思ひ寝の共 1

――なんだか酷く、物悲しいような気がした。





「……あれ?」

 ふと気づくと、椿は誰もいない部屋に一人ぽつんと立ち尽くしていた。

 まるで見覚えのないその部屋は、幾つかの家具や調度品が置かれた、小ざっぱりとした空間だった。一見すると質素にも見える部屋だが、よくよく見ると、置いてある品はどれも値が張りそうなものばかりである。

 そんな中で、一際椿の目を引くものがあった。扉の上に浅浮き彫りの飾りが付いた、中身のない鳥籠だ。窓際に置いてあるそれは、少ないながらも調和が取れている調度品たちの中で、唯一どこか浮いて見えた。

 なんとなくそれを暫く眺めてから、椿は次いで開けられたままの障子窓へと目をやった。窓の向こうには緑が美しい草木が広がっており、どうやら小規模ではあるが庭園のような造りになっているようだった。もしかすると、地主や大店おおだなの商人の別邸なのかもしれない。

(でも、その割には物がなさすぎるかな。庭だってしっかり手入れがされている感じじゃないし……。何処なんだろう、ここ)

 いや、そもそも、どうして自分はこんなところにいるのだろうか。ここに来るまでの間、いったい何をしていたのだろうか。

 そんな疑問が唐突に頭の中に浮かび、椿は首を傾げながら記憶を浚った。そうして真っ先に思い浮かんだのは、多くの人々で埋め尽くされた大通りの光景だった。

(……ああ、そうだ。朧さんと、市を覗いていたんだ)

 朧と椿が訪れたその町は、大きな街道が幾つか交わる場所に位置しているからか、とにかく人が多い町だった。その上、その日はちょうどふた月に一度開かれる大市の日だったため、常よりも更に人で賑わっていたようだ。

 そんな人混みの中、“古いものや新しいもの、日用品の数々から用途の判らない珍しいものまで、あらゆるものが集まる大市”という謳い文句が掛かれた幟を見て、折角だから見ていこうか、と言い出したのは、朧の方だった。

 椿は幼い頃から人の少ない山里で暮らしていたため、大市というものを見たことがない。それ故に目の前の賑わいに興味津々だった彼は、朧の言葉に一、二もなく頷いた。

 そんなこんなで、椿は朧と二人、楽しく店を眺めて市を満喫いたのだが、ちょうど昼下がりくらいから、彼の顔色は徐々に悪くなっていった。こんなにも人が多い場所に来るのは初めてだったので、すっかり人酔いをしてしまったのだ。

 そんな椿を見て、朧は少し道を外れようかと言って、椿の手を引いて脇道へと向かった。脇道にも店はいくつか並んでいたが、大通りのそれと比べれば規模が小さく、人の通りも比較的少なかったため、あのままあそこにいるよりはよほど良かった。

『宿に戻るのも良いけれど、まだ見て回りたいだろう? 端の方で少し休もうか』

 微笑んでそう言った朧に、有難うございます、とどうにか返したところまでは、確かに覚えている。

 だが、その先を思い出そうとすると、途端に判らなくなってしまった。記憶がそこでふつりと断絶し、次に思い出せるのは、この部屋にいることに気づいたさっきの瞬間だ。

 暫くそうして自分の記憶と挌闘していた椿だったが、結局抜けている部分を思い出すことは叶わず、途方に暮れてしまった。

 間違いなく、これは緊急事態だ。と言っても、邪悪な何かに遭遇したときのような嫌な感じはしないから、今すぐ命を取られるだとかそういうことはないのだろう。そのせいか不思議と焦りは湧いてこないが、それでも歓迎できるような状況ではない。

(朧さんのことだから、気づき次第どうにかしてくださるとは思うけど……)

 それはそれで迷惑を掛けてしまうという事実に、椿は胸の内が重くなった。

 せめて何某か、状況理解の助けになるものはないだろうか。そう考えた椿が、改めて周囲を探ろうとしたそのとき、背後でピィと一つ、澄んだ鳥の鳴き声がした。

 思わず椿が振り返ると、窓際の鳥籠の中に、いつの間にか深い赤をした小鳥が一羽、佇んでいた。

(さっきまでは、確かに空っぽだったのに……)

 驚きのままに椿は小鳥を見つめたが、小鳥は一度鳴いたきり、鳥籠の中で大人しくしている。暫く待ってから恐る恐る近づいてみても、反応らしい反応は返ってこなかった。

 そんな小鳥の様子に、なんとなく害はなさそうな印象を受けた椿だったが、その印象をそのまま鵜呑みにできる筈もない。自分で小鳥が無害かどうかを判断できるほど、彼は知識も経験も豊富ではないのだ。

 どうすることもできないまま、椿が鳥籠を見つめて身動きを取れずにいると、また背後で音がした。今度は小鳥の声ではなく、人の足音だ。驚いた椿がばっと音の方へ振り返ると、男がひとり、襖を開けて部屋に入って来るところだった。

 突然のことに、椿が瞬きすらできずに固まっていると、男の顔が椿の方へと向けられた。

「っ、」

 びくりと肩を跳ねさせて、今すぐ逃げるべきか否かを考えた椿だったが、しかしそこで違和感に気づく。男の顔は確かに椿の方を向いているが、椿と目が合っているわけではないようなのだ。

 と、そこで小鳥がまた、ピィと鳴いた。すると男は俄かに表情を和らげてから、椿の方へと歩み寄ってきた。畳を踏んで歩く男があっという間に椿の目の前にやってきて、しかしそれでもその歩みが緩むことはなく、このままではぶつかってしまうと思った椿は、慌てて道を譲るように横に避けた。だが、男はそんな椿に目もくれず、鳥籠の前に立ってその中を覗き込んだ。

(……やっぱり、僕の姿が見えてない。……というよりも、これは多分、僕のことをまったく認識していないのかな……?)

 戸惑う椿の前で、男は小鳥の世話を始める。とても優しい表情は、男が籠の中の小鳥をどれほど大切に思っているかを言外に伝えるようだった。小鳥の方も随分と男に懐いているらしく、ピィピィと機嫌良く男に向かって鳴き声を上げ、その手に擦り寄っている。

 そんな小鳥の頭を指先で撫でてやりながら、男が口を開いた。

「――」

 発せられた言葉は椿の耳には不明瞭な音として届いたが、不思議なことに、それが小鳥の名前であることは何故だか理解できた。

「どうかお前はずっと、俺の傍に居ておくれ」

 愛しさを詰め込んだ声で男がそう続ける。どこか寂しい祈りのようなその響きに、小鳥は応えるように鳴いてみせた。

 と、そこで唐突に、男の姿が消え失せた。椿が瞬きをひとつした間を見計らったかのように、影も形も残さず消えたのだ。驚いた椿が、まるで最初から誰もいなかったかのように沈黙する部屋の中をきょろきょろと見回す。すると、またも背後で襖が開く音がした。

 もしや、と思いながら椿がそちらに目を向ければ、案の定、そこにいたのはつい先程まで鳥籠の前にいたあの男だった。ただ、消える前とは服装が違っており、髪も幾分か伸びているように見える。

 部屋に入ってきた男はやはり小鳥を見て嬉しそうに笑うと、先程と同じように小鳥の世話を始めた。相変わらず、椿の存在は認識されていないようだ。

 そして暫くすると、男はまたふっと消えてしまい、再び外から部屋の中に入ってくる。そんなことが数回続けば、椿も何が起きているのかは理解できた。原因や理由や原理は不明だが、椿はどうやら、男と小鳥が過ごす日々の、短く切り取られた特定の部分だけを、次々と見せられているらしい。そして、椿自身は飽くまでも観客のような立場であるから、男や小鳥には認知されない。

(……どうして、こんな光景を見せられているんだろう)

 そう思いながらも椿は、何度も部屋を訪れては消えていく男と小鳥の日々を見守り続けた。寸劇のように次々と展開する光景に起伏らしい起伏はなく、椿の眼前では、静かで穏やかな時間が流れては移り変わっていくだけだ。

 そんな、危険からはほど遠い光景の中にいるからなのか、不測の事態であるにも関わらず、椿は相変わらず危機感らしい危機感を抱けずにいた。それどころか、男と小鳥のやり取りを見ていると、ぐっと胸があたたかくなる心地さえするのだ。

 穏やかで幸せそうな男と小鳥の姿は、確かに心が和らぐ光景ではある。だが、それにしたって、こんなにも感じ入るような幸福感を覚えるようなものではない筈だ。

 薄ぼんやりとした疑念を抱きつつも、椿はその場を動けずにいた。何もせずただ見ていれば良いのか、それとも何かすべきことがあるのか。判らないまま、椿が迷っているうちにも、男と小鳥の日々は過ぎていく。

 彼はいつも一人だけで部屋を訪れ、一人で小鳥の世話をした。他にこの部屋を訪れる者はおらず、一人やってきた彼は、小鳥の世話以外に、この部屋でただ本を読んだり、何か書き物をしたり、何をするでもなくぼうっと過ごすこともあった。男の行動に法則性らしきものはなかったが、ただひとつ、決まって必ず、彼は小鳥に向かって話し掛けた。椿には聞き取れない小鳥の名を呼んで、そして言うのだ。傍に居てくれ、と。そんな、寂寥を孕んだ祈りのような男の声に、小鳥の方も必ず、了承するように鳴いて応えるのだった。

 その満ちた空間に不思議な幸福感を抱えながら、しかし椿は、どういうことか少しだけ切なさを覚えた。

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