第36話 ぼくにまかせろ
風の匂いが変わった。
少し埃っぽい乾いた空気に目を開くと、フィオナは荒れ果てた石造りの小部屋にいた。部屋と言っても使われている様子はまるでない。石壁や天井は所々が剥がれ落ちており、わずかな隙間から生えた雑草が蔓をいっぱいに伸ばしている。
窓の用途で作られた四角い穴から見えるのは、どこまでも続く茶色い荒野だ。遠くに砂埃と、空を飛ぶ黒い影が見える。
「セレグレスさん、ここは……?」
「サントレイルに点在する遺跡のひとつです。美しい異国の歌姫が捕らわれていたという説もあるので、
そういうことを聞いたつもりではなかったが、セレグレスはどうでもいい遺跡の説明を延々と続けている。屋敷に来た時はただならぬ雰囲気だったのに、今は焦った様子がまったくない。ヴィクトールが瀕死だというのに、フィオナに向ける表情は笑顔だ。
「この部屋は塔の最上階なので見晴らしがいいでしょう。窓が取り付けられていないので、うっかり下に落ちないように気をつけて下さいね」
「セレグレスさん! あのっ! そんなことより、ヴィクトールさんは無事なんですか!? 早くヴィクトールさんのところへ連れて行って下さいっ」
少し語気を強めたフィオナにわざとらしく肩を竦めて、セレグレスは窓の外を指差した。
「あそこに砂埃が立ち込めているのが見えるでしょう? ヴィクトールはそこにいますよ」
「え?」
「エイフォンが薬で操った飛竜を連れて来たので、蒼は皆でその相手をしています。もちろんヴィクトールの指揮下で」
「……で、でも……瀕死、なんじゃ……」
「あぁ、すみません。嘘です」
「……っ!」
いつもと同じ感情の見えない笑みを浮かべたまま、セレグレスが心のこもらない謝罪を口にする。フィオナをまっすぐに見つめる青い瞳。その色が氷みたいに冷たく見えて、フィオナの背筋がぞくりと震えた。
「あなたを連れ出すための、嘘ですよ」
強調するように再度同じ言葉を告げたセレグレスが、不意にフィオナの首筋に手を伸ばした。イスタ村での出来事が脳裏によみがえり、その記憶は一瞬だけフィオナの体を金縛りにする。その隙にセレグレスの指が掠め取ったのは、転送魔法の組み込まれたネックレスだ。
ぷつん、と音を立てて鎖が引き千切られ、フィオナの唯一の脱出手段が奪われる。
「すみませんが、すべてが終わるまで、これは預からせて頂きますね」
「ま……まって、……待ってください。セレグレスさん。どういうことなんですか? ネックレスを返して下さい。それがないと私……」
「あなたにはここにいてもらわないと困るんです。大丈夫。ここにいる限り、僕はあなたを傷付けない。だからあなたも僕を信じ……られるわけありませんか」
自身の発言に嘲笑しつつ、セレグレスはフィオナから奪ったネックレスを胸ポケットにしまい込んだ。
「では僕は信じなくてもいいので、フィオナさん。あなたはあなたが信じたい者を信じて待つといいでしょう。では、僕は仕事がありますので……これで」
「待って……っ、セレグレスさん!」
追い縋るフィオナの手をすり抜けて、セレグレスが足早に部屋から出て行く。重い音を響かせて閉まった扉は何度叩いても開くことはなく、フィオナは狭い塔の最上階にルルと一緒に閉じ込められてしまった。
***
――騙されたのだ。
そう確信すると、胸の奥がずしんと重くなるのを感じた。
元々掴み所のない人だとは思っていたが、まさかヴィクトールが話していた内通者がセレグレスだったとは想像もしていなかった。セレグレスはヴィクトールの幼馴染みで、
そうだとしても、フィオナにはそれを知る術はない。知ったところで何かが変わるわけでもないし、フィオナはこの塔に捕らわれたままだ。
唯一の扉は魔法で施錠しているのか、ぼろぼろの見た目のわりに押しても引いても、力一杯体当たりしてもびくともしなかった。石壁にぽっかりと空いた四角い穴から外を見てみたが、壁伝いにどこかへ渡れるような場所もない。ましてや最上階だ。飛び降りて、無事でいられる高さではない。
「どうしよう……このままじゃ」
「るぅーるぅ?」
焦るフィオナを落ち着かせようとしているのか、肩に乗ったルルが頭をすり寄せてくる。生えかけた角が、ちょっとだけ頬に食い込んで痛い。けれどその鈍い痛みのおかげで、フィオナは少しだけ微笑むことができた。
生理的に口元が緩んだだけの、儚い笑顔。けれどそれは、不安に押し潰されそうなフィオナの心に、ほんのわずかな余裕を生む。
緩んだ口元をきゅっと結んで、フィオナはルルを抱き上げた。
「ルル、お願いがあるの」
目線を同じにすると、まだ金色のままの瞳がフィオナを見つめる。聖竜化が随分と進んでいるからなのか、フィオナが感じる不安や恐怖は、今のルルにとって何の問題もなさそうだ。
ルルと一緒に壁際に立ち、フィオナは開いた穴から砂埃の見える方角を指差した。
「あの場所にヴィクトールさんがいるの」
「きゅぅ?」
「あそこで私たちを守るために戦ってくれているのよ」
言葉が分かるのか、ルルは砂埃の見える方角をじっと見つめている。敵味方の入り乱れる戦場は、きっとフィオナの想像以上に激しく恐ろしい光景が広がっているのだろう。
フィオナにはこの選択が正しいのか分からなかった。けれど唯一の光明に縋りたい気持ちもあったし、うまくいかなくてもせめてルルだけは逃がしてあげられるかもしれないと、そう淡い期待を胸に抱いたのだ。
「ルル。あそこに行って、ヴィクトールさんを……呼んできてくれる?」
「きゅ?」
「本当は危険な場所にあなたを行かせたくない。……でも、いま頼れるのはあなたしかいないの」
きゅっと小さな体を抱きしめると、応えるようにルルがフィオナの頬をぺろりと舐める。
「ルル……」
「きゅっ! きゅいっ、きゅー!」
「ぼくにまかせろ」とでも言っているのか、ルルは白い羽を大きく膨らませて、金色の目をキリッと鋭く輝かせた。
「ありがとう、ルル。でも危険だと思ったら、すぐに逃げて。ここへは戻らなくていいわ」
「きゅぅー?」
「あと、これを持っていって」
フィオナは左手の薬指から指輪を外すと、それをルルの生えかけの小さな角に引っかけた。少し首を振っても落ちないことを確認してから、フィオナはルルの顔を両手で包み込む。そのままこつんと額を当てて、まるで祈りを込めるようにほんの数秒目を閉じて深く息を吸い込んだ。
「ルル、だいすき」
「きゅーん!」
「気をつけてね。ヴィクトールさんを……お願い」
「きゅっ!」
ぱたぱたと翼を羽ばたかせて、ルルが窓から外へ飛び立っていく。ここから戦場まではかなり距離があるようだが、今はルルを信じて待つしかない。
飛ぶスピードも最初に比べて随分と速くなった。ルルの体はあっという間に小さな影になり、やがてフィオナの目では追えないくらいに空色と同化して見えなくなってしまった。
「ルル。……ヴィクトールさん……」
ルルまでいなくなった部屋の中は、先ほどよりもしんとしていて静寂が重い。吹き抜ける風は悲鳴のような音を響かせて、フィオナの心により不気味な不安と寂しさを植え付けるようだ。
両手をぎゅっと握りしめることで、押し寄せる恐怖に必死で抗った。唇を噛み締めて見つめる先は、ルルの消えた空の向こう。ヴィクトールがいるであろう戦場の方角を、フィオナは祈るようにいつまでも見つめていた。
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