水も滴るなんとやら【コミカライズ記念SS】

※コミカライズ記念の番外編です。

※時系列は第2章の終わり、イスタ村襲撃事件のあとくらい。



* * * * *





 ティルヴァーン邸の庭の一角に作られたフィオナ専用の花壇には、チェネットの黄色い花が綺麗に咲いている。黄色い花が綿毛のようにふわふわしていて、フィオナのお気に入りの花だ。

 花壇の端には三分の一ほどの空いたスペースがあり、フィオナはそこへ先日買ってきたばかりのルルミュアの種を撒いている最中だ。


 ルルミュアは蒼と白の花びらを咲かせる、珍しい花だ。きっとヴィクトールも実物を見たことはないのかもしれない。花が咲く頃にヴィクトールと一緒に花壇を眺められたら、それはきっととても穏やかであたたかい時間になるのだろう。

 そんな未来を無意識に想像してしまい、フィオナの頬がほんのりと朱に染まる。誰もいないのに何だか急に恥ずかしくなって、フィオナは少し慌てたように花壇の前から立ち上がった。すぐそばにいたルルが、青い目をくるんと開いて驚いている。


「あっ、ごめんね。ルル」

「きゅーぅ?」

「今から水を撒くの。濡れるからこっちにおいで」

「きゅっ!」


 花壇近く水汲み場には、細長いホースが取り付けられている。しろがねに所属する魔術師が開発したもので、ホースの先に付いている栓を回すと水が直接噴き出す仕組みになっている。これがあれば何度もじょうろを使って、花壇と水汲み場を往復する必要がない。

 フィオナが家にいる頃はじょうろで水やりをしていたが、倍以上の広さを誇るティルヴァーン邸の庭にはこのホースが必要不可欠だ。ここに来た頃はじめて見たホースにフィオナは感動し、今も水やりする時はわずかに心が躍った。


 ホースを手に取り、栓を回す。けれど、いくら待っても水はちっとも出てこなかった。


「あれ?」


 おかしいなと思いつつ振り返れば、長いホースを体に巻き付けて遊んでいるルルの姿が目に映った。


「わー! ルル、だめだめ! 穴が開いたら大変!」

「きゅ? きゅいっ、きゅー!」


 慌ててホースを放り投げ、フィオナはルルの方へと駆け寄った。いくら子竜でも、ルルの手足には立派な爪が生えている。高価な魔法具であるホースを壊してしまっては大変だ。

 けれど焦るフィオナの声に褒められたと勘違いしたのか、ルルは更に上機嫌でホースを体に巻き付けたまま地面をゴロゴロと転がりはじめた。


「ルルっ! 待って、動かないで。そう! そのまま!」

「きゅん!」


 やっと止まってくれたルルの体を持ち上げて、ぐるぐるに絡まってしまったホースをほどいていると、屋敷の方からヴィクトールが歩いてくる姿が見えた。フィオナの叫び声に、慌てて駆け付けてきてくれたのだろうか。少しだけ表情が硬い気がする。


「フィオナ! 何かあったのか!?」

「団長さん。あっ、だ、大丈夫です! ルルがちょっといたずらしちゃって……」


 言い終わる前に、ルルの体に巻き付いていたホースがほどける。と同時に、それまでせき止められていた水が一気に流れ、細いホースが蛇のように荒れ狂った。その先にいたのは――。


「ぶへぅっ!?」

「団長さんっ!! わぁぁぁぁ! ごめんなさいっ!!」


 地面に離したルルが再びホースで遊び始めたので、ヴィクトールを攻撃する水の勢いが弱まった。その隙に慌てて駆け寄ったフィオナだったが、びしょ濡れのヴィクトールを拭こうにも、手元には土で汚れたタオルしかない。エプロンはまだマシだったが、さすがにエプロンでヴィクトールの顔を拭くのはためらわれる。

 どうしたものかとオロオロしていると、ふっと笑う声がして……顔を上げたその先で、濡れた前髪を掻き上げて微笑むヴィクトールと目が合った。


「君に何もなかったのなら、それでいい」


 そう優しく告げるヴィクトールに、フィオナは思わず息を呑んで硬直してしまった。

 水も滴るなんとやら。ただでさえ整っている顔に、水濡れという艶めく効果が付与されてしまっている。ホースからあふれたのはただの水だというのに、まるで聖水みたいにキラキラと光って見えるから不思議だ。

 濡れた前髪の先から滴り落ちる雫が、ヴィクトールの肌をゆっくりと滑り落ちていく。いつもはきっちりと制服を着込んでいるのに、幸か不幸か今日に限って薄手のシャツ一枚。しかも水に濡れてべったりと張り付いているせいで、その下に隠された体の線が容易に想像できてしまう。おまけになぜかシャツのボタンが三つほど開いているので、濡れてなまめかしい胸元がちらりとのぞいて、もうフィオナはどこに目をやっていいのか軽いパニック状態に陥ってしまった。


「だっ、だんちょ、さん! ダメです! 色気がほとばしってます!」


 自分から駆け寄ってきたのに、フィオナが逃げるように後ずさる。その声に反応したルルが動いた拍子に、前足でせき止められていたホースの水が再び勢いよく噴き出した。ホースの栓を締め忘れたことに気付いた時にはもう遅く、今度はフィオナが荒れ狂う水の洗礼をまともに受けてしまった。


「きゃあっ!」

「フィオナ!」


 咄嗟にヴィクトールが腕を引いてくれたものの、既に二人ともびしょ濡れだ。

 ポタポタと髪の先から滴る雫が睫毛にあたってくすぐったい。リズミカルに頬を打つ水滴はまるで転がり落ちる楽しげな音符のようで。

 再び重なり合った視線を合図に、どちらからともなく笑い出した。


「ふふ……びしょ濡れですね」

「まったく、ルルのいたずらには困ったものだな」

「元はといえば私がホースの栓を締め忘れたのがいけないんです。すみませんでした」

「今日は少し暖かいから、水に濡れるくらいがちょうどいい」


 そうフォローしてくれるヴィクトールの優しさはいつも心地がいい。穏やかに降り注ぐ陽光のようにあたたかくて、水に濡れているというのにフィオナの体はぽかぽかと熱を持ち始める。それは眼前にさらされた、シャツの張り付いたヴィクトールの逞しい体のせいでもあって。

 ほんのりと色付いたフィオナの頬に、ヴィクトールがわずかに目をみはった。


「フィオナ? 少し顔が赤いぞ。濡れたせいで熱が出ているのかもしれないな」

「い、いえ! 大丈夫です。そんなにすぐ熱は出ませんし、体はいたって健康ですからっ」

「しかしこのままでは風邪を引いてしまう。屋敷に戻って濡れた服を着が……え、どぅっふ!」


 突然奇声を上げて、ヴィクトールが石のように硬直した。どうしたのかと見上げれば、フィオナよりも数倍顔を赤くしたヴィクトールが、挙動不審に視線を上の方へ向けている。


「団長さん?」

「フィ、フィオナっ。あぁー……う、ぅん……その、だな。えぇと……み、みえ……」


 いまいち要領を得ない呟きをくり返しながら、ヴィクトールは時々唇を噛んで何かに耐えているようだ。瞼はぎゅっと閉じられていて視線が重なることはないのに、それでも空を仰いだままフィオナを一向に見ようとはしない。何がどうなったのか困惑するフィオナだったが、ヴィクトールの震える指先が自身の方を指差せばさすがに理解が及んだ。


 水に濡れてシャツが肌に張り付いているのはヴィクトールだけではないのだ。

 ハッとして視線を落とせば、濡れた白いシャツにうっすらと下着の線が透けて見えている。


「きゃあっ!」

「だっ、大丈夫だ! 私は何も見ていないっ。このまま目を閉じているから、君は早く屋敷へ」

「ご、ごめんなさいっ。ちょっと失礼します!」

「何か身を隠すものを……。そうだ、私のシャツを羽織っていくといい」

「わぁぁっ! 脱がないでくださいっ。逆にいろんな意味で危険です!」

「しかしそれでは君が好奇の目にさらされてしまう」

「ここは団長さんのお屋敷ですよ? 変な人なんているはずないじゃないですか」

「しかしだな……君の姿を見てよこしまな思いを抱く者がいないとも限らない。私とて理性を保つのがせいいっぱ」

「あれ? フィオナ様……と、旦那様? 何やってんですか?」


 ヴィクトールの言葉を遮って聞こえたのはガーフィルの声だ。竜舎の方へ行く途中だったらしく、通りがかった際に水のあふれるホースと遊んでいるルルを見かけて駆け付けてきたようだ。

 ガーフィルの登場に、ヴィクトールがシャツを脱ごうとする手をやっと止めてくれた。濡れた裸体(上半身)を見なくて済んだとホッとしたのも束の間、次の瞬間フィオナは物凄い勢いでヴィクトールに引き寄せられ、そのままぎゅううううっと強く抱きしめられてしまった。


「だ、団長さん……っ!?」

「見るなっ、ガーフィル! いまフィオナを見たらお前に罰を与えなければならない……かもしれない!」

「えぇっ!? 何ですか、それ! 理不尽ですよ」

「いいからお前はすぐにここから離れろ! フィオナを見ることは禁ずる」

「そんなに独占欲丸出しにしなくても、誰も旦那様からフィオナ様を奪おうなんて思ってませんよ。でも、そうですね。イチャつくなら、もう少し人目のないところでやっていただけると助かります。それじゃ」


「ルルは連れていきますね」と、余計な気を回してガーフィルが去っていく。足音が完全に消えてしまっても体を抱くヴィクトールの腕の力は弱まらず、フィオナはどうしていいかわからずにただ頭の中がぐるぐると混乱していくばかりだ。


 今までも抱き上げられたりして、体の触れ合いはあった。けれど濡れた体同士の密着はそれの比ではなく、水を含んだ服は冷たいはずなのに触れ合った箇所からじんとした熱が次から次に生まれてくる。

 ぎゅうっと抱きしめられたせいで、フィオナの顔はヴィクトールの胸に押し付けられている。そこから聞こえる鼓動はフィオナ以上に早鐘を打っていて、ヴィクトールも同じように動揺しているのだと思えばほんのりと恥ずかしさの奥にかすかな喜びが芽を出した。


「だ、団長さん……あの」

「よ、よしっ! このまま屋敷まで行こう。そうすれば君の姿を見られないで済む」

「えぇっ!? そっちの方が恥ずかしいです!」

「しかしだな……濡れた君を他の者の目にさらすのだけは避けたい。それに歩いているうちに……その……気持ちも落ち着くだろうから、な」

「お、落ち着きますかね?」

「少なくとも私の体は落ち着くと思う。だからフィオナ、いいか?」


 何か耐えるようなせつない声音で「いいか?」と問われてしまい、別のあれやこれを想像してしまったフィオナの喉がヒュッと声を詰まらせる。それを承諾と受け取ったヴィクトールがゆっくりと歩き出せば、フィオナはもう彼に付いていくしかなかった。


 その後、抱き合ったまま屋敷の中をカニ歩きする二人の話は、使用人たちの間でしばらく噂になったとかならないとか。






♦︎•♣︎•━━━━

竜騎士さまとはじめるモフモフ子竜の世話係

4月22日にコミックライドアイビー様にて配信開始となります!

ヴィクトールとフィオナはもちろん、ルルやエスターシャなどの竜も素敵にデザインしてくださっているので、ぜひぜひ配信を楽しみにお待ちくださいませ。


そしてよければ感想など頂けると……大変うれしく思います。

皆さんの応援が何より力になりますので、また配信が始まりましたら宣伝&告知させていただきますね。


竜騎士をどうぞよろしくお願いいたします!

                      ━━━━•♠︎•♥︎



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