朝影の密か 8
祝言の儀が全て終わり、陽が沈んでまた昇った朝。朧と椿は、領主の屋敷を発った。領主の娘の婚姻というだけあり、祝いの宴はまだまだ数日は続きそうな様子であったが、どうかもう少しと止める領主の好意をやんわりと断り、二人は再びの旅路につくことを選んだ。残ったところで、やることもなければできることもないからだ。
早朝だからかまだ人の少ない町を歩きながら、椿はちらりと朧を見た。
そして、儀式の途中で突然満開に花を咲かせた木について、朧が言い訳のように領主にした説明を思い出す。
本当は儀式のあとでゆっくりと木の呪いを処理するつもりだったが、儀式の厳かさに木が苦しんでいたので、いっそ今の方が上手くいくと判断し、急ぎ浄化を施した。勝手をしてしまい申し訳ない。花を咲かせたのは、苦し紛れに木が吐き出した穢れが、浄化されて花へと昇華したのだろう。花弁が本来の薄紅ではなく白だったのも、穢れを落としたことによる影響である。
確か、内容はこんな風だった。勿論、すべて出鱈目である。
だが、疑うこともなく納得した領主は、祝言を祝福するかのような良い演出になったと喜び、感謝をしていた。
そんな領主に対し、朧は結果的に喜んで貰えたのなら良かったと笑って返したが、椿は何も言うことができなかった。
「……あの木は、白を選んだんだね」
黙ったまま歩く椿に、朧がふとそんな言葉を落とした。一瞬意味が判らなくて、しかしすぐに理解した椿は、そっと口を開いた。
「…………選べる、ものなのですか?」
「いいや、普通は無理だよ。……でも、同じ色で祝福してあげたかったんだろうね」
朧の言葉に、椿は彼から目を逸らして前を見た。
普通は無理だけれど、あの木はそれを成し遂げた。それはきっと、朧が力を貸したからだ。あのとき、きっと朧は自らの力で娘を守ることをしなかった。それが可能で、そしてそれこそが最も簡単な方法だっただろうに、そうしなかった。
木が、彼女を守りたいと望んだから。自らの力で彼女を庇護し、その幸いの行き先を見届けたいと願ったから。だから朧は、木に力を貸したのだろう。彼女に害なす群れの全てを振り払えるだけの力を与え、再び咲き誇れるだけの命を注いだのだろう。
「…………そこまで、したのに、」
俯いて地面を見た椿が、ぽつりと呟く。朧がそこまでして、朧にそこまでさせるほどにあの木は強く望んで、なのに、辿り着く果てがこんな結末だなんて、あまりにも悲しすぎるではないか。そんな思いを、耐えられずに零してしまいそうになったのだ。
だが、その続きが小さな唇から滑り落ちる前に、不意に背後から声が投げられた。
「薬師様!」
呼ぶ声に、朧と椿が振り返る。その視線の先、やや息を切らして駆け寄ってきたのは、領主の娘だった。
「おや、花嫁様がそんなに急いで、どうしたのですか?」
何か忘れ物でもしてしまったでしょうか、と笑って言った朧に、彼女は首を横に振った。そして、少しだけ迷うように視線を彷徨わせたあとで、再び朧へと目を向けて言う。
「……あの、私、やっぱりどうしても気になってしまって」
「気になる、ですか?」
首を傾げた朧に、彼女はこくりと頷いた。
「その、…………私には、どうしてもあの木が悪いとは思えなくて。確かに私は、あの木が花を咲かせたところを見たことはありませんでしたが、でも、だからと言って嫌な感じがしたとか、そういうことはないんです。寧ろ、小さい頃から、あの木を見る度に私の心は不思議と安らぎました。あの木が黒くなってしまってからも、そうです。まるで病に侵されているようで可哀相だと思ったりはしましたが、害されるなんて考えは浮かびませんでした」
彼女は必死に言葉を探し、自分が感覚的に感じたものを伝えようとしているようだった。その様に椿は思わず自分の手を握り締め、朧を窺った。だが、朧は何も言わずに彼女を見つめている。
「……あの木、根腐れのせいでもう、完全に枯れてしまったみたいなんです。父が、災厄の原因をこのまま置いておくのも嫌だから、今日の夕方にでも燃やして全部灰にしてしまうって。……でも、もしもあの木は何も悪くなくて、もしも、もしも、今まで私のことを守ってくれていたとしたら、私、」
必死に縋るように言う彼女の言葉を、朧が片手を上げて制した。そして、彼女を真っ直ぐに見つめ返して笑う。
「貴女のその迷いも、あの木の呪いの置き土産ですよ」
「置き土産……?」
「ええ。呪いを成就させるため、切って滅されることを防ぐ目的で、貴女の心を惑わしていたのです。あの木は死んで、呪いももう霧散しましたが、きっとこれまでの分の残滓がまだ貴女の中にあるのでしょう。けれど、ご安心ください。その残滓もいずれ薄れ、あの木が厄災ではなかったのかもしれないなどという夢想もなくなるでしょうから」
優しい声で、しかしきっぱりと言い切った朧に、娘は困惑の表情を浮かべた。
「……夢想、ですか?」
「ええ、夢想です。けれど、別に貴女が悪い訳ではない。悪いのは、そうやって貴女の心を侵食したあの木です。そして、貴女を呪ったからこそ、あの木はその報いを受けて、どんどん黒く穢れて腐っていった。だから、どのみちあの木は呪いの報いで滅ぶ運命だったのですよ。そして私は、貴女の祝言に僅かでも影響がないようにと、その滅びを少しだけ早めたに過ぎません」
だからあのまま何もしなくても、別段何が変わった訳でもないのだと、朧はそう言った。
「……では、あの木は燃やして灰にしてしまうのが正解なのでしょうか……?」
それでもまだ釈然としない様子の彼女に、朧は柔く微笑んで頷く。
「それが良いでしょうね。お父君の仰る通り、災厄の根源は燃やしてしまうのが通例です。そうして灰を風に飛ばせば、貴女に残った呪いの残滓も消え去ることでしょう」
朧の言葉に、数度視線を彷徨わせて考え込むような表情を浮かべた彼女は、しかし少しだけそうしたあとで、顔を上げて笑顔を浮かべた。
「そうですね。薬師様がそう仰るのなら、そうなのでしょう。きっと、私はまだ少し混乱しているんですね」
なんだか取り乱してしまったみたいで恥ずかしいです、と言って、彼女は僅かに頬を染めた。
「あんな騒ぎがあったあとですからね、無理もないことです。……ですが、夫君をほったらかして私と会話を楽しんでいるのは、少々いただけないですね。早くお帰りにならないと、私が怒られてしまいそうです」
朧が悪戯っぽくそう言うと、娘はまあと言って笑った。
「ふふふ、薬師様の仰る通りですね。それでは、私はこれで失礼致します。引き留めてしまってごめんなさい」
「いいえ、最後にこうしてお話ができて、嬉しかったですよ」
「そんな、私の方こそ、こうしてお力添えいただけたこと、いくら感謝してもし足りません。薬師様もお連れ様も、本当にありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げた娘に、朧が微笑む。
「こちらこそ、素敵な祝言に参加することができて光栄でした。どうぞお幸せに」
そう言った朧に倣って椿も似た言葉を返せば、娘は嬉しそうに笑ってからもう一度頭を下げて、来た道を戻っていった。
それを見送ってから、二人は再び歩き出す。
朧の表情は常と変わらず、前を見るその顔は柔らかな微笑みさえ窺えそうなほどだったが、一方の椿は、とてもではないが明るい表情などできそうになかった。
黙ったまま、顔を俯けて地面を見ながら歩いて、そして町の外れまで来たところで、とうとう椿は耐えられなくなってしまった。そしてそのまま、彼の口から音が零れる。
「本当に、これで良かったんでしょうか」
どうしても我慢できずに落ちてしまったその言葉に、朧は立ち止まって椿を見た。深い海のような瞳が椿を見つめ、椿は思わず言葉を呑んでしまいそうになったが、それでもと口を開く。
「あの方は、これまでずっとお嬢さんを守ってきたのに、誰もそれを知らないままで、それどころか災い扱いをされて……。……お嬢さんを守る代わりに、あの方の魂はもう二度と、
段々と小さくなっていく声が、けれど訴えるように朧に問いかける。そんな少年の哀切な思いに、朧は細く息を吐いたあとで、そっと手を伸ばした。そしてその掌が、艶やかな黒髪を優しく撫でる。
「……何が正解なのかは、私にも判らないよ。けれど、あの木が望んだのはこの結末だった。だから、少なくともあの木にとっては、これ以上の正解などないんだろうね」
優しく慰めるような声が、そう言って椿の鼓膜を撫でる。
朧の言っていることは判るし、きっと言われずとも椿だって判っている筈だ。けれど、だからと言ってこの胸をひたひたと埋める悲しみが消えることはないし、その正解を正しいと喜ぶこともできない。
あの木の幸せを決める権利は椿にも朧にもなくて、そしてあの木は幸せだった。それが事実であり真実だ。でも、それでも、椿は椿の思う幸福を望んでしまう。生き物としての自分勝手さで、幸福な結末を求めてしまう。
「…………幸せ、だったのでしょうか」
「うん。きっと、この上ないほどに」
願うようにしてぽつりと落ちた小さな言葉に、確固たる音で以て肯定が返ってくる。その優しさに甘えながら、見たこともない薄紅色を思い、椿はそっと目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます