影双形対を願う 5

「……夢を、見るんです」

「夢?」

 朧の声に、鈴が頷く。

「少し前……、多分、三月ほど前から、ときどき見る夢だったんですけど、最近は毎晩のようにその夢を見ていて、その、……なんだか少し、怖いんです。朧さんはこういうことにお詳しいので、もしも何かあるのであれば、教えて貰えないかなと……」

 珍しく表情を曇らせながらそう言った彼女に、朧は努めて優しい声を出した。

「どんな夢なのか、教えて貰えるかな?」

「……暗くて冷たい、水の底にいるんです。息ができないみたいに苦しくて、でも、不思議と呼吸はできてて。それで、なんとか逃げようともがくんですけど、もがくうちに何かが身体に巻きついてきて身動きが取れなくなって、それから、」

 そこで一度言葉を切った彼女が、結んだ手を握り締めた。

「……それから、全身が熱くなるんです。夢だからか、明確な感覚ではないんですが、……きっとあれは、痛みだと思います。全身を火あぶりにされてるんじゃないかってくらいの熱が襲って、そして、その熱の中で、身体が先の方からどんどん崩れてなくなっていって、……そこで悲鳴を上げて、夢から覚めるんです」

 途中途中で止まりながらも言い切った彼女は、窺うように朧を見た。

 そんな彼女の瞳の中に見える怯えを取り除くように、朧は優しく笑う。

「なるほど。教えてくれてありがとう。君がたかが夢だと思わないでくれたお陰で、私も万全の対策を練ることができるよ」

 その言葉に、鈴の顔がさっと蒼くなる。

「そ、それじゃあ、やっぱり、この夢って、何か恐ろしいものの前触れなんですね……?」

 とうとう震え出してしまった声に、朧はそっと鈴の頭を撫でた。そして、彼女の顔を覗き込んで、安心させるように笑いかける。

「大丈夫。私はそれから君を守るために、ここに来たんだよ」

「私を、守る、ため……?」

「正確には、この集落の誰かに起こる何かから、その誰かを守るために、だけれどね。……でもまさか、その誰かが君だとは思わなかったな」

 言いながら、朧は懐から掌ほどの大きさの何かを取り出した。陶器でできた、小さな犬の置物だ。

 これがどうしたのだろうと戸惑いの表情を浮かべた鈴に、朧は置物を差し出した。

「取り敢えず、これからはこの犬を肌身離さず持っておくと良いよ。夜眠るときなんかは特にね」

「……この置き物が、守ってくれるんですか……?」

 半信半疑だというような顔でそう言った鈴に、朧が笑顔で頷く。

「根本的な解決は私が直接するけれど、悪い夢を追い払うことくらいなら、この子でも十分可能だよ」

 そう言われた鈴は、やはり信じきれないという表情を浮かべていたが、それでも差し出された置物をそっと受け取った。そして、犬の小さな頭を指先でひと撫でしてから、朧を見上げて笑顔を見せる。

「ありがとうございます、朧さん」

 恐らく、彼女は朧の言をすべて信じたわけではない。だからこれは、朧の気遣いに対するお礼なのだろう。でも、それで良いと朧は思った。

 真面目で誠実な彼女のことだ。こうして受け取ったからには、きっと律義に置物を身に着けていてくれる。そしてそれさえしてくれるのであれば、朧も彼女を守りやすい。

「ああ、そろそろ午後の往診に行く頃合いじゃあないかい?」

「あ! 本当だわ!」

 朧の言葉に叫んだ彼女が、慌てて後片付けをし始める。手早く支度を済ませた彼女は、朧に向かってぺこりと頭を下げた。

「今日は相談に乗ってくれてありがとうございました」

「いいや、構わないよ。また何かあったら、遠慮なく頼ってね」

 朧がそう言えば、鈴は笑顔で頷いた。そしてそのまま背を向けてぱたぱたと走り去っていく彼女を見送ってから、朧もゆっくりと立ち上がる。

(……さて)

 内心で呟いた朧が、足先でとんと地面を叩いた。すると、そこを起点にふわりと風が起こり、波紋が広がるようにして周囲に拡散していった。

 集落全体に、簡易的な結界を張り巡らせたのだ。朧が今用いたこの結界は、外敵の侵入を阻む力はそこまで強くないが、その代わりに、あらゆるモノの出入りを感知することができる代物だ。

 大河の主の強さが判らない以上、結界によって確実に侵入を阻止できるとは言い切れないし、結界が上手く機能してこの集落に手を出せなくなったとしても、代わりに他の集落が狙われるだけで、根本的な解決にはならない。だからこそ、叩くのであればここで確実に叩くべきだと朧は考えた。

(説得に応じてくれるような性質の存在であれば良いのだけれど、……まあ、恐らくそうはならないだろうな)

 鈴の夢の話を思いつつ、朧は胸中でそう呟く。

 鈴が見たあの夢は、標のようなものだ。主はそれを彼女に見せることで、彼女の位置を常に把握すると同時に、その心を弱らせて楽しんでいる。噂に聞いた通り、獲物をいたぶるのが趣味なのだろう。そしてそんな存在ならば、もうこういうことはするなと言ったところで、聞き入れない可能性が高い。

 好んで命を摘み取ったり歪めたりはしない朧だが、一度手を貸すと決めた対象に危害が及ぶのであれば、それをしない訳にはいかない。

 僅かな憂いを胸に沈めつつ、しかしそれよりも強い庇護の気持ちを感じながら、朧は太陽が眩しい空を仰いだ。

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