影双形対を願う 8

 こうしてひと通りの後始末を終えた朧は、ふうと息を吐いてから、鈴とその師が待つ自分の家に戻ろうとして、小さく息を呑んだ。そして、僅かな躊躇いののちに、ゆっくりと背後を振り返る。

 朧から少し距離があるそこには、鈴が立っていた。

「……見ていたんだね。さて、どこから見られてしまっていたのだろう」

 困ったような笑みを浮かべながら、朧が言う。だが、鈴は答えを返すことなく、そこに佇んだままだ。

「お師匠様は、……いないようだね。他の人も見当たらないし、もしかして一人で出て来たのかい? よくお師匠様が許してくれたね。けれど、病み上がりであまり無理をしてはいけないよ」

 優しい声でそう言った朧に、しかし鈴はやはり何も言わない。ここまでくると朧も、一体どうしたのだろうかと心配になってしまったが、ふと思い当たったことがあったので、それを口にする。

「もしかして、あの大蛇を私が逃がしてしまったから、それを気にしているのかい? それについては、……いや、そうだね。実際に襲われた君からすれば、あの蛇がまだ生きているなど、恐ろしいことなのかもしれない。けれどね、苦痛と恐怖によって償いはさせたつもりだし、何より小さくなった彼は、無垢な子供そのものなんだ。時を巻き戻すことで、悪性も何もない純真なままの命にしたからね。そして、私が彼に刻んだあの恐怖はこれからも残り続け、彼が道を踏み外すことを防いでくれる。きっと彼はこの先、良き主として大河を守ってくれることだろう。だから、何も心配することはないんだよ」

 普段の朧であれば、己の起こした事象をこんなにも事細かに説明するようなことはしない。朧の力は奇跡に近いものであり、生き物がそれを知るのは良いことではないと知っているからだ。

 だが今回はどうしてか、朧が自身に課している制約を無視してでも、彼女を安心させたいと思ってしまった。だから、言わないと決めていることまで言い、人の子が知らないでいいことまで話してしまったのだ。すべては、鈴という一人の少女の心を安らげるために。

 だが、そんな朧の心配りにも関わらず、ようやく口を開いた鈴の表情は硬かった。

「…………貴方は一体、何者なんですか……?」

 警戒の色濃い声で、鈴はそう言った。それに対して、今度は朧の方が口をつぐむ。何者かなど、朧の方が知りたいのだ。

「……不思議な力をお持ちの方だとは思っていました。けど、時を巻き戻すなんて、不思議で済ませて良い事象じゃありません」

 そんなことは、朧も知っている。少なくとも朧が今旅をしているこの世界には、時を操る術を持つ生き物など存在しないようだった。だからこれまで朧も、自分にその力があることを悟られるような真似はしなかった。

 朧を見る鈴の目は、今まで向けられていた温かなものではなく、冷たく拒絶するような色を宿している。そのことがどうしてか、朧の胸の奥を締め付けるように苛んだ。

「……助けてくれたことには、感謝しています。けれど、」

 温度のない、いや、恐怖という冷たさを孕んだ彼女の声が、重く圧し掛かる鉛のように朧の鼓膜へと沈み込む。

「私は私のために、貴方を知らなくてはならない」

 明確な強さを以て紡がれた言葉は、しかし張りぼての勇気を鼓舞するのにも似た頼りなさを感じさせて、何か言わなければと朧が口を開きかけた、そのときだった。


 彼女が纏う空気が一変し、その瞳がじわりと色を変える。なんの変哲もなかった茶色の瞳が金色へと染まり、白だったはずの場所が見る見るうちに黒に呑まれ、そしてその異形の両目で、彼女は朧を見つめた。

 瞬間、朧は己の内の最も根幹にある何かを見透かされたような、そんなざわざわとした落ち着かなさを感じ、驚愕のままに鈴の目を見返した。そして彼女の金の瞳の中に、見たこともない不思議な紋様を捕らえる。

(……まるで、蝶のような――)

 吐き出すべき音を失った朧が、意識と無意識の狭間でそう感じたそのとき、鈴が悲鳴を上げて両目を覆った。

「っ、鈴さ、」

「来ないで!!」

 何事かと一歩を踏み出した朧に、鈴が悲鳴交じりの声でそう叫んだ。その言葉に反射的に足を止めた朧に向かって、怯えと恐怖と嫌悪とがぐちゃぐちゃに混ざったような音で鈴が言う。

「な、なんなの貴方! 貴方みたいなのは視たことがない! 一体何なのよ!」

 半狂乱になって叫ぶ鈴に、朧は一歩も動けないまま、それでも彼女に向かって手を伸ばした。この距離では届く筈もないのに、思わずと言った風に伸びたその手は、まるで縋りつくようにも見えた。

「鈴さ、」

「貴方が私を助けてくれたってことは理解してる! でも無理よ! 貴方みたいなのと今まで一緒にいたなんて、信じられない! いいから出て行って! 早く私の前から消えて!」

 それは、明確な拒絶だ。朧の前で楽しそうに笑い、心地の良い声を紡いでいたあの唇から、朧を厭い拒絶する言の葉が零れ落ちている。そしてそれらは、まるで鋭い刃物のように朧の内側にある何処かを突き刺し、流れもしない血があとからあとから溢れ出しているのだ。

 最早憎悪すらも滲ませている声は、止まることなく朧の耳朶を打ち続ける。その度に何かが抉られて激しく痛むような気がして、そこでようやく、朧は気づいた。


 何をしても埋まることがなかったこの内側を――この胸を埋めていたのは、恋心だったのだ。


 ああ、あまりに今更ではないか。

 朧は彼女に恋をしている。ずっと、今も、恋をしている。だから、彼女がいるこの場所を愛し、共にいられる時間を大切にし、彼女を苛む全てから護ってやりたいと思い、そして、己を明かそうとした。

 気づいてしまえば、なんてことはない。だが、もう何もかも手遅れだった。

 もしも、もしももっと早く朧が気づいていたなら。もっと早く気づいて、それを彼女に告げていたなら。

 そんな淡い期待のようなものを抱いた朧は、しかし彼女を見てすぐにそれがただの幻想であることを知る。

 きっと、そうだったところで何も変わらない。例えば、ここに至るまでに朧と彼女がどれほど愛を育んだとしても、この結末は変わりようがない。どんなに心を通わそうと、どんな過程を経ようと、この瞬間に彼女は朧を拒絶し、朧もまた、己の醜悪さに気づいてしまうのだ。

 朧を拒む呪いの言葉を吐きながら、彼女がその場に頽れる。朧の存在そのものが、立ち続けることすらできないほどに彼女を追い詰めてしまっているのだろう。だがそれを知りながら、朧は踏み出すべきではない一歩を踏み出した。

 静かな夜の空気を、じゃり、と砂を踏む音が震わせる。その瞬間に跳ねるようにして顔を上げた彼女の表情は、この上ない恐怖と嫌悪に満ち満ちていた。

 胸が軋む。心の臓がある場所が激痛を訴える。それらはきっと幻で、しかしそうと呼ぶにはあまりにも明確な痛みだ。


 けれど果たして、痛みの原因はどちらだったのか。


 踏み出した一歩を以て選択を果たした朧が、彼女に向かって口を開く。ああ、いや、これは我が身可愛さからくるただの逃避だ。選択など、成される余地すらなかったのだから。

「――君は、私に一体何を視た?」

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