少年と薬師 2
「取り敢えず、ここを動かないでおきましょうか。ただ歩くだけでは外に出られないようですし、今は体力を温存しましょう」
精一杯明るい声でそう言った椿に、しかし五郎は暗い顔をして呟いた。
「…………おらたち、鬼に食われちゃうんかな……。おら、まだ死にたくねぇよ……」
ぎゅうっと膝を抱えた五郎の頭を、椿が撫でる。
「大丈夫ですよ。きっと朧さんが助けに来てくださいますから」
「……おら、ねえちゃ、……あんちゃんと違って、おぼろって人のこと知らねぇもん……」
「うーん、……そうですね。朧さんは、とても強くて、とても優しくて、色々なことを知ってらっしゃる方です。ですから、きっと僕たちの居場所を探り当てて、必ず助けに来てくださいます」
きっぱりとそう言った椿に、五郎が不思議そうな顔をして椿を見た。
「助けてもらったこと、あるみてぇな言い方……」
「え、ああ、そうですね。そもそも僕は、朧さんに命を救って頂いた身なので、」
言いかけた椿だったが、ふと背後でがさりと音がしたのを耳にし、咄嗟に後ろを振り返った。大きな獣か何かが動いた、そんな音だ。
振り返った先には何もいない。だが、椿は冷や汗が背中を伝うのを感じた。本能はすぐさまこの場から逃げろと訴えて来るが、だが椿はそれを無視して、五郎を守るように彼の前に出た。
「あ、あんちゃん……?」
椿の様子がおかしいことに気づいたのだろう五郎が、怯えた声で椿を呼ぶ。そんな彼に、椿はゆっくりと言い聞かせるように言葉を吐き出した。
「……立って、僕の後ろの方へ、走ってください。何か、います」
静かな声に、しかし五郎は泣きそうな顔を首を横に振る。
「こ、腰抜けちまって、立てねぇ……!」
椿がそんな五郎を振り返るのと、その背後で何かが跳び出て来るのが同時だった。
ぞっと背筋を走った悪寒に、椿が視線を音の方へと戻す。その先にいたのは、乳白色の肉の塊のような何かだった。いや、良く見れば塊の上の方に、肉に埋もれた顔が見えた。顔だけならば、美しい女のような見た目をしている。だが、それが埋もれている肉塊の方は酷いものだった。無数の手足がムカデのようについており、およそ人の形とはかけ離れている。ぱんぱんに膨れ上がった部位は、恐らく腹にあたるのだろうか。とかく醜悪な何かだった。
だがその見た目以上に、この化け物が醸し出している雰囲気が異常だ。椿は薬師との旅の中で様々な現象や妖しに遭遇してきたが、これはその中でも非常に危険な部類である。
状況が芳しくないことを察した椿が、じりじりと後ずさりしながら五郎の腕を掴む。その時、化け物の顔が肉を泳ぐようにずるりと移動し、ちょうど椿と目線が合う位置に降りてきた。そして、ひゅっと息を呑んだ椿に向かって、怖気がするほどに艶然と微笑む。
「ミィ、ツケ……タ……」
女とも男とも、子供とも老人ともつかないような、酷く現実味の薄い声が、椿の耳を舐めた。そのおぞましさに喉を引き攣らせた椿が、ほとんど本能的に五郎の腕を引き寄せて、その腰に手を回す。
前触れなく椿に抱き締められた五郎は面食らったが、それよりも次の瞬間襲ってきた浮遊感に驚き、彼は情けない悲鳴を上げてしまった。
体が浮いている。そう認識すると同時に五郎の目に飛び込んできたのは、椿の背中から生える黒塗りの翼だ。
そう、五郎を抱えた椿は、背に生えた黒翼で宙を飛んでいるのである。
「ぁ、あ、あんちゃん!?」
悲鳴じみた声で呼ばれた椿は、ちらりと五郎の顔を見てから前に向き直った。木々の隙間を縫って低空飛行するのは、かなり集中力がいるのだ。
「すみません! 僕はあまり力がないので、できれば五郎くんの方からもしっかり捕まってください!」
言われた五郎は慌てて椿にしがみついたが、さっぱり事態が呑み込めない。
「あ、あんちゃん、何者なんだ……!?」
「隠していていてすみません! 僕、人間じゃなくて妖しなんです!」
「あやかしぃ!?」
椿の告白に更に問い詰めようとした五郎だったが、先程の化け物が椿の背後から物凄い勢いで這い寄ってきているのを見咎め、引き攣った悲鳴を上げた。
「あ、あんちゃん! あいつ追って来てるよ! 早くもっと上に行かないと!」
「上に行きたいのはやまやまなんですが、森が逃がしてくれないんです! 恐らく結界のようなもので閉じ込められているのかと!」
「そんな!」
五郎が絶望した声を上げたが、椿にはどうしようもなかった。薬師とはぐれたあと、何度も空からの脱出を試みた椿だったが、椿が上へと飛べば飛ぶほどに抜かせまいと木々が伸び、最終的に空への道を塞がれてしまうのだ。その状況でもしあの化け物が木を登って来たら、逃げ場がなくなってしまう。それを避けるためには、低空飛行で逃げ続けるしかなかった。
化け物は木々を薙ぎ倒しながら追い縋って来て、椿もそれに負けじと速度を上げる。だが、自分よりも重いであろう五郎を抱えた状態の飛行は、思っていた以上に負担だった。懸命に風を読んで翼を動かすが、その額には汗が滲み、呼吸も段々と荒くなっていく。
疲れは椿の飛行速度を徐々に低下させ、そしてついに、化け物の顔が椿のすぐ背後まで迫った。
「フフ、フ……カワイイ、コドモ、タチ……ワタシガ、マモッテ、アゲル……」
背中に感じる吐息に、椿が思わず振り返る。その瞬間、化け物の顔の下、胸に当たるのだろう部分が四つに割れるように大きく裂けた。そしてその隙間から、ずらりと並んだ無数の人の歯が覗く。腹部にまで走ろうかというほどに巨大なそれは、異形の口だったのだ。
ぐぱりと開いた隙間からは粘着質な唾液が零れ落ち、鼻をつまみたくなるような悪臭が椿と五郎を襲った。だがそんなものは、迫りくる死の気配に比べれば大したことではない。
もうこの時点で、五郎は決定された死を感じていた。だが、椿はそうではなかった。もう椿自身ではこの死から逃れることなどできないが、それでも彼は自分が死ぬとは思っていなかった。
けれど、椿だって怖いものは怖い。だから、震えることすらできずにただ死を見つめる五郎をきつく抱き締め、目を閉じた。その時――――
――かーごめ かごめ
この場にそぐわない、酷く優しい声音で紡がれた唄が空気を震わせた。それと同時に、化け物の動きがピタリと止まる。
――かーごのなーかのとーりーは いーついーつ でーやーる
どこから聞こえて来るのか判らない歌声は尚も響き、先ほどまで椿たちを追うことに夢中だった化け物は、まるで何かを探すようにきょろきょろと周囲を見回した。
「コ、コドモ……? アカ、ゴ……?」
ブツブツと呟く化け物から、椿がゆっくりと距離を取る。気づかれないように、本当にじわじわとだ。
――よーあーけーのばーんーにー つーるとかーめが すーべった
そこまで唄が響いたところで、化け物が奇声を上げて辺りの木々を薙ぎ倒し、文字通り血眼になって何かを探すように視線を巡らせた。
「アガゴォ! アガゴォォォォォ! ウマレネバ! ウマレネバァァァァァァァ!」
めきめきと音を立てて倒れてくる木をなんとか躱しながら、椿がようやく地面に足をつける。すっかり息が上がった彼は、しかし五郎を抱いたまま化け物の方を見た。
「後ろの正面 だーあれ?」
声がそう言った。その瞬間、化け物の手足という手足が全て根元から切り落とされたのを椿は見た。
そして、支えるものがなくなって地面に倒れ込んだ化け物の背後から、一人の人物が姿を見せる。まるで最初からそこにいたかのような不自然さを持って現れたその人物を見て、椿が思わず叫んだ。
「朧さん!」
「やあ、椿くん。遅くなってしまってごめんね。怖かっただろう?」
そう言って微笑んだのは、大層美しい顔だった。月光を掻き集めて織り上げたような白銀の長髪と、雄大にもどこか優しい海のような蒼い瞳、降り積もった朝の銀雪のような白い肌。どれもが完璧に美しいこの男こそ、椿が共に旅をしている薬師である。
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