朝影の密か 3

 領主の承諾を得て、椿と共に庭の大樹の下までやってきた朧は、墨よりも黒く染まった木をまじまじと見た。

 それらしい理由をつけて人払いをお願いしたため、ここには朧と椿しかおらず、二人の会話が聞こえる範囲にも人はいない。

「さて、それでは椿くん。こうして至近距離で木を見ることができた訳だけれど、君の見解を聞こうか」

「ぼ、僕の見解、ですか……?」

 柔らかな微笑みを浮かべて見てくる朧は、まるで椿に問答を仕掛けて楽しんでいるようだ。こうして朧が椿に問い掛けをすることはよくある。答えを知っているからこそ、椿がそこに至れるかどうかを試しているのだ。いや、試しているというよりも、そこに至るまでの道筋を辿れるようになるように学ばせている、という方が正しいのかもしれない。

 なんにせよ、朧の問いが自分に出された課題であると知っている椿は、じっと木を見つめて少しだけ考え込んだ。

 大きな木だ。領主の話によると、娘が生まれる前までは、春になると綺麗な薄紅色の花を咲かせる木だったのだという。

 椿は植物にそこまで詳しい訳ではないが、それでもひとつの樹木がこれほどまでに成長するためには、それなりの時間を要することくらいは知っている。それだけ、長いことこの家で大切に育てられてきた木なのだろう。

 なんとはなしに大樹に近づき、その黒い幹に触れようとした椿は、そこでふと動きを止め、伸ばしかけた己の手を見つめた。そして、朧を振り返って口を開く。

「……僕は、この木が悪いものだとは思えないです」

「ふむ。理由は?」

 問われ、椿は一瞬だけ躊躇うような素振りを見せてから、そっと声を出した。

「なんとなく触れそうになって、でも、そのことに気づけたからです」

 その言葉に、朧が柔らかく目を細める。その深い青の目を見つめながら、椿は言葉を続けた。

「無意識に触れそうになるということは、僕がこの木に対して嫌なものを感じていないということです。そして僕は、実際に木に触れる前に、自分が木に触れようとしていることに気づけました。もしも木が僕を惑わし、危険ではないと誤認させようとしているのだとしたら、僕は自分の行動に気づかず、そのまま触れてしまったと思うんです。だから、この木から嫌なものを感じないという僕の感覚は、本物だと思いました」

 故にこの木に害はないと、椿は結論付けた。そう朧に言えば、朧はふわりと微笑んで椿に手を伸ばし、黒く艶やかな髪を優しく撫でた。

「うん、正解だと思うよ。私も、この木が悪さをしているとは思えないな」

 朧の優しい温度に慈しむように触れられ、椿の頬がほんのりと赤く染まる。だが、朧はそれに気づかないふりをしてそっと手を離し、言葉を続けた。

「椿くんの考え方はとても正しい。少なくとも今回に関して言えば、完璧な答えの出し方だ。……けれど、過信してはいけないよ。本当に厄介なものというのは、まるでそれが真に自分の感覚であるかのように、巧妙に思考を侵食してくるから」

 言われ、椿はこくりと頷いた。

「朧さんが昔仰っていた、危険だと判るものは危険ではない、というお話ですよね」

 椿の言葉に、朧が優しく笑んだ。

「よく覚えていたね」

 そう言って、褒めるようにもう一度椿の頭を撫でてから、朧は木を見上げた。そしてそのまま手を伸ばし、白く細い指先で黒ずんだ木肌をなぞる。

「……貴方は彼女を呪っていたんじゃない。ずっと、守っていたんだね」

 呟くように落とされたその声に、まるで応えるようにして、ほとんど枯れ果てた枝葉が微かに揺れる。それを見た朧は、僅かに躊躇うように間を置いたあとで、その掌を木肌へと押し付けた。すると、

『……ああ、有難い』

 男とも女ともつかない、中性的な声が椿の耳に響いた。静かなそれは、耳に心地の良い音色をしている。

 一瞬だけ理解が遅れた椿は、しかしすぐにその声の持ち主に気づく。確信を持って目の前の木を見上げれば、また枝葉がさやさやと小さく揺れた。

『もう、口を利くことすら叶わぬだろうと思っておりました。……美しいものよ、貴方のお陰ですね』

「私はただ少しだけ力を貸しただけだよ。大したことじゃあない」

 木に掌をつけたまま、朧はそう言った。

「無理矢理に目覚めさせてしまって、申し訳ないことをしたかな」

『いいえ、そのようなことは。……しかし、貴方もお気づきでしょう。この身はもう、終の旅路を終えているのです』

 僅かな悲しみを孕んだ静かな声に、朧が目を伏せる。

「知っているよ。貴方はもうとっくにその命を燃やしきっている。ただ、その強い想いだけで、奇跡のように残り火を留め続けているだけだ。……けれどそれも、じきに終わるだろう」

 その言葉に、椿は驚いて朧を見た。

「じ、じきに、ですか……?」

 それはいつのことなのだろうという気持ちが滲む言葉に、朧は椿を見て少しだけ悲しそうな顔をした。

「正確に判るわけではないけれど、遅くとも夜の訪れまでには」

 静かな声に、椿は小さく息を飲んで大樹を見た。部外者である椿が悲嘆や憐みを抱くことは相手に対する侮辱かもしれないと判っていても、椿はその気持ちを隠し切ることができなかった。

 だが、そんな椿に対して、まるで優しく微笑むように大樹の葉が揺れた。

『悲しんでくれるのですね、優しい子よ。けれどよいのです。これは私が望み、願い、それが叶った証左。だから、これ自体には何も不幸なことなどないのですよ』

 穏やかで耳に心地の良い声がそう言ったが、椿はますます悲しい気持ちになるだけだった。そんな椿へと慰めるような優しい視線を向けてから、朧は再び木を見上げた。

「彼女の身を蝕んでいたのは、病でも呪いでもない。ただ、良くないものたちに好かれ、求められているからこそ訪れる、不幸のひと欠片だった。多くの場合、そういうものが寄ってくる対象というのは、何かしら生き物としての道を外れた行為をしているものだけれど、彼女にそういう陰は見えない。ならば領主の方が原因かというと、彼のせいでもないようだ。……ただ単に、生まれながらの体質だね?」

 朧の言葉に、木は少しだけ驚いたような声を上げた。

『ああ、彼女を見ただけで、そこまでお判りになったのですね。仰る通り、彼女やその血縁には何の咎もありません。ただ、生まれ落ちるよりも前、母親の胎内に生じたそのときから、彼女は悪いものたちを魅了してやまないのです。一体彼女の何がそうさせるのかまでは判りませんが、そういったものたちは常に彼女の傍に在ろうと忍び寄り、ときには彼女を連れ去ろうとしました』

「そして貴方は、そんな彼女を守り続けてきた。良くないものたちの想いの全てを引き受け、彼女に降りかかる筈だった不幸の全てを一身に背負って、その身を削って庇護してきた」

 その結果がその姿なんだね、と続けた朧に、椿は改めて木を蝕む黒を見て、眉を下げる。

 良いものではない何かに好かれるというのは、それ自体が不幸を呼び寄せる原因になり、そして人のようなか弱い生き物にとっては、ときに致命傷にさえなり得る。そういう話は、朧から聞いて知っていた。

 他でもない椿自身、良くないものに好かれやすい性質なので、その恐ろしさは身に染みて判っている。朧が守ってくれなければ命を落としていただろうことだって、一度や二度の話ではなかった。そんな悪意の塊のようなものの集まりを、この木は全て引き受けてきたというのだ。その痛苦は、いかほどのものだろうか。

「彼女の婚姻が決まったのを境に彼女の身体に異変が生じたのは、恐らく彼女を欲しがるものたちの想いが強くなったからだ。婚姻はひとつの契約だから、それによって彼女は相手との強固な繋がりを得る。彼女を欲しがるものたちは、その繋がりを自分が持ちたいと思ったんだろう。そして、その想いがもたらす不幸は、とうとう貴方の身には余るものとなってしまった。だから、貴方が受け切れない不幸はじわじわと彼女へと流れ、彼女を蝕んだんだ。同時に、許容量を超えた毒に侵された貴方自身も、死に瀕してしまった」

 違うかな、と言った朧に、大樹はやはり少し驚いた様子で朧の言葉を肯定した。

「もうひとつ、彼女の婚姻相手も原因なのかな。彼女に繋がる糸は、清廉でいて鋭く輝く菖蒲の香りがした。詳しいことまでは判らないけれど、婚姻相手の家系は悪いものに対して強い抵抗力を持っているんだろうね。きっと婚姻が正式に成立すれば、良くないものたちは彼女に手を出せなくなってしまう。だから、そうなる前に彼女を手に入れようと、彼女に向ける思いが日に日に強くなっていったんだ」

『仰る通りです。婚姻さえ成されれば彼女に降り注ぐ不幸は止むと、そう信じてこれまで耐えて参りました。……ですが、私の微弱な力では、たった半年を凌ぐことすら難しかったようです』

 静かな声がそう言ったが、それに対して朧は首を横に振った。

「微弱だなんて、そんなことはない。寧ろ、よくぞここまで耐え抜いたものだとさえ思うよ。私は貴方ではないから想像することしかできないけれど、彼女と共に生きた十数年、貴方を襲い続けた痛苦は、きっと耐えがたいものだったろう。それでも、貴方は彼女を守り続けたんだ。誇りに思うことこそあれ、恥じることなんて何もない」

 普段通りの柔和な声に、しかし椿は、否を許さないような強さを感じ取った。

 きっと朧は、この木に自身の生き様を否定して欲しくないのだ。この木の行いを尊んでいるからこそ、どうか自身でもそれを認めてあげて欲しいと、そう願っているのだろう。それが木に伝わったかどうかは判らないが、少なくとも椿は、そうなのだと思った。

 しかし、それでも木は悲しそうに枯れかけの葉を揺らす。

『いいえ、私は無力です。私が尽きれば、彼女は朝を待たずして喰らわれてしまうでしょう。それは耐えがたい。私は、何に代えてでも彼女を守りたいのです』

「……この家を代々守護する守り木、という訳でもないように見受けるのだけれど、どうしてそこまで彼女を守りたいと思うんだい?」

 朧の問いは、椿も感じていた疑問だった。守護するものとして定められた何かがそれに固執し、何を置いてでもその責を全うしようとする様は、何度か目にしたことがある。だが、何を定められた訳でもなく、存在意義を固定された訳でもないこの木が、どうしてそこまで彼女を守りたいと望むのだろうか。

 その疑問に、大樹がさやりと葉音を奏でた。

『……初めは、ただの憐みからだったのだと思います。生まれ落ちた赤子に寄るいくつもの影を見て、このままではこの子は長くないだろうと。そう思うとそれが可哀相でならなくて、少しだけ力を貸そうと思いました。その頃はまだ、蕾をつける分の力だけで、悪しきものを退けることができていたのです。ですが、彼女を求める影たちは日に日に増え、その力を増していきました。五年もする頃には、彼女の代わりに受けた災厄によりこの命は加速的に削れ始め、このままでは私は死んでしまうのだろうと悟りました。……ですが、それでも私は彼女を守りたいと強く思った。そしてそこで、ようやく気づいたのです。私はいつの頃からか、彼女に恋をしていたのだと』

 さやりさやりと葉が擦れ合い、微かなそれは涙の落ちる音にも似た音色を奏でる。

『私は、彼女を愛してしまったのです。朗らかに笑う顔も、柔らかな声も、黒く流れる髪も、時折この肌に触れる温かな掌も、その全てが愛おしい。だから、彼女には幸せになって貰いたいと、そう思うのです。この命ひとつでそれが叶うのならば、それほどの幸福はないでしょう』

 優しさと愛しさに満ちた声が、朧と椿の耳を撫でる。木が紡いだ言葉たちに、椿は僅かに目を開いて木を見つめ、朧はそっと目を伏せた。

「愛した命を守りたい、と。ただその想いだけで、貴方はここまで耐えてきたんだね」

 そっと落とされた言葉に、木は何も言わない。だが、その沈黙が肯定の証であることは椿にも判った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る