影双形対を願う 7

「……さて」

 静まり返った集落の中、朧が一人呟く。

 先日張り巡らせた結界には、これと言った反応はない。ということは、大河の主はすぐ傍までは来ているものの、集落にはまだ足を踏み入れていないということだ。

 ならば、集落に被害が及ぶのを避けるために、集落の外で主を迎え撃つという選択肢もある。だが、朧はそれをしようとはしなかった。万が一入れ違いになってしまったら、ここを守るものがいなくなってしまうからだ。

 この場に護衛を置いて朧が主のところまで向かうという方法や、逆に朧がこの場を守り別の何かに主を討伐させる、という方法もあるにはあるが、理を容易く超えてしまうこの力は、できる限り使わないに越したことはない。

 そんな考えのもと、朧はこの場を動かずにただ大河の主の来訪を待った。

 そうやって、短くはない時間が過ぎ去ったそのとき、突如として、地面と空気を震わせる異形の大咆哮が辺りに響き渡った。

 集落の家々を揺らすほどの音は、人々に恐怖を抱かせるには十分すぎるものだったが、誰一人として、家から出て逃げようとする者はいない。その方が危険だということを、薬師がしっかりと説いてくれたのだろう。

(有難いことだ。あちらもこちらも気にしながらというのは、少し面倒だからね)

 迅速な対応をしてくれた薬師に心からの感謝を抱きつつ、朧は声がした方角へと顔を向けた。それと同時に、張り巡らされた結界に何か巨大なものが触れるのを感じる。

「……来たか」

 彼のその呟きに応えるように、ぼんやりと辺りを照らしていた月の光が陰った。月が消えたのではない。何か巨大な影が、空に浮かぶ月を遮ったのだ。

『貴様か、儂の嫁取りを邪魔しようという身の程知らずは』

 地の底を這うような威圧的な声でそう言ったのは、この集落など容易に押し潰してしまえそうなほどに巨大な、魚のような鰭を持つ大蛇だった。

 まるで脅すように、口いっぱいに並んだ鋭利な歯をちらつかせながら、大蛇が朧を見下ろして目を細める。

『儂の夢渡りを防いだ上、広範囲に渡って結界を張り巡らせたことはまあ評価してやろう。だが、夢渡りを防がれたところで儂にはなんの害もなく、あまりに貧弱な結界では僅かな足止めにすらなっておらん。……そう、貴様のそれらなど、儂にとっては取るに足らないものなのだ』

「失礼、状況が状況なものでね。今は要領を得ない話に付き合う気はあまりないんだ。言いたいことがあるなら、もっとはっきりと手短にお願いできないだろうか」

 にこやかな笑顔を浮かべ、しかし遠慮会釈もない物言いでそう告げた朧に、大蛇は怒りも露わに咆哮を上げた。

『虫けら風情が! たかがあの程度で儂に並んだなどと思い上がるなよ!』

 そう叫ぶと共に、大蛇が尾を振り上げる。そのひと薙ぎで辺り一帯を吹き飛ばせるだろう大きさの尾が、天を貫く勢いで掲げられ、まるでそれに呼応するようにして、遠くから地鳴りのようなものが響いた。その音は徐々に大きさを増していき、比例して地面の揺れもどんどんと激しくなっていく。

『娘一人を得たらそれで満足してやろうと思っていたが、最早その程度では儂の気が収まらん! 貴様のような虫が身の程もわきまえず儂に歯向かった結果がどうなるか、思い知るが良い!』

 再び咆哮した大蛇が、掲げていた尾を一際高く上げる。それと同時に地面の揺れと地鳴りが更に激しくなり、そして、大蛇の背後から、すさまじい質量の水の塊が押し寄せてきた。

(なるほど、大河から水を呼び寄せたか)

 津波のように迫る水に土砂や木々が大量に混じっていることから察するに、恐らく空間を超えて水を召喚したのではない。己の住処である大河の流れを操ることで、この村の付近にある森を押し流しながら、物理的にここまで水を到達させたのだ。

 その事象だけを見るのであれば、洪水のようなものなのだが、それと呼ぶにはあまりにも水の質量が多い。それもそのはず、これは自然現象として生じる洪水とは異なり、ある一箇所をのみ狙って起こされたものなのだ。本来であれば広範囲に流れ出すものが、まるで周囲を壁で囲って道筋を作ったかのように、この村だけを目指して押し寄せるのだから、その質量たるや想像を絶するほどである。

 巨大な壁のように聳える水の塊を、朧が見つめる。夜の闇の中で奈落のような黒さを以て向かってくる濁流は、まさに神の怒りと呼ぶにふわさしい。

 そしてとうとう、大蛇の尾が空気を切り裂きながら振り下ろされた。それを合図に、村を丸ごと呑み込んで跡形もなく押し流してしまおうと、水の流れが襲い掛かる。


「……期待外れだな」


 心底残念そうな声がそう言うと同時に、今にも村を呑み込もうとしていた水の流れがぴたりと止まった。凪いだだとか、後退しただとか、そういう現象ではない。まるで時間が凍り付いたかのように、水の塊とそれが内包するものだけが僅かも動かなくなったのだ。

『な、何事だ!?』

 目に見えて狼狽した大蛇が、無意識なのか尾をゆらゆらと彷徨わせる。それを見た朧は、顔に浮かべていた失望の色を濃くして息を吐き出した。

「こうして実際に私を目にして、それでも尚私のことを格下のように言うのだから、程度が知れるというものだよ。別に特別急ぐ旅ではないけれど、それでもこんなことのために三年を費やしたのかと思うと、少々気落ちしてしまうね」

 凪いだ湖面のような声に、侮蔑の色はない。ただ純粋にこの事態を残念がっているだけのような、そんな声だ。だが、大蛇はそうとは受け取れなかったのだろう。

『地を這うことしかできん虫風情が、儂を馬鹿にするな!』

 吠えた大蛇が、力任せに尾を振り上げる。時を止めた濁流の代わりに、自らの肉体を使って村を破壊しようというのだろう。

 だが、朧がきゅっと目を細めた瞬間に、暴風のような勢いで辺りを薙ぎ払おうとしていた大蛇の尾が、その背後で動かない水の塊同様にぴたりと止まった。

『なっ!?』

 驚愕の声を洩らした大蛇を見上げ、朧がまたひとつ溜息を吐く。

「君では私には敵わないよ。相対した相手の強さが見抜けない程度の力しか持っていないのだから」

 そんな朧の言葉に、大蛇は更に激昂して罵詈雑言を吐き散らしたが、困ったような顔をした朧がぱちんと指を鳴らすと、まるで音を奪われたかのように、蛇は声を発することができなくなった。

 そうして静けさを取り戻した夜の中で、朧がさてと言う。

「私はね、生命としての営みや在り方を強く否定するようなことは好きじゃあない。だから、できる限り大目に見ようとは思っているんだ。けれど、憎悪や悲嘆が糧になる訳でもなく、ただ己の快楽のためだけに人の子を攫って痛めつけるという君のそれは、少し悪質が過ぎる」

 言いながら、朧は大蛇の声を縛る力を少しだけ緩めた。緩めたところで大声は出せないままだろうが、普通の会話ならば十分に成立するはずだ。

 その目論見通り、己の声が僅かに開放されたことを悟った大蛇は、朧を見て狼狽えたように声を吐き出した。

『た、たかが人ごときが何だと言うのだ! 弱きものが強きものに虐げられるのは、自然の道理であろうが! 儂が儂の快楽のために、無駄に溢れ返っておる人間を使って、何が悪い!』

 叫んでいるつもりでもか細く掠れるだけのその声に、朧の海のような瞳が一瞬だけ闇の色に閃いた。

「そうか。そうだね。確かに君の言う通り、自然の道理なのだろう。……では、君にもその道理に従って貰おうか」

 そう言った朧が、右手を前へと差し出してからぐっと握る。

 すると、大蛇を中心として半透明の巨大な球体が生じたかと思うと、鱗に覆われた巨躯を丸ごと包み込んだそれは、一気に内側へと収縮した。

『っ!?』

 収縮する球体に圧迫され、大蛇の身体がみしみしと音を立てて折り畳まれていく。朧の力のせいで声を発することができない大蛇は、折られ、潰され、畳まれていく己の身体に、声なき絶叫を上げた。そして同時に、音にならない声の奔流が、朧の頭に直接飛び込んでくる。

 痛い! 苦しい! 怖い! 死にたくない! 判った! 判った! 悪かった! 儂が悪かった! もう二度と人を害したりしないと誓う! だからどうか許してくれ! 助けてくれ!

 わんわんと脳内に響くそれに、朧は流麗な顔を僅かに顰めた。

(聞こえてしまうというのも、面倒なものだね)

 この声は、朧だからこそ聞こえるものだ。大蛇に声を届けているつもりはなく、彼はただひたすら泣きわめいているだけで、朧の方もまた聞く気があって聞いている訳ではなく、これだけ強い想いだと勝手に聞こえてしまうだけである。

 だからこれは、本来であれば聞こえない筈の命乞いだ。だが、だからと言って聞こえなかったことにするには、あまりに苛烈で重い。朧もそれは十二分に理解し、どんな場面でもそういった声をきちんと受け止めてきた。

 だから今回も、大蛇の嘆きと恐怖と懺悔を余すところなく受け止めた上で、朧は容赦しなかった。

 大蛇は骨と肉を砕かれて捻り潰されながら、球体の内側で見る見るうちに小さく小さくなっていく。そして気づけば、朧に聞こえていた悲鳴も止み、辺りには正真正銘の夜の静寂が訪れた。

 そんな静けさのなか、朧が、ふ、と小さく息を吐くと、片手に収まるほどにまで縮んだ球体が地面の近くまで降りてきて、泡のような軽やかな音とともに弾けた。そして中から、ぽてりと何かが落ちる。

 蛇だ。青い水のような、半透明に輝く綺麗な鱗をした、蛇の子供である。

 子蛇はきょろきょろと辺りを見回すように首を巡らせたあとで、朧の姿を見つけてきゅっと首を縮めた。

「おや、全て巻き戻した筈なのだけれど、私に対する怯えが身体に沁みついているかな。けれど、安心して良いよ。今の君に手を出す気はないから」

 判ったならお帰り、と朧が言えば、子蛇はやはり怯えたようにぷるぷると震えたあとで、そろりそろりと身体をくねらせ、そして素早い動きで近くの茂みへと消えていった。

 それを見送ってから、朧は思い出したように上へと顔を向け、未だ時を止めたまま佇む水の群れへと視線をやった。村を呑み込もうとした姿のままぴくりとも動かないそれを見て、数度瞬きをした朧は、それから片手を挙げて、煙を払うような仕草で一度だけ手を振った。

 するとその瞬間、固まっていた水の群れがぱっと消えた。いや、正確には消えたのではない。目で捉えることが難しいほどに微細な粒子となって空へと昇り、そのまま風に吹かれるような自然さで、本来の居場所である大河へと帰っていったのだ。同時に、水に飲まれてここまでやってきた土砂や木々までもが、同じように粒子となって散って、元あった場所へと還っていく。そうして元の場所へ辿り着いたら、粒子たちは集まって再び形を形成し、全ては大洪水が起こる前の姿へと戻っていくのだ。

(水は勿論、土砂や草木も、このままここに残せば被害を生む。それなら、全て元通りにするに越したことはないね)

 少し力を使いすぎている気もするが、鈴が住む場所なのだと思えば、多少のことは許されるような気がした。

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