須要の霽レ 2

 それから二人は、やや急ぎ足で黙々と山の中を進んでいった。椿に関して言えば、山の瘴気のせいか喋るのにも少しの苦しさを覚えるようになってきていたので、朧はそれを慮って会話をしなかったのかもしれない。

 だとしたら有難い心遣いだな、などと思いながら椿が朧を見れば、前を行く彼は、まるで普段と変わらないような様子で平然としていた。

 足を止めるほどではないにせよ、進めば進むほど濃度を増す穢れの影響で、空気の重さは相当のものだというのに、彼はまるで意に介していないようだ。そんな彼に、さすがは朧さんだな、と思った椿は、前を進む彼に遅れないように懸命に足を動かし続けた。

 そうして暫く進んだあたりで、椿はふと気がついた。途中から山道を外れて進み出した朧は、当てもなく彷徨っているというよりも、何か明確な目的地があって、そこに向かっているようなのである。

 この考えの正否について椿が短かく尋ねてみると、朧はそうだねと頷いて返してきた。

「少し気になる気配があってね」

「気になる気配……ですか?」

「うん。この状態の山の中では、ちょっと異質だ。だから、まずはそれを確認してみようと思ってね」

 そんな短い会話を挟みつつ、二人は止まることなく更に奥へと進む。そして、椿の耳を水の流れる音がかすめたところで、不意に朧が足を止めた。

 つられて立ち止まった椿が、ここが朧の言っていた気配とやらがある場所なのだろうか、と朧の後ろから前方を窺うと、少し木々が開けた先にある川辺に、誰かの後ろ姿が見えた。

 朧と椿が見つめるなか、人影がゆっくりと振り返る。

 それは、艶やかな黒髪を短く切り揃えた、鋭い目つきの人物だった。上背のある身を濃紺の着物と灰色の袴で包んだその人は、ぱっと見は男性のように見える。だが、それにしては骨格の感じに違和感が残ることから、椿は相手が女性であることに気づいた。

 男装束を身に纏った彼女はどこか気怠そうな様子だったが、その視界に朧を収めた途端、蘇芳色の瞳を輝かせて、まるで品定めをするように朧をまじまじと見てきた。

 そんな彼女からさりげなく椿を庇うように一歩前に出た朧が、彼女に向かって口を開く。

「こんにちは」

 旅の途中でたまたま擦れ違った行商に挨拶をするときと同じ声で、朧はそう言った。敵意もなければ妙な関心も感じさせない、お手本のような普通の挨拶に、彼女はぱちりと瞬きをしたあとで、唇に薄い笑みを浮かべた。

「おお、アタシに何か用事か?」

「はい。少しお話を聞かせていただけたら、と」

「お話、ねぇ」

 彼女はじろじろと朧を見ながら、面白そうにそう言った。それから、取り敢えず言いたいことがあるなら言ってみろ、とでもいうように、顎をくいっと上げて話の続きを促す。

 それを受け、朧は僅かな間を置いたあとで言葉を出した。

「それでは、単刀直入にお尋ねします。この山の穢れについて、何かご存じですか?」

 前置き通り率直なその言葉に、女はハッと笑いを零した。そして、にぃと口端を吊り上げ、楽し気な表情を浮かべながら、それで、と返す。

「もしもアタシが知っていたら、どうするってぇんだ?」

「さて、そのあたりは知っている内容によりますね」

 物腰柔らかな態度を崩さずに、しかし答えにならない答えを返した朧に、彼女はふぅんと言ったあとで、その両眼をぎらりと光らせた。

「それならこうしよう。……アタシに勝ったら教えてやる!」

 そう言った彼女が川を背に片手を上げると、それに呼応するように川の水がごぼりと音を立てた。

 彼女の突然の行動と目に見えて判る川の流れの変化に驚く椿の前で、彼女がさっと手を振り下ろす。

「ちょうど退屈してたところなんだ! 遊んでくれよ!」

 そんな叫びと共に、彼女の腕の動きに従って川から飛び出た水が、鋭い矢のように変化して朧へと襲い掛かった。だがそれが到達するよりも早く、予備動作なしで朧の前に半透明な壁が現れ、初撃をすべて防ぎきる。同時に椿の全身を覆うように結界を施した朧は、彼に後ろに下がっているよう告げて、自身は前へと踏み出した。

「お、朧さん!」

「大丈夫。椿くんは巻き込まれないようにしているんだよ」

 そう言い残して女へと向かった朧を目で追った椿は、次いで彼女の方を見て、小さく身体が震えるのを感じた。

 水を従え嬉々として朧に攻撃を仕掛ける彼女から感じられるそれは、凄まじい力を持つ妖しを前にしたときのそれに似ている。大した力を持たない妖鳥でしかない椿ですら、こんなにもはっきりと畏怖を感じるのだ。正体は判らないが、彼女が相当に強い妖しであることは容易に推測できた。それに加え、こうして戦闘態勢に入るまで、彼女はその強大な力の一切を椿に感じさせなかった。力が弱いとはいえ一応は妖しである椿が、彼女のことを人間だと勘違いしたほどだ。

 これだけ強い力を持ちながら、その一切を気取らせず人間に擬態できるということは、それだけ己の力を制御する能力がずば抜けて優れているということである。

(この女の人は、明確な上位の妖しだ。ということは、やっぱりこの人が穢れの原因……!?)

 そう思うも、椿にこの場でできることはない。それをよく判っている彼は、二人の戦いに巻き込まれぬように距離を取りつつ、同時に朧から大きく離れることもないようにすることにだけ専念した。

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