須要の霽レ 1

「……これは、酷いな」

 山に一歩足を踏み入れたところで、朧はぽつりとそう呟いた。その隣の椿も、口にはしなかったものの、同じ感想を抱く。

 酷く重苦しく陰惨な、嫌な空気だ。

そのあまりの不快さに気分が悪くなった椿は、僅かに眉根を寄せた。こういった目に見えない何か・・を感じ取る能力が高くはない椿ですら、この様なのだ。椿よりずっと力が強く、様々なものを感じることができる朧ならば、よりはっきりとこの場の異常を認識していることだろう。

 そんなことを考えながら、椿は明らかに自然ではない枯れ方をした草木へと視線を投げた。それから朧の方を窺えば、同じく周囲の景色を見て僅かに顔を顰めていた彼は、向けられた視線に気づいたように椿の方を見た。

「取り敢えずは登ってみようと思うのだけれど、……君は村で待っていても良いんだよ、椿くん」

「ありがとうございます。でも、ご迷惑でなければ、お供させていただきたいのです。いけませんか?」

「いいや、いけないということはないよ。それじゃあ一緒に行こうか。ただし、私から離れないようにね」

 優しく笑ってそう言った朧に、椿は顔を綻ばせて頷いた。もしかすると、危ないから村で待っていろ、と言われるかもしれないと思っていたので、同行を許して貰えたことが嬉しかったのだ。

 椿がいたところで何の役にも立たないどころか、寧ろ足手纏いになりかねないのだから、同行したいというお願いが我が儘でしかないことは自覚している。だが、それでも朧の傍にいたい気持ちの方がどうしても勝るのだ。だから椿は、彼が駄目だと言わない限りは、彼の優しさに甘えることにしていた。

(我が儘を言ってご一緒させていただくのだから、足手纏いにだけはならないように気をつけよう)

 そんなことを思いながら、椿は先を行く朧から離れぬよう、ぴったりと彼の後をついていった。





――山の中で、何か恐ろしいものが暴れている。


 最初に朧と椿の二人が聞いたのは、そんな話だった。

 ここ最近、山の雰囲気がおかしい。獣の姿が見えなくなり、草木が不自然に枯れていたりする。そして極めつけに、山に入った麓の村人が一人、酷い怪我を負って下山してきた。

 化け物が、山に。

 その村人は辛うじてそれだけ言うと、そのままこと切れてしまったという。

 少なくとも人死にが出るような何かが、山で起こっている。それは間違いない。だが、化け物がいるという山に踏み入って原因を確かめようとする者は、一人もいなかった。

 それはそうだろう。好き好んで化け物に会いに行きたいと思うような物好きなどそういないし、増してや人が死んでいるのだから、尚のことだ。

 だが、この村にとって、山の恵みは重要な生命線のひとつである。化け物が怖いからと、このまま放置し続ける訳にはいかない。

 そう言って嘆く村人に、朧はいつものように、では私が原因を突き止めて解決を試みてみましょう、と申し出たのだった。

 ただの薬師にしか見えない朧の発言に、村人たちは半信半疑な様子だったが、それでも結局朧の申し出を受け入れた。朧のことを信用した訳ではなく、ただ単に藁にでも縋りたい気持ちだったのだろう。

 お願いしますと言って深く頭を下げた村人たちに、朧は任せてくださいと言って微笑んだ。


 そんな経緯で二人は件の山を登り始めたのだが、一足目から既に不穏さを醸し出していた山は、踏み入るほどに空気が粘つき、身体にまとわりついて、こちらの足取りを重くするようだった。

「……山に入る直前までは何もなかったのに、どうしてなのでしょうか」

 ぽつりと呟いた椿に、前を行く朧が答える。

「山はひとつの境界だからね。その境界が結界代わりになっていて、この穢れを山の外に漏らさなかったんだろう」

「境界、ですか?」

「そう。あちらとこちら、という境。ここでは山と野という境界がそれにあたる。……そうだね、判りやすいものだと、神社の鳥居なんかは、目に見える判りやすい境界だ。この先は神域であり、俗世とは隔たっている、という証」

 朧の発言に、椿は以前とある神社を訪れたときのことを思い出した。広く名が知れた大きな神社であるそこでは、鳥居を抜けただけで、なんだか気が引き締まるような、空気が清廉に整うような感覚がした。そのときは単に気持ちの問題かと思ったのだが、そればかりではなかったのかもしれない。

 そんなことを考えている椿の少し前で、朧が更に言葉を続ける。

「他には、家の内と外とかだね。そこに明確な境界があるが故に、招かれなければその家に上がることができない、というモノは少なくない。あとは、辻や水辺なんかも該当するかな」

「そうなんですね」

「うん。あちらとこちらは遠く隔てられていて、けれど容易く踏み入ることができるくらい隣り合ってもいる。部屋と部屋の境や普段通る辻なんかは、常に気にする必要があるほどのものではないけれど、きちんとした理由があって引かれている類の境界には、十分気をつけた方が良い」

 まあそういうものには大抵、きちんとした目印があるものだけれどね、と言った朧に、椿がこくりと頷く。

「無闇に踏み入ってしまうことがないよう、気をつけます」

 その言葉に振り返った朧は、優しく微笑んで椿の頭を撫でた。温かな掌を受けて淡く頬を染めた子供にそっと目を細めてから、朧は山の上の方へと視線を向けた。

「この山の境界は、誰かが意図して明確に引いたものではなく、自然の流れで漠然とそうなったものだ。だから、隔たりとしてはとても脆いんだよ。このまま何もせず放置すれば、近いうちに膨れ上がった穢れが山から溢れて、大変なことになってしまうだろうね」

「……できるだけ早くどうにかしなければならない、ということですね」

「そうだね。……思っていたよりもずっと穢れが濃いし、急いだ方が良いだろう」

 疲れたらおぶってあげるから、いつでも言うんだよ、と言った朧に礼を言ってから、椿は改めてしっかり歩こうと気合を入れ直した。

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