影双形対を願う 2

 椿の手を借りてひょこひょこと入ってきた老婆を座布団に座らせてから、椿は自分の荷物を漁って、古布を割いて作った包帯を取り出した。この包帯は何かあったとき用にと椿が個人的に用意したものなので、これを使うのであれば、朧に迷惑が掛かることはないだろう。

 朧に教わった手順を思い出しながら、椿が老婆の足首に包帯を巻きつけていく。きつすぎず緩すぎもせず、きちんと足首を固定できるだけの強さで包帯をしっかり巻いてから、最後に確認するように老婆の足首を持ち上げたり握ったりして、椿はひとつ頷いた。

「ひとまず、これで応急処置にはなったと思います」

「いやいや、ご親切にありがとうねぇ」

 礼を言う老婆に椿がにこりと笑い返せば、老婆もまた朗らかな笑みを浮かべてから、ふと部屋に置いてある朧の薬箱を見た。

「ああ、随分手当が手慣れていると思ったら、ぼうやは薬師様のお弟子さんかい?」

「あ、いえ、弟子とは少し違うのですが、薬師様と一緒に旅をしているんです。とてもお優しい方で、あまりものを知らない僕に、色んなことを教えてくださって。手当の仕方も、薬師様に教わったんです」

 そう言って微笑んだ椿に、老婆が柔らかく目を細める。

「ぼうやは、その薬師様のことが大好きなんだねぇ」

 むず痒くなるような温かさを感じさせる音でそう言われ、椿は何故だか狼狽えてしまった。

「え、い、いえ、あの、ええと、確かに、好きか嫌いかで言ったら、とても好ましいとは思っていますが」

 あたふたと言葉を並べる椿に、老婆は可笑しそうに声を上げて笑った。

「いや、ぼうやにそんな顔をさせるなんて、少し興味が出てしまうねぇ。一体どんな薬師様なんだい?」

 言われ、椿はぱちりとひとつ瞬いた。

「どんな……。ええと、とてもお優しくて、人助けを好まれて、綺麗なお姿をしてらして、身寄りがない僕を引き取ってくれて、それから実はとてもお強くて……」

 思いつく限りの事柄を口にしながら、しかし椿は途中で途方に暮れたような顔をして口をつぐんでしまった。

 朧との旅が始まってもう三年が経とうとしているが、椿が朧に関して知っていることと言ったら、呆れてしまうほどにごく僅かだ。とてもではないが、彼を誰かに紹介できるような立場にあるとは思えなかった。

 それがなんだか悲しいような悔しいような気がして、椿は俯いて畳を見つめた。

「ぼうや?」

 不思議そうな老婆の声が耳に触れて、椿ははっとして顔を上げた。そして、困ったような笑みを浮かべる。

「あ、……すみません。その、……僕も、薬師様のことをよく知らないな、と」

 どことなく気落ちしたような声が言い、それに対して老婆は数度瞬きをした。そしてそれから、彼女は傍らに置いてあった己の荷物を漁り出した。

 どうしたのだろうか、と思いながら見守る椿の前で、老婆が両手に収まるくらいの筒を取り出してみせる。綺麗な千代紙が丁寧に貼られたその筒には、見覚えがあった。

「万華鏡、ですか?」

「おや、万華鏡を知っているのかい? 結構珍しい品だと思っていたんだが」

「旅の中で、珍しい品を扱う行商の方と出会ったことがありまして。そのときに覗かせて貰ったんです」

 筒の中に入った色とりどりの硝子片と鏡とが織りなす、それはそれは美しい光景だったな、などと思い返しながら言った椿に、老婆はそうかいそうかいと笑った。

「でもね、これはちょっと特殊な万華鏡なんだよ」

「特殊、ですか?」

「ああ。ぼうやには親切にして貰ったからね。お礼と言ってはなんだが、特別に見せてあげよう」

 そう言って、老婆は手に持っている筒を椿に差し出した。少しの躊躇いのあとでそれを受け取った椿に、老婆が覗いてみるようにと促す。それを受けて、やはり躊躇いを残しつつも、椿はそっと万華鏡を覗き込んでみた。

「……え?」

 万華鏡の中を見た椿の口から、驚いたような呟きが零れる。

「朧さん……?」

 覗き込んだ先、硝子片と鏡とで構成された幻想的な景色の中にふと、朧の姿が見えたのだ。

 そしてその瞬間、椿の視界がぐるりと回った。まるで万華鏡の世界に取り込まれてしまったかのように、視界に映るものが多重になり、椿の感覚を狂わせる。ぐるぐると巡る景色に頭がついていけず、目を回したときにも似た感覚が椿を襲って――

 しかしそれは、転がっていた球が窪みに落ちて綺麗に嵌まったように、唐突に収まった。

「……ここ、は…………?」

 辺りを見渡して、椿はぱちぱちと瞬きをした。

「鏡……?」

 そう。鏡だ。

 椿がいる小部屋のようなその空間は、床も天井も壁も、全面が大小様々な鏡によって覆い尽くされていた。だが不思議なことに、それらはまるで独立しているかのように、それぞれの鏡の大きさに合わせた大きさの椿が一人ずつ映っている。大きさの異なる何人もの自分と見つめ合うことになった椿は、その異様な光景に怯えて出口を探そうと視線を巡らせた。だが、どこを見ても自分が見つめ返してくるだけで、出口らしきものは見当たらない。

 しかしそのとき、硝子片が流れるような不思議な音が辺りに響いて、鏡に映るものが一変した。

「……え、」

 先程まで椿を映していた鏡たちが新たに映し出したものに、椿は息を呑んだ。

(……………朧、さん)

 何十とある鏡全てに、朧が映し出されている。それも、椿が映っていたときとは違い、全て異なる景色の中にいる同一ではない朧だ。それらが時間軸の異なる朧なのだということに、椿はすぐに気づいた。

(こっちは僕と出会ったときの朧さんで、あっちは多分僕と出会う前の、僕の知らない朧さん……)

 鏡に映る景色たちは様々で、時間も昼だったり夜だったりしたが、そのどれもに必ず朧が映っている。

 一体この空間はなんなんだろうか、と思いながら鏡を見回していた椿は、ふと視界に入ったひとつに、僅かに目を見開いた。

(…………朧さんが、笑っている)

 朧はいつも柔らかく微笑んでいるから、笑顔くらい別に珍しくはない。だが、椿が目にしたその朧は、これまでに見たこともないような笑みを浮かべていた。そう、まるで、沢山の幸いを詰め込んだような、愛おしさのすべてを注ぎ込んだような、そんな特別な笑顔だったのだ。

 無意識のうちに動いた足が、鏡の元へと椿を運ぶ。そして椿は、何かに引き寄せられるようにして、微笑む朧が映る鏡に手を伸ばし、

 椿の指先が鏡に触れたその瞬間、まるで水面が揺らぐようにして鏡の中の朧が揺れ、そのまま波紋が広がるように波が駆け抜けたかと思うと、バラバラに繋ぎ合わされていた鏡たちが見る見るうちに一枚の鏡へと融合していった。

 そうして、椿がいる空間が繋ぎ目のない連続した鏡に覆われると同時に、映る景色もたった一種類へと固定される。

 そう、椿が思わず目を留めてしまった、あの朧がいる景色に。

 朧は小さな集落の外れにある丘の上に立って、何かを見ている。それを追うようにして椿が視線を移せば、朧の目線の先にあるのが集落で動き回っている一人の人物であることが判った。

『今日も元気だねぇ』

 酷く優しい声で彼が言ったのが聞こえて、椿は思わず自分の耳に触れる。鏡に映った風景を見ているだけだというのに、朧の髪を揺らす風の音や、彼の頭上に見える木から落ちる鳥の囀り、ともすると朧が吐き出す息の音すらもが椿の耳に届いて、あたかも現実であるかのように錯覚しそうなほどだった。

 そしてここまでくれば、椿も自分が見ているものの正体がなんとなく判った。

 これはきっと、朧の過去の投影だ。

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