言の葉紡ぎ 3

 ぞわ、と、椿の背が粟立つと同時に、朧が足を止める。そのまま流れるように椿を降ろして、朧は彼をそっと背に庇った。

(なんなんだろう、これ……)

 椿が朧の背中越しに声がした方を見ると、村で聞いた通り、もやのような煙のようなよく判らないものがいた。絶えず形を変えて蠢いているそれは、しかしそれ以上のことが判らない。想像していた以上に掴み所のない存在だった。

 そうこうしていると、再びあの曖昧な声が同じ言葉を繰り返した。襲い掛かってくるようには見えないが、いなくなる様子もない。

 何が起こるか判らない不安から僅かに朧へ身を寄せた椿の頭を、大きな手がぽんぽんと撫でた。

 頭に触れた体温に思わず顔を赤くした椿を見て、朧がいつも通り優しく微笑む。

「確かにこれは、ちょっと危ないね。さっさと祓ってしまおうか」

 そう言うと朧はおもむろに、前方へ足を踏み出した。突然の行動に椿は目を剥いたが、朧は気にしない様子で謎のもやとの距離を詰めた。

 もやを眼前にした朧は、片手で空気を払うような、あるいは薙ぐような動作をしてみせた。すると、不定形ながらも纏まりを見せていたもやが形を崩し、ぶわりと膨れる。

 そんなもやに形の良い唇を寄せた朧が、椿の見ている前で、


 おもむろにもやを吸い込んだ。


 朧がすぅと肺に空気を取り込んでいくのに合わせ、その口に白いもやがどんどんと吸い込まれていく。最早声も出ないほどに混乱した椿はただ、朧が謎の何かを吸い込む様を見守るしかなかった。

 はらはらと自分を見守る椿をちらりと見てから、朧は大して時間もかけず、もやの全てを身の内に取り込んでしまった。それから二拍ほど置いて、不意に上を向いた朧が唇をすぼめ、静かにふぅと、呼気と共に白いもやを吐き出す。

 すると驚いたことに、朧の唇から吐き出されたもやは、見る見る内に明確な形を形成し始めた。先程まではただふわふわと漂うだけだった不定形が形を成す様に驚いた椿は、次いで形となったそれに思わず内心で首を傾げる。

(……蛙?)

 ずんぐりとした身体の、それは確かに蛙だった。もやによって形作られた大きな大きな一匹の蛙が、ぴょこんぴょこんと宙を跳ねる。そうやって何度か朧の周囲を跳ね回った蛙は、次の瞬間一際高く跳躍したかと思うと、そのままするすると空高くへ昇って見えなくなってしまった。

 後には何も残っていない。化け物の姿も、声も、何一つ。

 驚きの表情で蛙が昇って行った空を見つめる椿の耳に、朧ののんびりとした声が届く。

ひきの息さえ天に昇る。いや、この場合は息の蟇さえ、かな?」

 そう言った朧が、天に向けて小さく手を振る。椿はただ、呆気に取られるばかりだった。

 そんな椿の方へ向き直り、朧はおいでと手招きをした。

 素直に従った椿は朧の傍に寄ってから、そっと周囲を見回した。辺りは静かなもので、遠いどこかで鳥の鳴く声が聞こえてくる。本当に何もなく、ここにはただのありふれた峠道があるだけだ。

 椿はおずおずと朧を見上げ、尋ねた。

「……終わったのですか?」

「そうだね、もうアレが出ることはないよ。山を降りたら、村の人に教えてあげようか」

「……はい」

 椿には何が起きたのか、さっぱり判らない。判ることは、朧がアレに何かをしたということと、この道がもう安全であるということくらいだ。

 きっと、尋ねれば朧は答えてくれるのだろう。だが、どこまで訊いて良いものなのか。それ以前に、教えられたものを自分が理解できるかどうかも自信がない。

 椿は僅かな逡巡のあと、必要ならば朧から言うだろうと結論付け、解決したから十分だと思うことにした。

「さ、行こうか」

 朧が歩き出し、椿もその隣に並ぶ。朧が随分走ってくれたでお陰で、予定よりもずっと早く山を抜けられそうだ。

「ねぇ、椿くん」

「何でしょうか?」

 話し掛けられ、椿はちらりと朧に目を向けた。僅かに息が上がっている椿に対し、朧は相変わらず涼しげな顔で歩を進めている。

「言霊の話は、以前しただろう?」

「え、あ、はい」

 言葉には力が宿るという、そういう話だ。言霊は、行使する存在や時と場合により力の大小はあれど、必ず誰しもが持つものであり、呪文などが特にわかりやすい例だと朧は言っていた。特別な力を持たなない人間や、空を飛ぶくらいしか能のない椿でも、大なり小なり無意識に使っているのだという。

 あまり気にしすぎることはないけれど、言葉を不用意に使いすぎるのも良くないよ、と語った朧に、判りましたと頷いたことを椿はよく覚えている。

 しかし、急にそれがどうしたのだろう。再び朧を見るが、蒼い瞳は前を向いたままで、椿もすぐにそれに倣った。前を向いたまま、覚えている限りの話をすれば、その通りだと肯定される。

「言霊は繋がることがある、という話をしたことも覚えているかい?」

「はい。誰かから誰かへ、そしてまた次へと、話が、言葉が続いていくうちに、そこに篭る力が増すことがある、というお話ですよね?」

「そう。それと似たことなんだけれど、思いにも同じようなものがあってね」

「思い?」

「思考すること、想像すること、そういうものだよ。言霊よりも扱いにくくて、それこそ大概は小さな力だけれども、集団となると、これが意外と大きな力を持ってしまうことがある」

 そう言った朧が足を止める。合わせて止まった椿が、今度はしっかりと顔ごと朧を見れば、朧もまた、優しげな笑みで椿を見つめ返した。

「とはいえ殆どの場合、それがひとつに揃うことは珍しい。やっぱりあまり気にすることではないのだけれど、……小さな村なんかだと、すぐに話が広まるからねぇ。たまたま、重なってしまったんだろうな」

 きっと最初は、ただの謎かけ遊びの延長だったんだと思うよ。

 そこまで言って、朧はまた前へ向き直って歩き始めた。遅れないようにその隣に並んだ椿は、少しの間朧の横顔を見上げていたが、よそ見をしながら歩いていたら危ないよ、という声に、大人しく前を向いた。

 朧が伝えようとしたことを全て理解できたか、椿にはよく判らない。ただ、

「……僕、言葉にはちゃんと気を払いたいと思います」

 ぽつりとそう呟けば、朧は心地よい声でころころと笑った。

「うん、それは良いことだと思うよ」

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