言の葉紡ぎ 2
宿に着いてからも、夕食を食べているときも、寝る前も、朧は普段と変わらなかった。先程村人の話を聞いているときは、確かに何かを思いついた様子だったのに、それを椿に言うこともなかった。そんな朧の考えが気にならないと言ったら嘘になるが、椿はこういったことには慣れている。朧が何でもないと言ったからには、椿が知る必要がないことか、または本当に何でもないかのどちらかだ。そう思った椿は、胸の内に湧いた疑問を慣れたように横に退けた。
そして宿での一夜が明け、翌朝、椿と朧は峠を越えるために宿を発った。特に行き先が決まっている旅ではないが、取り敢えず朧が未踏の地を回ろうとした結果が、あの峠の向こう側だったのである。
昨日の村人がくれぐれも平常心でなと念を押すのに笑顔で応えてから、二人が歩き出す。山のふもとにある村から山道までは、それほど遠くなかった。きっと時間が掛かるのはこれからなのだろう。
二人が足を踏み入れた山道は少々急勾配で、思った以上に体力がいる道だった。椿は昨夜、上の方の比較的なだらかな場所に出るまでが大変だろう、と村人から心配されたことを思い出した。確かに、子供の足で登るのはなかなか大変な道だ。
椿は一応妖怪だが、歩くことはあまり得意ではない。妖鳥である彼にとっては、歩くよりも飛ぶ方がずっと楽なのだ。特に長距離となると、陸路を行くのはかなり体力を消耗する行為だった。
ならば飛べば良いではないかという話なのだが、それはできない。飛んでしまうと、陸路を進む朧とは必然的に離れることになってしまう。だから、できるだけ朧の傍にいたい椿は、敢えて飛ばずに彼の隣を歩いているのだ。そんなこんなで、旅が始まってから椿が飛ぶ機会はぐっと減った。その代わりに歩く機会が増えたためか、当初よりも脚を使うことに慣れてきたように椿は思う。
だがそうは言っても、朧の体力に並ぶことはできない。途中途中で朧が休憩を挟んでくれるのだが、急な山道は足への負担も大きく、椿の呼吸は少しずつ荒くなっていった。もしかすると、化け物が出るという峠に向かっている緊張感も影響したのかもしれない。
何度目かの休憩に入る頃には、椿の額にはじんわりと汗が滲んでいた。脇に転がっている大きめの石に腰掛けた椿は、自分と違って涼しい顔をして立っている朧を見て、とても申し訳ない気持ちになってしまう。
「申し訳ありません、朧さん。足を止めさせてしまいまして」
そんな椿に、朧が優しく微笑み掛ける。
「気にすることはないよ。この山道は結構大変だしね。……しかし」
ふむ、と朧の蒼い瞳に見下ろされ、椿は不思議そうに小首を傾げた。
「朧さん?」
「いや、このままだと椿くんが先に出会ってしまいそうだなぁ、と思ってね」
「え?」
再び首を傾げた椿に、朧は少しだけ考え事をするような素振りを見せたあと、にこりと微笑んだ。
「ああ、それじゃあこうしようか」
言うや否や、朧がひょいっと椿を抱き上げる。
一瞬何が起きたか判らない椿は、普段は高い位置にある朧の顔がすぐそこにあることに気がついて、思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
「ぉっ、お、朧さん!? な、なな、なんで、横抱き、に!?」
わたわたと言いながら顔を赤らめる椿を楽しそうに眺めてから、朧がぱちりと片目を閉じた。
「ほら、たまには私も運動しないとねぇ」
落ちたら危ないからしっかり掴まるんだよ、と言った朧が、椿の返事を待たずに山道を駆け上がる。慌てて椿が掴まった先が朧の服の裾だったあたりに、椿の僅かな逡巡が窺えた。首に手を回すのは恥ずかしかったのだろう。
先程まではゆっくりと移ろっていた風景が、比べ物にならないほどの速さで変わっていく。自分と朧とではこうも違いが出るものかと、椿は体力のない自分を少し情けなく思った。多分、朧が一人で旅をするか、常に椿を抱き上げている方が、ずっと早く移動できるだろう。それを椿に合わせてゆっくり歩いてくれるのだから、有難いやら申し訳ないやらである。
だが、椿はそれでも空を飛ぼうとは思わなかった。迷惑になってしまっているのは情けない話だが、それでも朧を一人にしないことが、椿の矜持なのだ。
そんなことを考えていた椿はふと、朧の呼吸が少し荒くなっていることに気がついて、内心で首を傾げた。朧がこの程度のことで疲れるなんて有り得ないと思ったのだ。朧は儚さすら感じそうになるほどに美しい男だが、身体の造り自体はしっかりしているし、体力だって尋常ではないほどにある。確かに今は椿を抱えているが、体重の軽い椿など、抱えていてもいなくても大差ないだろう。
つまりこれは、疲れているからではなくわざとだ。だが、椿にはその理由が判らない。
僅かに眉根を寄せた椿の耳に、そろそろかな、という朧の呟きが届いた。それを境に、道がだんだんとなだらかになって来る。峠が近いのだ。
そしてそれは、唐突に現れた。
「私は貴方に何度も切って殺されました。責任を取って、私を引き取ってください」
それは、声として認識できるのにとても声とは思えない、曖昧で不思議な声音だった。
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