朝影の密か 2
突然の来訪にも関わらず、朧と椿は拍子抜けするほどにすんなりと屋敷の中へ通された。ほとんど諸手を挙げて歓迎されるような有様だったので、薬師とはいえ見ず知らずの旅人をここまで有難い様子で招き入れるということは、件のお嬢さんのことで本当に困っているのだろうな、と椿は思った。
二人は女中に導かれて、日光焼けの見えない綺麗な畳が敷かれた応接室に通された。そこで、勧められるままにお茶とお茶菓子に手をつけていると、襖が開いて初老の男と若い女が入室してきた。
どちらも、華美ではないながらも上質な着物に袖を通している。恐らくは、この二人が領主とその娘なのだろう。
そんな椿の考えは正しかったようで、男は自らを領主であると言い、傍らの女を娘だと紹介した。
「なんでも町の人間から娘の話を聞き、旅の途中だというのにわざわざご足労くださったとか。いや、本当に有難いことです」
「いえ、特に急いでもいない旅ですから」
朧はそう言って微笑んだが、領主はやはり恐縮した様子で礼を述べてきた。
領主という立場である以上、彼は朧や椿などよりもよほど地位がある人間だ。だというのに、あまりそれを感じさせない人だな、と椿は思った。屋敷の使用人にも穏やかな態度であったし、子供にしか見えないだろう椿に対しても、領主は敬語を崩さなかった。町の人々が口々に言っていた通り、本当に人柄の良い男なのだろう。少なくとも椿には、彼が誰かから怨みを買いそうには思えなかった。
では娘の方が酷いのかと言うと、そんなこともない。小さな花のような可憐さを思わせる彼女は、やはり朧にも椿にも柔らかな敬語で接してくれたし、使用人に対しても気遣うような面を見せていた。
無論、朧と椿という部外者の目がある場だ。そういった外向きの顔を見せている可能性がないとは言えないが、領主と娘のそれらは、上辺だけの演技であるとするにはあまりにも自然な動作で、少なくとも椿には、二人の行動がこの場限りのものであるようには思えなかった。
「私の持っている薬で対処できるものかは判りませんが、一度お嬢様の症状をお聞かせ願えますか?」
「それはもう、勿論でございます」
朧の申し出に頷いた領主が、少し後ろに控えていた娘を自分の隣に招いた。
「町で噂を聞かれたかもしれませんが、三日後に控えている祝言を前に、娘の容体が少々芳しくなく……。…………大きな声では言えないのですが、夜になると、肺を患ったかのような咳が出るのです。それがかれこれ半年も続いており、医者に診せても良くなるどころか悪化しているようで……。とうとう医者も匙を投げる有様で、今は気休め程度の咳止めを処方して貰っているのですが、それも効果があるようには思えません」
「なるほど。……咳が出るのは夜だけでしょうか」
朧の問いに、領主が頷く。
「はい。それもまた、医者を悩ませる現象でして。夜にだけ出る乾いた咳など、聞いたことがないと」
「咳が出始める頃合いと収まる頃合いは一定ですか?」
その問いには、娘の方が口を開いた。
「私が把握している限りでは、日の入りを境に咳が出始めて、日の出と共に止む印象です。……その、本当に一致しているかどうかまでは、確証がないのですけど……」
おずおずと言われたそれに、朧は娘の方を見て微笑みを返した。
「いいえ、とても貴重な情報です。どうも有難うございます」
そう礼を述べた朧に、領主が縋るような目を向ける。
「こういった種類の咳をご存じで?」
「私の知識にあるそれとお嬢様の病とが同じものかどうかは判りませんが、そういう特殊な病状を伺う機会は、少なくはありませんよ」
その言葉に、領主と娘が目に見えて安堵したような表情を浮かべる。
「ああ、本当に有難い。どの医者も薬師も、こんな症状は聞いたことがないと言うばかりで、ほとほと困っていたのです。……それで薬師様、娘の病は治せるのでしょうか」
「その前にもう一つ。これも町で伺った話なのですが、なんでもお嬢様の病の原因は、木の呪いであるとか」
言われ、領主は顔を曇らせて頷いた。
「ああ、やはり町で噂されておりましたか。……お恥ずかしい話なのですが、
「今から切る、というお考えにはならないのですか?」
「それは、……つい先日、あの木を庭師に見て貰ったところ、ひと月前に見たときにはそんな兆候などなかったのに、重度の根腐れを起こしている、たったひと月でこんなにも酷い状態になるなど有り得ない、と言われて。急いで処置を施して貰ったのですが、まったくと言っていいほどに効果がなく、もうほとんど死にかけのような状態だそうです。そんな木が娘を呪っているとなると、まるで道連れにしようとしているように思えてしまって……。なので、今更切り倒すのも怖くなってしまったのです」
そう言って俯いた領主を見てから、朧は庭に見える大樹に視線を投げた。
先祖代々大切にしてきたというだけあって、立派な大きさの木だ。きっと、緑を湛えていた頃は、広い庭を美しく彩っていたことだろう。だが、黒く染まり枯れ枝のような姿を曝している今では、最早見る影もない。
「三日後に祝言を挙げられると伺いましたが、お嬢様の病状が良くなるまで延期する、というのは?」
「それは、勿論考えたのですが……」
そこで領主は言い淀んだが、代わりに娘が声を上げた。
「私が、延期はしたくないと我が儘を言ったんです。三日後は亡くなったお母さまの命日だから、どうしてもその日が良いって」
婚姻相手は体調が良くなるまで一年でも二年でも待つと言ってくれたが、咳が出るという理由だけで一年もの延期を決めるのは憚られたのだと、娘はそう言った。
その後も少しだけ続いたやり取りを通し、領主の側の事情をある程度把握したところで、朧は娘の容体の確認に移った。と言っても、大掛かりなことは何もしていない。朧がやったことと言えば、少しだけ娘の喉に触れたことと、あとはひたすら服の上から彼女をじっと見つめたくらいだ。
恐らくこれまでの医者や霊媒師、祈祷師などとはまるで違うその様子に、領主は随分と不審そうな顔をしたが、朧は気にせず彼なりの診察を続けた。
「……なるほど」
診察とは言い難い診察が始まってほんの少しだけ時間が経った頃合いで、朧はそう呟いた。その言葉に、領主が身を乗り出さんばかりの勢いで声を上げる。
「何かお判りですか!?」
「ええ、そうですね。概ねのところは」
「娘は! 娘は良くなるのでしょうか!?」
半ば叫ぶような問いに、朧はこくりと頷いて返した。
「根本的な解決を図るには、もう少し状況を確認する必要がありますが、ひとまず祝言に間に合うように症状を抑えることはできるでしょう」
「おお……!」
感極まった様子で領主が娘を見やれば、娘もまた酷く安堵したような顔で父を見つめ返した。
そんな二人に向かい、ただ、と朧が続ける。
「言った通り、症状の緩和だけでは根本的な解決にはなりません。その方法を探るためにも、お庭にあるあの木を見させていただいてもよろしいでしょうか」
「それは勿論構いませんが、……その、……やはり、あの木が原因なので……?」
そう言った領主の顔には判りやすく、薬師が治せるのならばただの病だろうに、どうしてそこであの木が出てくるのか、と書いてある。そんな怪訝そうな領主に向かい、朧は静かな笑みを返した。
「それについて、今から確認しようと思っているのです」
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