影双形対を願う 9
と、そこで唐突に、鏡に映っていた景色がふっと消えた。そして、ただの鏡へと戻ったそれに、静かにはらはらと涙を零す椿が映り込む。
見てはいけない過去を見た。これはきっと、朧がしまいこんでいる記憶だ。誰にも見せず、誰にも語らず、呪いか戒めかのように己に課している、朧だけのものだ。
それを勝手に見てしまった。感じてしまった。そして、気づいてしまった。
椿が感じているこれは、もしかすると朧への裏切りなのかもしれない。けれど椿には、頬を伝い流れていくものを止めることなどできなかった。
ああ、なんて哀しい。こんなの、あんまりではないか。
あとからあとから止めどなく落ちる雫が、椿の足元を濡らしていく。もしかしたらその先に救いがあったのではないのかと望む心が鏡にそれを求めたところで、もう椿しか映さない鏡は何も語ってはくれなかった。
「…………かえら、なくちゃ……」
ぽつりと、椿はそう呟いた。
当然帰り方など知らないが、帰らなくてはならないと思った。いや、きっと帰る必要など何処にもないのだろうが、そうしなくては椿が嫌だった。
ぽたぽたと涙を落としながら、椿が一歩を踏み出す。遠ざかるためではなく近づくための足が、鏡の床を踏み締めた、そのとき、
――椿くん。
耳に心地の良い声に名を呼ばれたと思うと同時に、椿は何かに引き上げられるような浮遊感を覚え、そして、はっとしたときには、椿と朧が借りているあの宿の部屋に座っていた。
あまりに唐突なことだったので、椿が元の場所へと戻って来たのだと理解するまで、少しだけ時間を要した。目の前の部屋の様子から、どうやら本当に帰って来たようだと椿が思ったところで、後ろから声がかかる。
「やあ、椿くん。身体に強い影響が出るようなものではないと思うのだけれど、調子はどうかな?」
「え、あ、朧、さん……」
ぱちりぱちりと瞬きをしつつ呟いた椿に、朧が微笑む。
「あ、は、はい。あの、平気、です……」
もごもごとそう答えると、朧は良かったと言って笑みを深めた。一方の椿は、部屋のどこにも老婆が見当たらないことと、ちらりと見えた障子窓の外が夕日に照らされて真っ赤に染まっていることに、なんとなくの事態と時間の経過を察し、恐縮しきった顔で朧を見た。
「あの、もしかして僕、またご迷惑をお掛けしてしまったのでしょうか……?」
申し訳なさそうに言った椿に、しかし朧は首を横に振った。
「いいや、そんなことはないよ。私もついさっき帰ってきたところでね。確かに君がここにいない間、君の身体は無防備な状態だったようだけれど、その間はあのご老人が君のことを守ってくれていたみたいだ」
だから何も気にしなくて良いよ、と言った朧が、椿に向かってそっと手を伸ばし、その目尻に優しく触れた。あまり経験のないその行動に驚いた顔をした椿は、次いで朧の手つきが涙を拭うそれだと思い至り、そこで初めて、自分が未だに泣いているということに気づいた。
「あっ、あの、これは、」
慌ててごしごしと涙を拭く椿の頭を、朧がそっと撫でる。
「あ、あの、僕、」
「大丈夫、判っているよ。あれは、君の親切に対する純粋な返礼だ。君の正しい行いが得た恩恵なのだから、何も後ろめたいことなんてない。だからこそ、私も無理に連れ戻すようなことはしないで、自然に戻るまで待っていたんだ」
穏やかな声が、僅かも責めることなく慰めるように言う。怒ってなどいないんだよと伝える音色は、それが本当だからこそ、どうしようもなく椿を責め立てた。
「でも、僕は、」
震える椿の声が、それでもと訴える。
朧が言うのであれば、あの鏡の世界は老婆なりの礼だったのだろう。きっと彼女は椿の奥底にある願望を見透かし、その願いのままに、万華鏡を通して朧の過去を見せてくれたのだ。
「……僕が、貴方のことをもっと知りたいと、思ってしまったから、」
椿が見たあの記憶はきっと、朧にとってどうしようもなく辛いもので、誰にも見せたくはなかったものの筈だ。そんな秘密を、椿が暴いてしまった。ただ彼の過去を知りたいという幼い思いだけで、朧の奥底に土足で入り込むような真似をしてしまった。
これが別の過去であれば、この罪悪感も少しは薄れたのかもしれない。けれど椿が見た過去は、あれだった。どうしてあれだったのか、などとはもう思わない。そうでなくてはならなかった理由は紛れもなく自分自身にあり、そして椿は、それに気づいてしまった。
「……ご、めんな、さい、」
先程までとは別の涙が椿の両目から溢れ出し、頬を流れる。
「ごめんな、さい。僕、僕は、」
二重の意味を含んだ謝罪が、椿の口から零れ落ちる。許されるとは思っていない。これはこの上ない罪で、だからこそ謝罪すら告げてはいけないのだろう。けれど椿は、それを止めることができなかった。何事もなかったような顔をして、偽りで覆って隠すことなどできなかった。ただ椿自身が、椿自身の感情として、これ以上朧を裏切るような真似はしたくなかったのだ。
自分を見つめる朧の目が、その先を言ってはいけないと優しく咎めている。それくらい、椿だって判っている。だが椿は、子供のような我が儘を振りかざして、その音を唇に乗せた。
「……貴方を、お慕いしております」
懺悔と悲嘆を含んだ音が、それ以上の想いに包まれて空気を震わせた。
命を助けてくれて、一緒にいてくれた。何も知らない椿に様々なことを教えてくれて、いつも見守ってくれた。優しくて温かくて、けれどどうしようもなく哀しい人。そんな朧に、椿はいつからか、恋をしていたのだ。
告白と言うにはあまりに悲しい響きのそれを、朧は目を逸らすことも耳を塞ぐこともせず、正面から受け止めた。そして、椿の頭に触れていた手をそっと離した彼は、何かを懐かしむような目をして口を開く。
「……答えはね、得られなかったよ。彼女にも、彼女が視たものの正体は判らなかったらしい。そして私には、それが全てだった」
涙に滲んだ椿の視界の中で、朧が寂しそうな笑みを浮かべた。
「だから、私はもう誰も愛さない」
ごめんね、と告げる声に、椿の目からまた涙が溢れて落ちる。拒絶されたことが悲しかったのではない。朧に悲しい思いをさせてしまったことが、どうしようもなく悲しかった。
朧のことを思うのであれば、この感情は捨てるべきなのだろう。どれだけ時間が掛かったとしても、忘れるべきなのだろう。だからそう約束すれば、朧の痛みは多少なりとも軽くなるはずだ。けれど椿には、そんな約束などできそうになかった。こんなにも胸の奥底に根付き芽吹いたそれを取り除く方法など、椿には判らないのだ。
そしてきっと、朧はそれを判っている。だからこそ、椿の想いを否定しない。それは椿自身のものだからと、無理矢理に引き抜くようなことはせず、ただありのままに咲くことを許し、咲き誇ったそれを慈しんでさえくれる。
だから、椿はきっと、そこにいるだけで朧を苦しめてしまう。優しいこの人は、誰かの願いを叶えることを良しとする人だから、そうすることができない椿の存在は、いつだって彼を苛んでしまうだろう。
けれど、椿はそれでも朧の傍にいたいと思った。それが彼を苦しめることになるとしても、それでも、彼をひとりぼっちにしてしまうよりはずっと良いと思った。
だから、椿は告げる。幼いが故の無謀さで、その想いを伝える。
「……返していただこうとは思いません。これ以上を望みもしません。…………だから、これからも貴方の傍に、居させていただけますか」
祈りにも似た音で紡がれたその言葉に、朧の瞳にほんの僅かだけ何かの色が滲み、そして彼は、常と同じ柔らかな笑みで椿に応えた。
「勿論、君がそうしたいと思う限り」
拒絶ではない、生温い体温のような許容だ。
その温度に潜む寂寞を知っている椿は、胸の内でただ願う。どうかこの想いが、いつの日かこの人の糧になれたなら、と。
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