影双形対を願う 1
一人で済ませなくてはならない所用ができたから、悪いけれどここで待っていてくれるかい?
椿が朧から唐突にそう言われたのは、今夜泊まることを決めた宿の部屋に入った直後のことだった。
窓の外を見つめつつ言った朧に、椿は僅かな疑問を抱きつつも、素直に頷いて返す。
所用の内容は判らないが、朧が一人で済ませるべきだと判断したのならばそうなのだろうし、椿はそんな朧に無理矢理ついて行こうとは思わなかった。
「突然ごめんね。夕食の時間までには帰ってくるから」
申し訳なさそうに言った朧に対し、椿は首を横に振って笑顔を浮かべる。
「朧さんが謝ることはありません。僕は大人しくこのお部屋で待っておりますので、どうか焦らずにご用事をお済ませくださいね」
そんなやり取りをして朧が宿の外へと出て行ったのが、天頂に昇った陽が傾き始めた頃。それから少し時間が経って、今はちょうど一番気温が高くなるような頃合いだった。
照りつける陽光は強く、外にいれば汗が滲むような暑さなのだろうが、宿の中はそこまでではない。寧ろ、開けた障子窓から吹き込む風が気持ちよく感じられるような、居心地のいい気温だと椿は思った。
(さて、どうしようかな)
朧を見送ったあと、取り敢えずは宿の中でできることをしようと考えた椿は、まず旅の荷物の整理を始めた。と言っても、椿も朧もそこまで持ち物が多い訳ではないし、朧の荷物の中身を勝手に触るような不躾なことはできないので、大した量もない自分の持ち物を再確認するだけで終わってしまった。それではと、続いて朧が置いていった薬箱を綺麗に拭いて磨いたりもしてみたが、それもそこまで時間がかかる作業ではなかった。
思っていたよりも早く手持ち無沙汰になってしまった椿は、畳に座って外を眺めつつ、うーんと呟いた。
(繕い物、はこの前やっちゃったし、宿に泊まるとなると焚き木用の枯れ木集めもないし、かと言ってこんな時間からお昼寝しちゃうと、夜眠れなくなっちゃいそうだし……)
何か他にやれることはないだろうか、と椿が頭を悩ませていると、ふと部屋の外で、何かが落ちるようなどかんという音がした。
ほんの僅かだけ迷った椿は、しかしすぐに立ち上がって、戸の方へ向かう。そして戸を開けてそっと外と窺うと、すぐそこの廊下で老婆が倒れているのを見つけた。
「だ、大丈夫ですか!?」
すぐさま駆け寄った椿が老婆を助け起こすと、彼女は少しだけ恥ずかしそうな顔をして笑った。
「いやぁ、すまないねぇ。どうも最近脚の調子が悪くて、もつれて転んでしまったのさ」
老婆は盛大に転んだらしい割に、一見すると平気そうな様子だったが、それでも椿は心配そうな顔で彼女を見た。
「大事でないようなら何よりですが、もしも頭を打っていたりしたら大変です。痛むところや、お怪我などはありませんか?」
「ああ、心配してくれてありがとうねぇ。……うーん、頭は打っていないし、大きな怪我もないんだけど、これはちょっと脚を捻ったかもしれんねぇ……」
言いながら、老婆は少しだけ顔を顰めて右の足首をさすったが、すぐに柔和な笑顔に戻って椿に笑いかけた。
「まあでも、大したことはないよ。その辺で少し休めば、またすぐに歩けるようになるさ」
そう言って立ち上がろうとした老婆を、椿が慌てて止める。
「軽い捻挫だとしても、むやみやたらに動いては駄目ですよ。骨と違って、軟組織の損傷は悪化させると治りが遅いらしいんです」
「おやおや、まだ小さいのに博識な子だねぇ」
「あ、いえ、その、……一緒に旅をさせていただいている方が、そういったことにお詳しいので……」
感心したように言われ、椿は思わずしどろもどろになりながら、言い訳をするようにそう口にした。別に何か悪いことをした訳ではないのだが、もしも朧から聞きかじっただけの知識を得意そうに披露したように聞こえてしまったのだとしたら、それはとても恥ずかしいことだと思ったのだ。
だが老婆は、なんとなくばつが悪そうにしている椿の様子に言及することなく、ただ小さくため息をついた。
「しかし、困ってしまったねぇ。動かない方が良いと言っても、このまま廊下に座り込んでいる訳にもいかないだろうし……」
そう言ってもう一度ため息をついた老婆に、椿は自分が出てきた部屋をちらりと見てから、再び老婆へと視線を戻し、迷うこと一瞬。
「……もしもご迷惑でないようでしたら、僕がお借りしているお部屋で簡易的な手当てをいたしましょうか? と言っても、薬などは使わず、捻ったところを固定する程度の処置になってしまいますが……」
それでもしないよりはマシだろうし、応急処置をすれば少しくらいなら動いても大丈夫だと思う、と言った椿に、老婆はまじまじと彼の顔を見たあとで、ふわりと柔らかな笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、お言葉に甘えてしまおうかねぇ」
「はい、勿論です」
そう言って老婆に微笑み返しながら、椿は内心で朧に謝罪した。
得体の知れないものを自分の領域に招き入れてはいけない、とは、椿が朧から散々言われていることのひとつである。顔見知りでない以上、この老婆は椿にとっては得体の知れないものであり、自分の領域である宿の部屋に入れて良いような存在ではない。
それは判っているのだが、だからといってここで老婆を見捨てられるほど、椿は薄情にはなれなかった。
自分に訪れるかもしれない危険と、それによって朧にかけてしまうだろう迷惑についてしっかりと考え、だがそれでも、椿は老婆に手を貸すことを選択したのだ。
(…………やっぱり、甘え、だよね……)
自分の小狡いところに気づいてしまったような気がして、椿は少しだけ気落ちしながらも、それを表に出さないように努めて老婆を部屋へと招き入れた。
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