ、そうしますね。……あ、朧さん」
「なんだい?」
首を傾げた朧に、鈴がにこりと微笑んだ。
「源さんに薬を渡したらお昼にしようと思ってるんですけど、良かったらご一緒にいかがです?」
ただのおにぎりですけど、沢山作ってきたので朧さんの分もありますよ、と言った彼女に、朧はぱちぱちと瞬きをしてから、見ている方がむず痒くなるような顔で微笑んだ。
「ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えようかな」
「はい、そうしてくださいな」
そう言って笑ってから、家の方へと向かった彼女を見送り、朧も畑仕事を再開する。そうして作業をしながら彼女を待っていると、そう時間を空けずに彼女は戻ってきた。
それを見て手を止めた朧は、畑の隅に鍬を置いてから、傍にある井戸で手を洗って彼女の元へ向かう。
「肉体労働お疲れ様です。じゃ、行きましょうか」
「おや、ここで食べるんじゃあないのかい?」
「どうせなら、あの丘の上にしましょうよ。あそこから見下ろす集落の景色、私好きなんです。朧さんもよくあそこにいるし、お好きなんじゃないですか?」
「ああ、そうだね。私も丘からこの集落を見るのは好きだよ。それじゃあ、丘の木陰でゆっくり食べるとしようか」
朧が定期的に丘に足を運んでいるのは、集落を眺めるのが好きだからではなく、あそこからなら集落が一望できて、些細な異変にも気づくことができそうだからなのだが、そうは言わず、彼女の話に合わせて返事を返した。
(ああ、でも、……この子がいる景色を見るのは、確かに嫌いではないかな)
ふと頭に浮かんだそれに、朧は自分で思っておきながら内心で首を傾げた。
何故、この子がいるだけで景色が変わるような気がするのか。
丘に向かう道すがら、楽しそうに色々な話をする彼女の声を聞きながら、少しの間考え込んだ朧だったが、結局答えらしい答えを得ることができず、まあ良いかと思考するのをやめた。その代わりに、改めて鈴の他愛もない話に耳を傾ける。
昨日診た患者に、熱さましの薬がよく効いたこと。師から新しい薬の調合の仕方を教わったこと。今度薬に使う薬草を採取しに行くこと。
そんな話を取り留めもなく続ける彼女に相槌を打ちながら歩けば、二人はほどなくして目的の場所に着いた。
初夏の気持ちの良い風が吹き抜ける、緑に染められた丘だ。
丘に聳える大きな木の下に向かった二人は、日差しから守ってくれる木陰に腰を落ち着けて、鈴が用意した握り飯と、少し温くなった麦茶を口に運んだ。
世間話のような談笑と共に過ぎていく穏やかな時間に身を委ねながら、朧は隣に座る彼女を見て、知らず唇に微笑みを乗せる。
鈴は、特段美人でもなければ、可愛らしい顔立ちということもない、至って普通の見た目の娘だ。十人いれば十人全員が、どこにでもいそうな平凡な娘だと言うことだろう。それは、朧も理解している。
だが朧には、人々を薬で癒すために駆け回る彼女の姿や、雨上がりの生気に満ちた緑にも似たあの笑顔が、これまで見てきたどんな生き物の姿や在り方よりも尊いもののように思えるのだ。それこそ、外見などではなく、彼女を彼女たらしめている根幹が、何よりも有難いものなのかもしれない。
そしてそんなことを思う度に、朧の内側は落ち着かないような満たされたような不思議な心地で騒めくのだ。覚えのないその感覚は、時折朧を不安にさせるものだったが、同時にこの上ない安心感のようなものを感じるような気もして、彼はどうしてもこの感覚を厭うことができなかった。もしかすると、寧ろそれを好ましいとすら思っているのかもしれない。
「朧さん、聞いてます?」
不意に少しだけ責めるような声が耳に入ってきて、朧はぱちりと瞬きをしてから、いつもの微笑みを浮かべた。
「聞いているよ。お師匠様が、難しい薬の調合法をなかなか教えようとしてくれない、という話だったね」
「あら、本当に聞いていたんですね。なんだか心ここにあらずって感じに見えたので、てっきり右から左に流しているのかと」
「ふふふ、こう見えても私は複数のことを同時にこなすのが得意でね。考え事をしていても、君の話の内容くらいはきちんと把握しているよ」
「さすがは朧さん。でも、それってやっぱり私の話を聞きながら他事を考えていたってことじゃないですか」
少しだけむすくれた顔をした鈴にそう言われ、朧が笑いながら謝罪を口にする。
「いやぁ、それはその通りだ。口が滑ってしまったなぁ。ごめんね」
「もう、まったくどこまでが本当のことなのやら」
そう言って肩を竦めてから、鈴は手に持っていた握り飯の最後のひと欠片を口に放り込んだ。彼女がそれを咀嚼し嚥下してから、麦茶をぐいっと飲み干してひと息つくまでを見守った朧は、そこでそっと口を開いた。
「それで、何があったんだい?」
「……え?」
僅かなぎこちなさと共に首を傾げた彼女を見て、朧が目を細める。
「何か、私に話したいことがあるんだろう? だからわざわざここまで来たんだと思ったのだけれど」
違ったかな、という問いかけに、鈴は驚いた表情を浮かべたあとで、判りやすく躊躇うような素振りを見せた。そんな彼女に向かい、朧が優しく微笑みかける。
「言いたくないのであれば、無理には訊かないよ。けれど、そうでないなら、躊躇う必要はない。それがどんなに変な話だったとしても、きちんと向き合うと約束するから」
まるで心の奥を見透かしたかのようなそれに、鈴はやはり躊躇うような顔をして、けれど決意したように口を開いた。
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