愛縁危縁 4
家人や朧に運んだものよりも遥かに質素な朝食を手早く済ませた椿は、すぐさま雪を掻く作業に移った。
玄関先や道は勿論、畑に降り積もった雪までをも丁寧に取り除いて道の端にまとめ、それが終わる頃にはもう陽が高い位置まで昇って来ていたので、休む間もなく昼食の支度を始める。それが済んだら、今度は家の掃除をしてから傷んだ衣を繕って、日が傾き始めたら、夕食を作って運び、風呂の準備を始めた。
こんな風に、椿の一日はいつものように過ぎていく。客人がいるため、普段よりも食事の準備にかかる手間が多くはあるが、概ね常と変わらない日常だ。
客である朧と家人の全てが風呂を終え、それぞれの余暇を過ごし始めたその頃にようやく、椿は少し冷えた湯に身体を沈めることができた。
一日の疲れを取るためにはしっかりと湯に浸かりたいところだが、家人の入浴が終わったあとに薪を足すことは許されていない。特にこの季節はすぐに湯が冷えてしまうため、椿は最低限の時間で手早く風呂を済ませた。
それから明日の食事や家事、雑務の準備に手をつけ、それらが全て片付いたところで、椿はふうと息を吐き出した。これで、今日の作業は全て終わりである。
また明日も、家人が寝静まっている頃に起きて洗濯をするところから始まる訳だが、一区切りは一区切りだ。
ぐっと大きく伸びをした椿は、明日に備えて寝るべく自室へと向かった。椿の部屋は、日当たりが悪い北側の外れにある小さな部屋だ。椿が来る以前は物置として使われていたらしいが、掃除さえすれば十分寝泊まりできるような部屋になったし、自分の空間を持つことを許されているのは、とても有難いことだった。
静かな廊下を進み、自室へと向かっていた椿は、ふと背後から掛けられた声に振り返った。
「こんばんは」
そう言って椿を見つめ微笑んでいたのは、朧だった。
「こんばんは、朧さん」
軽く頭を下げて椿が言えば、朧は椿の方へと歩み寄ってきた。
「遅くまで色々と大変だったようだね。お疲れさま。それに、食事やお風呂の準備をしてくれてありがとう」
お陰で随分とのんびりさせて貰ったよ、という朧の言葉に、椿は笑みで応えた。
「そう言っていただけるなら、嬉しいです」
礼儀としての返答ではなく、本心からの言葉だった。日頃ずっと繰り返している作業ではあるが、こうして礼を言われることはほとんどないので、朧の言葉は素直に嬉しかったのだ。
「うん、本当にありがとうね。……それで、疲れているところ申し訳ないのだけれど、少しだけ時間を貰ってもいいかい?」
申し訳なさそうに言われたそれに、椿はぱちりと瞬きをしたあとで、勿論ですと頷いた。明日のことを考えるとすぐに休んだ方が良いのだろうが、断るのは気が引けたし、自分を気遣ってくれるこの人の力になれるのであれば、可能な限り応えたいと思ったのだ。
「ああ、ありがとう。……立ち話もなんだし、私がお借りしている部屋に来るかい? それとも、君の部屋の方が良いかな?」
「ええと、僕はどちらでも構わないのですが……」
客人の部屋にずかずか入るのは失礼だろうが、だからといってわざわざ椿の部屋まで来てもらうのも申し訳ない。さてどうしたものか、と椿が困っていると、それを察したのか、朧が口を開いた。
「それじゃあ、不躾ながら君の部屋にお邪魔させて貰おうか。勿論、君が嫌じゃなければだけれど」
その提案に、椿はそっと朧の表情を窺った。そして、柔和な微笑みを浮かべている綺麗な顔を見て、なんとなくだが察する。多分、椿に気を遣ってくれたのだ。この客人は、椿が嫌がりさえしなければ、最初から椿の部屋に来るつもりだったのだろう。その方が、用事が終わってすぐに椿が休むことができるから。
そんな気遣いが、嬉しい反面どうもむず痒い。優しくされることに慣れていないので、どういう反応をすれば良いのかよく判らないのだ。
「……狭いところでゆっくりお休みいただくこともできないとは思うのですが、それでもよろしければ」
どうにか言葉を捻り出してそう言えば、朧はやはり笑ってありがとうと返してきた。
そのまま二人で廊下を進み、椿の部屋にまでやって来た朧は、四畳半の畳に腰を落ち着けた。座布団のひとつでも出せれば良かったのだが、椿に与えられているのは使い古してぺたんこになった布団一式だけなので、畳に直接座って貰うしかない。
椿はそれに恐縮したが、朧は気にした風もなく笑ってから、殺風景な部屋を眺めて言った。
「少しね、君と話がしたいと思って」
「話、ですか?」
「うん」
頷いた朧は、部屋から椿へと視線を戻した。
「君はどうして逃げないんだい?」
前置きも何もない、率直で簡潔な問いだ。椿は驚いて少しだけ目を開いたが、朧にふざけている様子はない。彼の問いが本気であることを察した椿は、慎重に言葉を選びつつ口を開いた。
「逃げたところで、僕のような子供が生き延びる術はありません」
「正論だね。でも、君にはその翼があるじゃないか」
さらりと言われたそれに、椿は今度こそ大きく目を見開いた。心臓が一気に早鐘を打ち、暑くもないのに背中に汗が浮いてくる。何でもいいから何か言わなければと思いはするのに、それを嘲笑うように頭は真っ白になるばかりだ。
そんな椿から目を逸らさず、まるで確かめるようにじっと見つめてから、朧はふっと笑んだ。
「心配しなくても、だからどうするということはないよ。ただ、どうして逃げないのか気になっただけなんだ。……妖鳥である君なら、ここから逃げて生きることくらい、そう難しいことではないだろうに」
静かな朧の言葉に、椿は暫し沈黙したあと、心を落ち着けるように大きく息を吐き出した。
「…………いつから、気づいていらっしゃったんですか?」
「最初から、かな。私は目が良くてね。出会ったときから、君の背中に黒い翼が見えていた。……君が人でないことは、この家の人も知っているね? いや、恐らく、里の人全員が知っているんだろう。妖鳥と人は、寿命も成長速度も著しく異なっている。今の君は人で言うところの十前後に見えるけれど、実際は二十年ほど生きている、といったところかな」
「……ここに来たときの僕はまだ物をよく判っていない齢でしたし、そのときの記憶もほとんどないので、正確な年齢は判りません。……でも、恐らく、仰るくらいの年数は生きていると思います」
椿の言葉に、朧はふむと言った。
「しかし、よく噂にならなかったものだね。この辺りに成長の遅い子供がいる里がある、なんて話は聞いたことがない」
「周囲に他の里や集落もないので、そもそも外から人がいらっしゃること自体が稀なんです。それに加えて、僕は与えられた仕事以外で家の外に出ることを許されていませんから。二十年近くこの里に住んでいますが、こうして外の方の目に触れるのは、恐らく五回もなかったのではないかと思います」
椿の言葉に、朧はなるほどと言った。
「ああ、本質から逸れてしまったね。それじゃあ、話を戻そうか」
そう言ってから、朧は椿を見つめた。深い青の瞳の中に椿の赤が映り込み、椿はそのまま呑み込まれてしまいそうな心地になった。
「どうして、逃げようとしないんだい?」
改めて投げられた問いに、椿は知らず拳を握った。頭の中を様々な考えが巡り、本音と建前が激しく交錯して、そして、椿は小さく息を吐き出した。
「……僕を、捨てずに育ててくれたからです」
ぽつりと落ちた声は、静かな夜の空気にゆるりと沈み込んだ。
「この家の人は、里のお金を盗んで逃げた両親が置いていった僕のことを、殺さずに生かしてくれました。捨てずに育ててくれました。僕が妖しであると知っても、変わらずにここに置いてくれました。だから僕には、その恩に報いる義務があります。それが贄だというのであれば、逃げる訳にはいきません」
朧の視線から目を逸らさず、静かな、しかしはっきりとした声で椿は言った。それに対し、朧が目を細める。
「……君を生かしたのは、里の子らの代わりに君を贄にするためだろう。それでも、君は恩を受けたと言うのかい?」
朧の言うことは正しい。それくらいは、椿も理解している。椿は、端から贄として捧げるために育てられた子供だ。だが、
「それでも、です。確かに、待遇が良いとは思っていません。ひたすらに雑務をこなしたり、ときに厳しい折檻を受けることもある日々は、決して楽しいものではありませんでした。……でも、僕には自由があった。ただ贄として育てるだけなら、どこかに繋いで最低限の食事だけ与えておけば良いし、死なない程度に痛めつける道具にしても良かったでしょう。里の儀式において重要なのは生きた贄を捧げるという一点だけで、状態のいかんは問わないようですから。……だけど、僕はそうはされなかった。罪人の子なのに、食事も衣服も部屋も与えられました。こなさなければならない仕事は多くて少し大変ですが、やることがあるという事実は、何もさせて貰えないよりもよっぽど幸福です」
嘘偽りのない本心から、椿はそう言った。赤い瞳は真っ直ぐに朧を見つめて、一点の曇りも映さない。
「だから、僕は逃げません。この里が好きな訳でも、この家の人が好きな訳でもありませんが、……本当に、感謝しているのです」
取り繕うことのない素直な言葉に、朧はゆっくりと二度瞬いてから、目を閉じて細く息を吐き出した。
「君の考えは判った。逃げない理由もね。そういうことなんだったら、逃げろと言うのはやめておこう」
「……逃げろと、仰るつもりだったんですか?」
「枷があって逃げられないのであれば、私がその枷をどうにかしてあげるから逃げたらどうか、という提案くらいはしようと思っていたよ。でも、君のそれは枷ではなく、君が沢山考えて選び抜いた覚悟だ。それをどうこう言うのは、君に対して失礼だろう」
そう言って笑ってから、けれど、と朧は言葉を続けた。
「……もしも、私が山の神様を退治してあげようと言ったら、君はどうする?」
「た、退治、ですか……?」
神を退治するなど、そんなことが可能なのか。そう言いたげな顔をした椿に、朧は話を続ける。
「可能かどうかは置いておこう。ただの仮定の話として聞いて欲しい。仮に私が神様を退治できるとしたら、君はどうして欲しいか。勿論、その行いによる祟りだとかそういうことを気にする必要はない。そういう後のことも含めた上で、完璧に退治する。……どうだい?」
朧の言葉に、椿は惑うような顔を見せた。ほんの僅かな希望とも期待とも取れるような光がちらつく目が朧を見て、そして、椿は控えめに笑ってみせた。
「僕は――」
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