朝影の密か 5
朧と椿が領主の家を訪れた、その日の夜。椿は毛布に
朧はいない。彼は、領主の希望で娘の近くの部屋に寝泊まりすることになった。その方が娘を守って貰いやすいと思ってのことだろう。朧の力であれば、娘との距離などほとんど関係ないのだろうが、彼は素直にその要望を呑んだ。
一方の椿は、万が一に備えて庭の木を見張るため、という名目でこの場所に留まっている。椿の我が儘を叶えるために、朧がそういうことにしてくれたのだ。
濃紺に浮かぶ欠けた月を眺め、暫く沈黙していた椿は、そうして少しの時間が過ぎたところで、背に触れている大樹に向かって、朧が領主に話した内容をぽつりぽつりと話し始めた。
領主の娘の容姿に嫉妬した木が彼女を呪っており、それにより僅かばかりの影響が生じている。呪い自体は軽いものだが、元凶を断たなければ、今のようにほんの少しの不調をきたすことがあるだろう。婚姻の話をきっかけに身体に症状が出たのは、美しい娘の更なる幸福を妬んだ木が、その怨みで少しだけ力を増したせいだ。こうやって娘の体調を悪くさせることで、祝言の邪魔をするつもりなのだろう。だから、薬で娘の症状を抑えつつ、原因である木を退治しようと思う。ただし、退治をするのは祝言の儀を終えてからが良い。婚姻が滞りなく成されれば、直近の目的を見失った木の呪いは緩み、退治もしやすくなるだろうから。
朧が説明した内容は、概ねこのような感じだった。薬師を名乗る身でこんな超常めいた話をして、果たしてどこまで信じて貰えるのか、と思っていた椿だったが、朧の用意した薬を飲んですぐに咳が収まった娘を見た領主は、朧の言葉を信じることにしたようだった。もしかすると、朧が持つ不思議な雰囲気がそうさせたのかもしれない。
なんにせよ、朧は大樹の望み通り、すべての元凶は大樹であるという説明をしたのだ。そんなことを、うまく纏まらない言葉でつたなく話せば、木は嬉しそうに小さく笑った。娘の身体が回復したことと、自分が元凶であるという話をしてくれたことに、感謝しているようだった。
朧は娘と領主を不安にさせないようにと、彼女に出ている症状や木の呪いが大したものではないことを強調したが、実際のところは、眉を顰めたくなる程度には、彼女を呑み込もうとしている影は濃かったという。
そのことを大樹に伝えれば、大樹はそうでしょうねと言った。
『それ故に、この身に受け止め続けることが叶わなかったのですから。……けれど、あの美しいものの薬で、影を散らすことができたのですね』
安堵したようなその言葉に、椿はいいえと返した。
「薬は、実はただ茹でた小麦を丸めただけのものなのです。朧さんは薬師でいらっしゃいますが、あまり薬を使うことはなくて……」
『ほう、そうなのですか?』
「はい。勿論、薬で人を助けることもあるのですが、朧さんが率先して手を貸そうとする事態は、大体が薬では解決できないようなものなので。今回も、朧さん自身のお力で、お嬢さんに結界のようなものを張ったのではないかと思います」
朧は自身がどのような力でどういう措置をしたのかについて、全くと言っていいほどに説明してくれないから、正確なところは椿にも判らない。だから、結界というのはただの憶測だが、恐らくあながち間違いではないだろう。
『なるほど。しかし、あれらを退けることができるとは、あのお方はやはり相当な力の持ち主なのですね』
「僕にはよく判りませんが、そう、なのでしょうね」
どこか歯切れ悪くそう言った椿に、大樹は少しだけ沈黙したあとで、そっと囁くような優しさで言葉を落とした。
『私を恨んでいますか?』
「……え?」
唐突なそれに、椿が驚いて木を振り返る。
「あの、そんなことはないのですけれど、……どうしてそう思われたのでしょう。何か、失礼なことをしてしまったでしょうか?」
困った顔でそう言った椿に、木はいいえと答えた。
『ただ、とても心配そうだったので』
「心配?」
『あの美しいもののことです。あのお方に、理の外にあるという命を継ぎ足す行為をさせてしまったこと、恨んでいるのではないかと』
言われ、椿は一度瞬きをしてから、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。貴方はただ望んだだけで、それを叶えると決めたのは朧さんです。ですから、貴方を恨んだりなどしません。……確かに、朧さんが心配でないと言ったら嘘になりますが、朧さんは大丈夫だと仰ってくれました。それなら、僕は頑張ってそれを信じてみようと思うのです」
『けれど、そもそも私が願わなければ、あのお方がそれをすることもなかった』
木の言葉に、椿は少しだけ困った笑みを浮かべた。
「言わなくとも、心で願っているのであれば、朧さんはそれに気づいて手を差し伸べたかもしれません。そういう方なんです」
言いながら、椿が濃紺の空を見上げる。
「……朧さんは、誰かを助けるのが生きがいなのだと、そう仰っていました。でも、それは優しさではないと。ただ、自分の存在が判らなくなってしまうから、誰かの役に立つことで存在意義を得ているだけなのだと。……だからきっと、貴方が願いを口にしなくたって、朧さんはこうしていたのではないかと思います」
そう言った椿の声には、ほんの僅かに深更の静寂が滲み出ていた。まるで、隠し通そうとして失敗してしまったような、そんな色合いだった。
『……貴方は、あのお方に恋をしているのですね』
慈しみと優しさが溶かし込まれたような、そんな音が鼓膜を叩き、椿は目を見開いて大樹を振り返った。黒く滲む木肌が、しかしどうしてか脆くも力強い暖かさを持って椿の目に映る。
「…………はい、お慕いしております」
そっと目を伏せ、椿はそう呟いた。久方ぶりに口にするそれは、心の奥を軽くする一方で、鉛のように沈みこむようでもあった。
そんな椿を見守るように、大樹がそっと葉を揺らす。
『恋をするのは、つらいですか?』
「……いいえ。僕は、あの人を想えて、幸せだと思っています」
紛れもなく本心から、椿はそう口にした。だが椿の返答に、大樹は何も言わない。それはまるで、先に続く言葉を待っているようだった。
だから、だろうか。きっと、だから、椿は思わず、ぽつりと零してしまった。
「…………けれど、」
口の端から溢れる音が、ずっと溜め続けていたそれが、ひと雫の朝露が滑り落ちるのと同じように、椿の唇から滴った。
「……僕はまだ、貴方のようにはなれません」
ただ、恋をした相手のことだけを思い、相手のためだけに全てを投げうつ。報われることなど望まず、その行いを知らせることはおろか、己の存在すら伝えることをしない。
それはまるで、想いの極致のようだと椿は思った。大樹が抱く想いに比べれば、椿の精一杯のそれなど、幼子のままごとのようだ。
いつか椿も、この大樹のようになれるのだろうか。この大樹と同じように、同じくらいの強さで、朧を想うことができるのだろうか。そして、椿がそこまでの想いを向けることができたら、朧が抱えるあの孤独を、ほんの僅かでも癒すことができるのだろうか。
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