朝影の密か 4

 そっと空を見やった椿は、太陽を見て顔を歪める。いつの間にか、陽は随分と低い位置にまで落ちてきていた。

「貴方は他のものと同じように、彼女を唯一にしたい、彼女の唯一になりたい、とは思わなかったのかい?」

 朧の問いに、木は迷うことなく肯定を返した。

『そういうことは何一つ、望んでいないのです。ただ、彼女が幸せであってくれれば、それで良い。そして叶うならば、その幸いの一助になることができれば、と。それだけが、私の願いです』

 だから、彼女の特別を求めようとは思わないのだと、木はそう言った。そんな木に対し、朧が尚も問う。

「相手は人の子だ。貴方を貴方と認識することはなく、貴方の行いを知りもしない、ただのか弱い生き物だよ。それでも、貴方は彼女を愛し、彼女の幸福のためだけに全てを捨てるんだね?」

『いいえ、美しいものよ。それは違います。私は何も捨ててなどいないのです。全てを使って、私の全力で彼女を守った。ただそれだけなのです。そして、私はそれを後悔などしておりません』

 悔いはない、と言った木は、しかし次いで何かを躊躇うように押し黙った。美しく彩られた庭に暫しの静寂だけが訪れたが、朧は何も言わず、椿もまた、朧と木の会話の邪魔にならないようにと唇を引き結んでいた。

 そうしてただ、ささやかな風と日差しだけが小さな音を奏でる中、再び木が声を出す。

『……美しいものよ、貴方の仰る通り、この身は夜を待たずして滅ぶことでしょう。ですが、それでは彼女もまた、朝を迎える前にその命を終えてしまう。…………ですから、どうか、死に行く私の最後の望みを聞いてはいただけないでしょうか』

 言うまいと耐え続け、それでもとうとう零れてしまったような、そんな声だと椿は思った。

 絞り出すような言葉たちに、朧は木を見つめ、口を開く。

「私なら、彼女に表れる症状を抑えることができる。……それでも、望むのかい?」

 諫めるような色を含んだその声に、しかし木はそれを振り切るようにして言葉を発した。

『それでもです。それでも、私は貴方にこいねがいたい』

 大樹の声に、朧は何も言わない。何も言わず、続く言葉を待つように木を見つめ続ける。その無色透明のような視線を受けて、しかし大樹は僅かな躊躇いもなくそれを告げた。

『どうか、あと三日。彼女の婚姻が成されるそのときまで、この命を繋ぎ止めてください』

 微かな揺れすら抱かない音色は、己の願いが無謀ではないことを知っている旋律だ。その意思に迷いはなく、同時に不安や畏れもない。ただひたむきな祈りにも似た、しかし否を許さぬ強い声だった。

 告げられた望みに、椿は戸惑ったように朧の横顔を見上げ、朧はそんな椿をちらりと見た。

 椿に向けられた深い海の瞳は、まるで躊躇うような色を滲ませていたようにも見えたが、朧が椿に視線を投げたのは一瞬のことだったので、椿には確信が持てなかった。

「……その望みは、理から外れたものだ。貴方の命はもうここで終わる。願いと想いによる奇跡はとうに成され、理の最果てに至る延命は既に遂げられた。故に、その望みは叶わない」

 朧の声は、やはり諭すような静けさを持って空気を震わせた。それは椿もこれまで聞いたことがないような、酷く静謐な音だった。

『知っておりますとも。理を外れた願いは、いくら願っても叶うことなどない。……けれど、それでもどうか願わせて欲しいのです。最早死しているも同然の私を目覚めさせた貴方ならば、或いは理を超えることもでき得ると、どうしてその可能性を否定できましょうか』

 起こり得ない奇跡を夢見ているにしては、あまりに確かな音だ。だが椿は、大樹が告げた望みに困惑を隠せないでいた。

 尽きゆく命を継ぎ足して欲しい、と。この木はそう言っているのだ。けれど、どんな力を以ってしても死者が蘇ることなどないように、消える時の定まった命もまた、その理から逃れることはできない。

 ならば、朧に託せば良いのだ。己では成し遂げられなかった最後のひと欠片を、朧に継げばいい。だからこそ朧は、やんわりとそれを提示した。大樹の代わりに、婚姻のときまで彼女を守ろうと。朧の力ならば、それが可能だと。

 しかし、大樹はそれを望まなかった。確実に叶うだろうそれではなく、叶うかも判らない、己が生きる僅かを願った。

(……きっと、自分の手で彼女を守り抜きたいから)

 椿が胸の内でそっと呟いたそれは、疑いようもない真実のように彼の奥にすとんと落ちて来た。

 深く深く、誰よりもその一人だけを愛しているからこそ、その一人のために自分のできることを全て注ぎたい。そういう気持ちを、椿は知っている。

 静かに葉を揺らして沈黙する木に、朧はそっと瞼を閉じ、細く息を吐き出した。そして、吐息に紛れて溶けてしまいそうな音色で、静かに言葉を落とす。

「……ひとたび理の外へ出てしまえば、もう二度と還ることはできない。めぐるべき魂は傷つき壊れ、塵芥となって消えるだろう。…………それでも貴方は、願ってしまうのだろうね」

 小さなその声は、子を見守る親の優しさにも、流れる星を見送る悲しさにも似ていた。そんな寂しい音色に、大樹はそっと微笑むような声で言う。

『はい。それこそが、私の幸福なのです』

 木が紡いだそれが心からの言葉であると、椿でも判った。だから椿は、思わず朧の袖を掴んだ。

 朧を見上げる紅の瞳が、駄目だと訴えるような色を映している。けれど朧は、それに対してやんわりと笑ってみせた。椿を安心させようとしたのだろうそれは、しかしどうしてだか、酷く寂しさを感じさせる笑みだった。

「心配しなくても、私は大丈夫だよ。…………本当にね、大したことではないんだ」

 まるで自嘲するようにそう呟き、そっと椿から視線を外した朧は、次いで大樹を見上げた。

「婚姻が成立するまで、だ。残されたその僅かな時間だけ、貴方の命を継ぎ足そう」

 そう言った朧が、手で触れている木肌をそっと撫でる。瞬間、朧の掌が淡く光り、その輝きが木に吸い込まれていくのを椿は視た。

『ああ、有難い。本当に、有難いことです』

 歓喜に打ち震えるように枝葉を揺らした木が、朧に向かって感謝の言葉を告げる。

『貴方のお陰で、私はまだ彼女を守ることができる。彼女の旅路を見送り、祝福することができる。心より感謝申し上げます、美しいものよ』

 まるで今にも泣きそうな声が言ったそれに、木肌から手を離した朧は柔らかく笑んだ。

「貴方の望みの一助になったのなら、幸いなことだよ。……けれど、婚姻の日まで、その身を襲う苦痛は加速的に増すことだろう。貴方はもうあと二日余り、それに耐えなければならない」

『元より承知の上です。彼女の代わりに負う痛みであれば、どんなものでも耐えてみせましょう』

 なんでもないことのように言った大樹に、朧はそうかとだけ答えてから、椿を振り返った。

「という訳で、悪いんだけれど、婚姻の日までこの町に滞在しても良いかな? 関わってしまった以上、できれば見届けたいんだ」

 朧の言葉に、椿は頷いて返した。

「はい、勿論です」

「ありがとう。それじゃあ、ひとまずは領主様のところへ戻ろうか」

「……はい。戻って、この方がお嬢さんを守ってくださっていたというお話をお伝えしましょう。領主様とお嬢さんは、いえ、お二人を含むこの町の人たちは、皆さん勘違いをなさっています」

 あんな木は切り倒しておけば良かったという領主の言葉を思い出しながら、椿はそう言った。ずっと彼女を守り続けてきた優しい大樹を諸悪の根源のように扱うなど、そんな間違いは許されない、許されて良い筈がないと思ったのだ。だがそんな彼に対し、大樹が殊更に強い音を発した。

『優しい子よ、どうかそれはおやめください』

「え……、な、何故ですか? だって貴方は、ただあのお嬢さんを守り続けてきただけなのでしょう? でしたら、悪し様に言われるようなことは何も、」

『いいえ、それで良いのです。私が全ての元凶であり、私がいなくなれば彼女は救われる。それで良いのです』

 静かな声に、椿は困惑して朧を見た。そんな少年に対し、大樹は諭すように言葉を落とす。

『私がずっと彼女を守っていたことを彼女が知ったら、私の死が憂いとなるかもしれません。生まれたときよりの守りを失ってしまったと、不安になってしまうかもしれません。それは嫌なのです。ただ、彼女には幸福であって欲しい。だからこそ、摘み取れる憂いの芽は摘んでおきたいのです』

「で、でも、」

 言い募ろうとする椿を、朧が片手で制した。

「憂いや不安というのは、ときに良くない連鎖を生むものだ。特に彼女の場合、守護を失ったという事実で心が揺れてしまえば、そこをまた狙われてしまう可能性がある。確かに婚姻相手の家の守りはとても強力だけれど、何もかもを防ぎ切れる訳ではないからね。彼女自身にそういった負の感情、しかも良くないものに直接関わる不安なんかを抱いてしまった場合、そのせいでささやかな不幸が落ちてくる、なんてことは割とあり得ることだ」

 だから木の言い分は正しいのだと、朧はそう言った。そして、そう言われてしまった以上、椿に言えることはもうない。

「……でしたら、ひとつだけ、我が儘を言っても良いでしょうか」

 朧を見上げ、椿はそう言った。

「なんだい?」

「……お嬢さんが祝言を挙げられるときまで、可能な限り、この方のお傍にいさせてください。勿論、お邪魔じゃなければなのですが……」

 そう言った椿が窺うように大樹を見れば、大樹は微かに笑うような音で応えた。

『話相手になってくれるというのですか? それはとても嬉しいことです。実は私も貴方にお話したいことがありますし、寧ろこちらからお願いしたいくらいですよ』

 返ってきた言葉に、もしかすると気を遣わせてしまっただろうかと思った椿だったが、今更気にしても仕方がないと考え直し、再び朧を見た。その視線を受けて、朧が頷く。

「うん、良いと思うよ。話をすれば、痛みも紛れるかもしれないしね。それじゃあ、椿くんがここに居ても良いように、それらしい理由をつけて領主様にお話ししよう」

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