空の湖
そこは、海の底の眠りのようで、空の彼方の沈黙にも似た場所だった。
泥のように身を重くする何かに覆われ、それはもがくように両手を彷徨わせた。
ここは何処だ。私は誰だ。何故私は存在し、何故私は生まれ、何故私はこうして私を認識しているのか。
思考らしい思考を持たないそれは、しかしただそれだけを厭い、泥の中をもがく。生まれ落ちたことを呪い、そして消えていくことを憂い、それらを否定するようにして、もがき続ける。
ああ、ここは何処だ。私は誰だ。なんのために生まれ落ちたのだ。
産声を上げたばかりのそれは、開かぬ目で辺りを見た。ぎょろろぎょろりと動いた晒されぬ目が、自身を取り巻く光景を映し出して、どこまでも無機質に伝達する。
草木と水と土と。光と風と鈴の音と。血と肉と臓物と。
それらがぐちゃぐちゃに混ざり合い、汚泥となって溢れている。あとからあとから湧き上がるようにして広がる様は、まるで底のない沼の底が押し上げられていかのようだった。
そしてその中心に、それはいた。泥の沼に呑まれるようにして、泥の沼を呑むようにして。ひとつぽつんと、そこに佇んでいる。
思考しないそれが、声を上げようと口を開いた。それが口を口と認識していたかは判らないが、顔なのだろう場所に切れ目のようなものがあり、どうやらそれが音を発するべき場所らしかった。
だが、亀裂はぱくりぱくりと裂けて広がるばかりで、肝心の音は一向に出る気配がない。
それは両の手を持ち上げて、べちゃりと泥の沼を叩いた。
ここは何処だ。私は何なのだ。どうして目覚めてしまったのか。どうして跡形もなく消えゆくのか。
ず……、ず……、と音を立てて、それは泥を進む。一歩を歩むごとに、纏わりつく泥たちは質量を増し、まるでそれを引き摺り込もうとしているようだった。同時に、それが沼を呑み込むようでもあった。
そうして数歩を進んだそれは、しかしそこで唐突に泥の中へと倒れ込んだ。泥に足を取られたのではない。泥が脚を取ったせいだった。
どろどろに溶けてしまった脚が、泥に呑まれて沈んでいく。泥を呑み込んでいく。これでは歩くことも立つこともできない、と、それは思考できない頭でそう思った。
消えていく。消えていく。生まれた意味もなく。存在した証もなく。ただ、消えていく。
ならば、どうして生まれてしまったのか。こんな、何でもないそれが、どうして形作られてしまったのか。
それは沈んでいく。底が押し上がってくる底のない沼に埋もれ、溶けていく。救済でもなければ断罪でもない。ただ無意味に、無へと返っていく。
「あー、駄目だ。見てらんねぇや」
唐突に言葉が落とされ、それはほとんど泥と同化した顔を上げた。そうして開かぬままのその目が視たのは、青白く美しい光であった。
冷たく灼きつくような強い輝きではなく、温かく照らす優しい光だ。淡くも爛々と輝くその光は、それにとっては何処か懐かしさを感じさせるものだった。懐かしいも何も、それが生まれたのはたった今だというのに。
何も判らないそれは、溶けていく己を感じながら、ただぼんやりと光を視た。そんなそれに向かって、光から何かが差し出される。
手だ。
特別美しい訳でも特別醜い訳でもない、いたって普通の手である。何の特殊性も感じさせないその手に、しかし泥は縋りつくようにして手を伸ばした。
どろどろと粘着質な流動体が、光が差し出した手を掴む。その頃にはもうそれは泥そのものであったが、手は迷いなく泥を掴み、そのまま強い力で引き寄せた。
ずるり。
音を立てて、泥が泥から抜ける。底のない泥の沼から、引き上げられる。放し難いとでも言うかのように追いすがる沼の泥は、手によっていとも簡単に拭い去られた。
「おい、大丈夫か?」
声に、しかしそれは何も応えない。応えるということを知らないのだ。思考ができないそれは、己と他者との区別すらつけられない。
だが、それを一切気にしない様子で、声は言葉を続けた。
「酷い有様だなぁ。どうせどうにもならねぇと思って放っておいたんだが、こんなことになるならどうにかしときゃ良かったか。いやでも、わざわざ干渉するほどのことじゃあなかったしなぁ」
困ったような申し訳なさそうな声が言いながら、泥の頬をそっと撫でた。
「かわいそうに」
泥はいよいよ流れていき、きっとそれが僅かな一生を終えるときは目と鼻の先にまで迫っていた。そんな瓦解する塊に、声は言う。
「……そうだな。生まれ落ちたからには、生きてこそだ」
呟きが落とされ、手が泥の表面をするりと滑った。
「その願いが良いな。お前が強く望み願うそれが、きっとちょうど良い。だから、お前が何を置いてでも迷わず選び、最も望むことを、お前を繋ぎ止める楔にしよう」
声がそう言うと同時に、それの意識は
私は誰だ。何のために生まれた。どうしてここにいる。
「それがお前の望みなら、探せばいい。果てなく広がり続ける世界を旅して、答えを見つければいい。その望みが変わらない限りは、それこそがお前を生かすだろう」
ああでも、と声は続く。
「これでもまだ不完全だな。なら、名前をやろう。名前ってのは、個を個たらしめる祝福であり呪いだ。そのどちらになるかは与える者と受け取る者次第だが、……俺は祝福として、お前に俺のひと欠片をやるよ」
柔らかな声が、慰撫するように囁いた。それは、向けられた声が優しさであることを理解できた。
「よく聞けよ。お前の名は――――」
はっと唐突に目覚めた朧は、ぱちりと瞬きをした。
静まり返った空気は冷たく、夜はまだ深い。視界に入った木々の隙間から見える空は、ぼんやりとした光に彩られ、深い青を何層にも重ねていた。
(……ああ。近くに集落も何もないから、今夜は野宿をしていたのだった)
思い出したように記憶をなぞってから、朧はそっと隣を窺った。朧から少し離れたそこでは、椿が寝息を立てて眠っている。
それを起こさぬようにゆっくりと身体を起こし、朧はとっくに消えてしまった焚き火の跡を見つめた。そして、その手がおもむろに炎の名残へと翳される。すると、ぱちりとひとたび火花が散って、再び木々の残骸が燃え上がった。
傍にあった枯れ枝の残りをそこにくべながら、朧は次いで少しだけ顔を上げた。立ち昇り始めた煙へと彼がその視線を向ければ、まるで何かに導かれるようにして煙が流れ、空に向かっていたそれは、伸びる木々たちの中腹くらいの高さで四方へと散り始めた。
基本的に、夜の森というのは恐ろしい場所だ。上がる煙をそのままにしてしまうと、何かがやって来るかもしれない。来たところで朧が困ることはきっとないのだろうが、それで椿を起こしてしまうのは可哀相だと朧は思った。
ぼんやりとそんなことを考えていると、視界の端で鳥の子がふるりと身体を震わせたのに気づいて、朧はそちらへと目を向けた。
野宿ができる季節であるとは言え、これから朝に向かうにつれて、気温は下がっていくだろう。寒さを厭うように震えた小さな身体が纏う衣だけでは、少々心許ないような気がした。
少しだけ考えるように目を伏せた朧が、次いで炎へと視線を戻す。すると、その視線の先で小さくぱちりと跳ねた火の粉が、薄い膜のように広がって椿を包み込んだ。淡く光る衣に包まれたその様を見て、朧が少しだけ表情を緩める。
(……椿くんが起きていたなら、こんなことはしなかったけれど)
自分にとっては何でもないこの力が周囲に与える影響を、朧はよく知っている。だから、特に椿に対しては一際気を遣っていた。まだ幼くも聡いこの妖鳥の子であれば、きっと道を踏み外すことはないだろうけれど、それでも、この未知の力に慣れさせてはいけないと、朧はそう思っていた。
だから、椿や誰かの目があるときは、普通のやり方で火をつけるし、煙に対して働きかけるようなこともしない。必要以上の力を見せてしまうことがないよう、己で己に枷を嵌めているのだ。
(……そもそも私自身、この力が何なのかまったく判っていない)
火を従える力ではなく、煙を操る力でもない。言ってしまえば、属性など関係ないのだ。火も水も風も大地も草木も空も海も。きっとありとあらゆる自然がその対象で、そして対象は自然だけではない。生物か否かを問うこともないし、未来も過去も関係がないのかもしれなかった。
なんでもできる訳ではない。だが、できないことを探す方が大変だろう、と朧はひとり思う。そしてそれほどまでの力の源の正体を、朧はまるで知らなかった。
(…………私は誰だ。何のために生まれ、どうして生き続けている)
それはもうずっと昔から、朧が知りたいと願っている全てだ。その答えだけを求めて、終わりのない永遠のような旅を今も続けている。
不思議な力を持った存在があると聞けばそこへ赴き、畏れ崇められるほどに強い何かがいると知ればそれに会いに行き、そうやって、彼は自分の根源へと繋がる道を探し続けた。
だが今のところ、僅かな答えの欠片すら見つかっていない。どんなに強く、どんなに稀有な存在であっても、必ずそれらには同質の他者、属する種族が存在し、そしてそれらは朧とはまったく別の何かであった。
故に、朧は未だに己を知らず、ひとりぼっちなのだ。
(……いや、違う)
先ほどまでの夢を思い、朧が胸の内で呟く。
朧はあの夢がなんであるのかを知らない。ただ、いつの頃だったかにあの光景を夢に見て、それ以降、まるで朧自身が忘れることを厭うように、こうして時折夢として現れる。
だから彼は、もしかするとあれは自分の記憶なのではないかと思っていた。
朧が覚えている最初の記憶は、どこまでも広がる何もない荒野だ。そこに朧は、一人佇んでいた。そのときにはもう今の姿をしていて、それ以前がどうだったのかは、今でも判らないままだ。だから当然、夢の光景にも見覚えはない。
だが、こうして何度も夢に見るくらいなのだから、何もないということはない筈だ。なにせ朧は、他の夢を見たことがない。そもそも夢を見ること自体が本当に稀で、恐らく百年に一度もないだろう。その夢が決まってあれだというのであれば、そこには必ず意味がある。
だからあの夢は、本当に原初の、自分すらも知らない自分の記憶なのでは、と。
(あの方にもう一度出会うことができれば、きっと)
濃紺の海に浮かんだ青白い光を見上げ、朧は思う。
夢の中で自分に手を差し伸べてくれた存在は、朧に良く似た姿をしていた。
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