愛縁危縁 5

「やれやれ、難儀なことだね」

 開けた障子戸から外を眺めながら、朧はぽつりとそう零した。

 月明かりの中、暗い影となって視界に映る山は、どことなくざわざわと肌を這い上がるような感覚を覚えさせる。あの山に強大な何かがいることは、まず間違いないのだろう。

(求められたという大義名分があれば、手も出しやすかったものだけれど)

 夜の静けさの中、自分を真っ直ぐに見つめ返してきた赤の瞳を思い出して、朧は小さな溜息をついた。

 縋るには十二分なほどの条件を提示した筈だ。いくら妖しの類であるとはいえ、あの子はまだ雛といって良い齢である。あれだけの条件が揃えば、差し延べられた希望に手を伸ばさずにはいられないだろうと、そう思っていたのだが。

(……子供だからと、侮りすぎたかな)

 朧のそれは、あの子供に伝わっただろうか。だとすれば失礼なことをしてしまったな、と朧は独り言ちた。


――僕は、……僕には、決められません。僕は今回たまたま贄に選ばれただけの、ただの部外者です。だから、長年続いたこの儀式を止める権利は、僕にはないのです。


 椿が差し出した答えを思い返し、朧はまたひとつ溜息をつく。

 彼が朧に渡したのは、甘美な誘惑を前にしても折れることのない、強い意志だった。受けた恩を返すため。背負わされた罪を濯ぐため。あの子供はここに残り、誰の手も取らないと決めたのだ。

 死が怖くないということはないだろう。実際椿は、死にたくないかと問われれば勿論死にたくはないと言っていた。だが、だからといって自分が逃げる訳にはいかないのだと彼は言った。

 確かに、儀式の原因である神を殺めれば、自分は助かり、この先の未来に贄となるだろう人たちを救うこともできるのだろう。けれど、それを決めるのは自分ではない。そもそもの始まりが贖罪であるのならば、神への手向かいは、償いの約束を違えることと同義だ。自分を、そしてこの先の贄を救うためにそれをするかどうかなど、到底自分には決められない。だから、里に生まれ、里に住む人々が考え選んだ答えを、自分も支持する。

 はっきりとそう言い切った子供に、朧は素直に感嘆し、同時になんともやりきれない気持ちになった。

 外にやっていた視線を手元の巻物に落として、朧はまたひとつ息を吐き出した。溜息というよりは何かを憂うようなそれが、冷たい空気に流されて溶けていく。

 里長から渡された資料である巻物は、思っていたよりも数があった。さすがに最古の儀式の記録はなく、始まりを含む数回分の儀式については口伝を書き留めた程度のものしかなかったが、ここ最近のものに関する記録はかなり詳細なものだった。

 儀式の日取り、贄が選ばれた理由や贄自身の情報、儀式当日の流れ、儀式の後の様子、など、そこまで必要なのかと思うほどに細かな情報が記載されたそれらは、書き方の問題か非常に煩雑な記録になっているものの、読むだけで過去の儀式のほとんどを把握できるほどだった。

 そして、朧が目を通した過去千年分以上、計十八回にも渡る記録を見る限り、儀式の形態は一定ではなく、その都度少しずつ変わっているということがよく判った。

 贄を土に埋めることもあれば、縛って置き去りにしたり、酷いときは四肢を削いで木箱に詰めたこともあったようだ。つまり、贄を捧げる過程はそれだけ多様だということになる。共通しているのは、生きた人を贄として山の奥にある洞窟の中に置いていく、という一点のみ。恐らくそれさえ守れば、その他の過程は問題ではないということだろう。

「……よくできている」

 手にしている巻物を見つめ、朧はぽつりと呟いた。

 きちんと読みさえすれば、この巻物たちには求めている情報が全て揃っている。

 ひとつの儀式にひとつの巻物、という風に纏められているそれらは、定期的に書き写されているのだと里長は言っていた。

 古くなって紙が駄目になったり、虫喰いや湿気によるカビに備え、常に同じ内容の巻物がふた巻以上あるようにする。そうやって古いものが駄目になる前に複写を用意すれば、予備になるほか、書き写した際に記載間違いが発生していないかを見比べることもできる、ということらしい。長によれば、巻物に記録を取るようになったときからずっと、巻物たちはこうやって保存され続けているのだそうだ。

 それで困ることがあるとすれば、巻物ごとに記載の仕方がばらばらである点だろうか。儀式と儀式の間に百年前後の時が空くせいか、巻物によって項目や順番などが全く統一されておらず、それぞれの儀式の内容を比較するのが非常に困難なのだ。ただでさえ巻物ひとつの中身でさえ煩雑だというのに、それに加えて巻物間でも情報があちらこちらしているとなると、全ての儀式を正確に把握し結びつけて考えるのは、なかなか労を要する作業だ。

 実際朧も、想定以上の量の情報と、まるで法則性のない記載の仕方に、かなり苦戦させられた。

 だが、それでも朧はその作業をやりきった。そして、僅かも漏らさず全てを把握したからこそ、見えてきたものがある。

(儀式の日まで、あと十日、ね)

 長いようでいて短いな、と朧は胸の内で呟く。

 朝食のときに里長にした提案は、里長一人の判断で決めることはできないからと、保留にされてしまった。その理由は椿の主張と似ており、贖罪の儀式をそういう形で終えていいものか、里の人々の意見を訊かなければ答えが出せないということだった。

(さて、明日の昼過ぎに里の者を集めて協議すると言っていたけれど……、まあ、大体結果は予想がつく)

 ふ、と小さく息を吐いた朧は、持っていた巻物を丁寧に丸めて留め、畳に置いた。そして、寒い風を運んでくる障子戸を閉めるべく立ち上がる。

 再び視界に入った夜の景色に浮かび上がる山は、やはり暗々とした何かを朧の肌に染み入らせるようだった。

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