第35話 うそ、ですよね?

 ティルヴァーン家は代々竜騎士を輩出している名門で、蒼竜に認められ団長の職に就く者も多い。父も竜騎士団長であったため、幼少期から竜と触れ合う機会の多かったヴィクトールもまた自然と同じ道を歩むこととなった。


 最初からスタートラインが違うことは自覚していた。それによって自分がよく思われていないことも。若くして蒼竜エスターシャに認められたことが更に拍車をかけ、陰口だけではなくあからさまな嫌がらせを受けたこともあった。

 もちろん蒼竜との絆に、人間の思惑が絡むことはない。それでも一度根付いた嫉妬や不満は簡単に消せるはずもなく、ヴィクトールへの妬みは日増しに膨れ上がっていった。


 根が真面目なヴィクトールは、基本人はわかり合えると信じている。妬まれ、陰口を叩かれても鍛錬を怠らず、常に誠実であるよう心がける。そうしていれば、いつか必ず認められる日が来るのだと。

 そうやってがむしゃらに身体を動かしていた時に事件は起き、ヴィクトールは無実の罪で一度投獄されたことがある。


 そんな彼の窮地を救ってくれたのが、幼馴染みであるセレグレスだった。


『真面目に頑張るのがあなたの美徳でもありますが、突き進むだけではなく、少し落ち着いて周りを見る目も養った方がいいですよ。でないと、また知らぬ間に足をすくわれてしまいますからね』


 自分を陥れた者たちが国外追放になったことを知ったのは、ヴィクトールが無事に釈放されたあとのことである。何をされたのかは知らないが、セレグレスの姿を見るなり、皆逃げるように国を去って行ったという。



 ***



「……ヴィク……。ヴィク!」


 はっと意識を戻したヴィクトールの眼前には、乾いた風の吹く荒野が広がっていた。わずかな緑と朽ちた遺跡が点在するサントレイル。隣国エイフォンとの国境である。

 茶色の地平線の一部が黒く見えるのはエイフォンの軍勢が陣取っているからだ。その上空には大きな影が幾つも飛翔している。

 ――飛竜だ。数はこちらの倍はあるだろうか。人に懐かない飛竜を密猟という形で奪い、軍事用として使役している現状が目の前にあった。


「ちょっと、大丈夫? ぼんやりしちゃって」

「ゴルドレイン……。あぁ、すまない」

「なぁに? フィオナちゃんのことでも考えてたの?」

「そうではないのだが……、いや、そうかもしれない」

「どっちよ」

「……無事に帰らねばと思ってな。何かわからないが、嫌な予感がするんだ」


 ヴィクトールの不安を助長するように、敵陣の方から飛竜のけたたましい鳴き声が響く。どこか苦しそうな声に聞こえるのは気のせい、ではないのかもしれない。

 エイフォンは特殊な魔法薬を使って、飛竜を無理矢理従わせているらしいとの情報が入っている。絆を結んで乗せてもらうメルトシアの竜騎士とは違い、エイフォンは力で飛竜を従わせているのだ。そんな国にルルとフィオナが攫われでもすれば、どんなにひどい目に遭うか想像しなくても分かる。それだけは何としても阻止しなくてはならない。


 出陣の朝、送り出してくれたフィオナの儚い笑みを思い出す。不安で仕方がない気持ちを抑え、気丈に振る舞おうとするフィオナの健気さに胸を打たれた。ヴィクトールが撫でることにようやく慣れてきたルルの、少し不機嫌な顔ですらもう恋しく思ってしまう。


 けれど。

 あの二人を守るのだと心に強く思えば思うほど、なぜかヴィクトールの脳裏にはセレグレスの一言がちらつくのだ。


『足元をすくわれてしまいますよ』


 そう言って意味深に笑う幼馴染みの顔が、ヴィクトールの胸に知らずと暗い影を落としていった。



 ***



「フィオナ様! 蜂蜜入れすぎです!」


 アネッサの声にはっと顔を上げると、ティーカップから紅茶が溢れ出るところだった。蜂蜜の瓶を傾けたまま、ぼんやりしていたらしい。紅い水色すいしょくの底が蜂蜜で澱んで、少し濃い色に変化している。


「あっ、ごめんなさい!」


 慌てて蜂蜜の瓶を戻すと、最後の一滴がとろりと伸びてカップに落ちる。容量を超えてこぼれる紅茶は、まるでフィオナ自身の不安を表しているようだ。


「すぐに新しいのを……って、何飲もうとしてるんですか!」

「甘いものを欲しい気分なんです、きっと」

「ダメです! 病気になりますよ。甘いものならマフィンを食べていて下さい」

「……お茶、ダメにしちゃってごめんなさい」


 甘いもので気持ちを落ち着かせたいのは本当だ。でもマフィンは喉を通らない気がする。


 胸に燻る正体不明のもやもやは、ヴィクトールがサントレイルの国境へ発った二日前からだ。無事を祈って笑顔で送り出したものの、フィオナの胸にはずっと気持ちの悪い不安が居座っている。


「旦那様なら大丈夫ですよ。それに今回の遠征はエイフォンへの牽制の意味が強いですし、きっとすぐにお戻りになります」

「そう……ですね。私が不安がってちゃ、ダメですね。ヴィクトールさんを……信じてあげないと」

「その調子です」


 アネッサが淹れ直した紅茶をフィオナの前に置いたちょうどその時、部屋の扉が静かに二度ノックされた。入ってきたメイド長のイレーネは、なぜか表情が暗い。その顔を見た瞬間、フィオナの胸がどくんと鳴った。


「フィオナ様。セレグレス・サークロイ様がおいでになりました」



 応接室の扉を開くと、中に通されていたセレグレスはソファに座ることなくフィオナを待っていた。その様子からも彼が何かを急いでいることが感じられ、フィオナの胸は更にどくどくと騒がしく音を立てる。


「あのっ、セレグレスさん……何か、あったんですか」


 堪らずフィオナの方が先に聞いてしまう。セレグレスはくれないの騎士団、三番隊隊長だ。セレグレスもサントレイルの国境に赴いていると聞いていたが、その彼がなぜここにいるのか。フィオナに何の用事があるというのか。無意識に震える手を無視するように、フィオナは腕に抱いたルルをぎゅっと強く抱きしめた。


「フィオナさん。落ち着いて聞いて下さいね」


 セレグレスが何を言うのか分からなかったが、よくないことだけは感じ取れる。聞きたくないのに、それはフィオナにとって重要なことであるとも分かるから、フィオナは黙ってセレグレスの言葉を待つことしかできない。


「ヴィクトールはいま、敵の攻撃を受けて瀕死の状態です」

「……え?」

「意識があるうちにあなたに会いたいと、願っています」

「……うそ、ですよね?」

「……残念ながら」


 いつもの飄々とした感じはなく、セレグレスも眉を寄せて俯いている。それが余計に現実味を帯びてフィオナの胸にのし掛かった。


「あなたにはつらい現実でしょうが、正直あまり時間は残されていません。どうします? フィオナさん。ヴィクトールに、会いに行きますか?」


 深く考える余裕もなかった。唇は震えて声が出ないし、頭もうまく回らない。それでも心だけが急いて急いて、激しい焦燥感はフィオナの足を自然とセレグレスの方へと動かした。

 腕の中で、ルルが不安げに鳴く。その声すら遠くに聞こえるから、フィオナには制止するイレーネとヘンリウスの声が届かなかった。


「お待ちくださいっ、フィオナ様! 落ち着いて……せめて確認が取れるまで」

「すみません。時間がないので、フィオナさんは連れて行きますね」


 代わりに答えたセレグレスが、紅い瞳を意味深に揺らめかせながらフィオナに手を差し出した。その手を取った瞬間、セレグレスを中心にして床に金色の魔法陣が浮かび上がる。

 光の粒子を含む緩やかな風が魔法陣から上に揺らめき、フィオナの姿をイレーネたちの視界から完全に覆い隠していく。


「フィオナ様!」

「ごめんなさいっ。私……ヴィクトールさんに会いた」


 そこで、ぶつりと声が途切れる。

 わずかな時間も惜しいのか、セレグレスの転送魔法はフィオナの声を最後まで届けることなく、二人の姿を応接室からあっという間に連れ去ってしまった。

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