影双形対を願う 6

 朧の目論見通り、鈴に置物を授けてから、彼女があの夢を見ることはなくなった。代わりに、眠りに落ちた曖昧な意識の中で、時折犬の鳴き声が聞こえるような気がするのだ、と言って彼女は笑っていた。

 夢への侵入者を追い払うようにと朧が用意したあの犬は、きちんと役目を果たしているらしい。

 暫くの間はそうして穏やかな日々が続いていたが、鈴が朧に夢の話をしてから、ちょうど一週間が経ったその日の深夜。朧が仮住まいとして借りている家に、鈴の師匠である薬師が鈴を連れて訪ねてきた。

 鈴をおぶり、血相を変えてやってきた薬師を見た朧は、すぐさま二人を中へと招き入れた。師の背中でぐったりとしている鈴の頬は赤く、ひと目で高熱があるのだと判るほどだった。

「何があったのですか」

 ひとまず自分が使っていた布団に鈴を寝かせ、師が落ち着きを取り戻すのを待ってから朧がそう問えば、薬師の男は首を横に振った。

「判らないんだ。夜中に突然鈴の悲鳴が聞こえて、部屋に駆け付けたら、鈴が倒れていた。酷い熱で、すぐさま熱さましを用意して口に含ませたりもしたのだが、一向に下がる気配がない。恥ずかしい話だが、俺の手には負えないと思い、あんたを尋ねてきた次第だ」

 夜分遅くに本当にすまない、と力なく言った薬師に、朧はいいえと首を横に振ってから、改めて鈴を見た。

 申し訳程度に濡れ布巾を額に乗せはしたが、この高熱では気休めにもならないだろう。時折小さな悲鳴のようなものを洩らしながら、荒い呼吸を繰り返す彼女の様を見ていると、朧は胸が締め付けられるようだった。

「……ちょっと、失礼するよ」

 そう呟いてから、朧が鈴の胸元へと手を伸ばす。汗ばんだ肌に触れてしまわないように注意しながら服の合わせに手を入れた彼は、そこから小さな巾着袋を取り出した。そのまま無言で巾着を開ければ、中からあの犬の置物が顔を見せる。

(割れてはいない。それはそうだ。これが割れれば、私が気づく。……ということは、別の経路から侵入したな)

 犬が守れるのは、地上だけだ。彼は空も飛べなければ、水中を泳ぐこともできない。

(……大河の主、ということは、水路を創り出して、無理矢理繋げたか)

 恐らくは、それが答えだ。だがそれならば、夢から弾かれたと気づいた瞬間にその手段を行使すればいい。それをしなかったのは、きっとできなかったからだろう。

(恐らく、これまでは物理的な距離がかなりあったから、その分夢への侵入も容易ではなかったんだ。だからこそ、私の護りに勝てず、彼女の夢に入ることができなくなった)

 しかし、それが今夜破られた。このことが示唆するものを正しく理解した朧は、僅かに眉根を寄せた。

(彼女までの距離が近くなったことで、力を届けやすくなり、私の護りを食い破るに至った。……つまり、それだけ主がこの集落に接近しているということなのだろう)

 そこまで考えた朧は、犬の置物を左の掌に乗せて、右手でそっと撫でた。

「空を往き、水を往きなさい。私が許そう」

 朧が短くそう告げた瞬間、どこからともなく力強い犬のひと鳴きが聞こえたかと思うと、荒かった鈴の呼吸が落ち着き、紅潮していた頬がゆっくりと元の色を取り戻していった。

「ひとまずは、これで大丈夫でしょう」

 そう言って朧が薬師を見やれば、彼は驚きを隠せない顔で朧を見ていた。

「……何をしたんだ」

「彼女に送られていた呪詛を、このお守りの力で拒絶しました」

「…………なるほど。薬師の領分からは外れたものが原因だったのか」

 そう言えば鈴が、貴方はこういったことに明るいようだと言っていたな、と呟いた薬師が、普段はあまり表情を見せないその顔に僅かな不安の色を映しながら、朧に向かって口を開いた。

「鈴は、もう大丈夫なのか?」

「……いいえ。呪詛は抑え込みましたが、それでは根本的な解決にはなっていません。これは、鈴さんがとある存在に狙われてしまったから生じている事態だ。そしてその存在は、恐らくもう目と鼻の先まで迫っているでしょう」

 そう。十中八九、大河の主はすぐそこまで来ている。

 朧によって夢への侵入を封じられた主は、恐らく朧の想像を超えて怒り狂い、獲物である鈴の元まで最速でやってきたのだろう。そうしてすぐそこまで来たところで、夢への侵入を阻止した誰かに見せつけるようにして、鈴を苦しめたのだ。お前の護りなど容易く破ってみせたぞと、己の力を誇示するためだけに。

(……やはり、話し合いができるような相手じゃあないな)

 朧が再度呪詛を防いだことで、主の怒りはいよいよ頂点に達しているはずだ。こうなるともう、鈴を救うには主を斃すよりほかないだろう。

 険しい表情でそんなことを思う朧に、沈黙していた男が声を発した。

「俺にできることはあるか」

 短く淡々とした問いは、まるでこの事態に動じていないかのようにも思えるが、そんなことはないことくらい、朧は判っている。

 彼女の師である薬師は、非常に冷静な男だ。だからこそ、今もこうして取り乱すことなく、朧の指示を仰いでいる。だが、その内心は、鈴の危機に気が気ではないはずだ。

「…………まずは集落の人々に、これから何が起こっても家の外に出てはいけないと伝えてください。薬師として信頼されている貴方の言うことであれば、皆さんも聞き入れてくれると思います。それが終わるまでは、私がここで鈴さんについていましょう」

「……それが終わったら、どうすればいい」

「ここに残って、鈴さんの傍にいてあげてください。貴方がいてくれれば、鈴さんも心強いでしょうから」

 そう言って柔らかく微笑んだ朧に、薬師は僅かに沈黙したあとで、朧を見つめた。

「……貴方は、どうするんだ」

 その問いに、朧が一度だけ瞬きをしてから、薬師を見つめ返す。

「諸悪の根源を迎え撃ちます」

 凪いだ水面のようでいて、堅牢で明確な意思を乗せた朧の声が、空気を震わせる。

 それを受け、暫く沈黙していた薬師だったが、大きく息を吐き出したかと思うと、彼は朧に対して深々と頭を下げた。その行動に驚いたような表情を浮かべた朧に向かい、薬師が絞り出すような声で言う。

「どうかよろしく頼む。……この子は、俺の大切な娘なんだ」

 部外者である朧に頼り切ってしまうことに対する罪悪感を滲ませる声で、それでも薬師は朧に頼むと言った。そんな希う声に、朧はしっかりと頷きを返す。

「はい、必ず守ってみせます」

 そう言った朧にもう一度頭を下げてから、薬師はすぐに、朧の指示通り集落の家々を尋ねに出た。一軒一軒に簡単な事情の説明と、家から一歩も出ないようにという忠告をして回り、全てを済ませた彼が朧の家へと戻れば、それと入れ替わるようにして朧が家の外へと出て行った。

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