第18話 君が許すなら……
エスターシャに乗って王都リグレスへ戻ったフィオナは、真っ先にエルミーナの元へ連れて行かれた。たいした傷を負ったわけではなかったが、治療後に出されたココアを飲んでいると、また無意識に涙がこぼれてしまった。自分で思っていたよりも、心の方はかなり傷付いていたらしい。それでもココアを飲み終える頃にはだいぶ気持ちも落ち着いて、エルミーナの出してくれたクッキーを平らげるまでに回復した。
ルルの状態については宮廷魔道士ヘイデンにも確かなことは分からなかったが、フィオナの襲撃が暗黒化のきっかけになったことは間違いない。
再発を防ぐために、国王は
「でもフィオナ様が無事で本当に良かったです」
一足先に屋敷へ戻ってきたフィオナは、アネッサと一緒にイスタ村で買った荷物を広げているところである。
想像以上に事は重大だったようで、ヴィクトールはフィオナを屋敷へ送ったあと、再び城へと戻ってしまった。屋敷の前には既に
「あら? カロンの実も買ってきたんですか?」
「エスターシャに食べてもらおうと思って……。でも想像してたよりも随分と大きいんですね。わたし、最初は竜騎士団の飛竜の分も考えてたんですけど、重くてこれ以上は無理でした」
「こういう重いものを買う時は旦那様も連れて行かないと」
「お仕事の邪魔をしたくなかったんです。それにこれくらいなら私でも持てるかなって」
「フィオナ様は見た目によらず、意外と逞しいですもんね。でもそこは旦那様も甘えてもらった方が嬉しいかもしれませんよ?」
「甘える……」
そう呟けば、自然と脳裏に浮かぶのはヴィクトールに縋り付いて泣いた時のことだ。怯えて震えるフィオナを宥めてくれた手の感触は、思い出すだけでもフィオナの心を落ち着かせてくれる。
肩を掴んだ手の強さ。重なり合った紺色の瞳。抱き上げられた時のぬくもりはどこまでも優しくて、甘やかな鼓動は安堵とはちょっぴり違う色を纏ってフィオナの胸を控えめに鳴らすのだった。
***
ヴィクトールが屋敷に戻ったのは、日付が変わった後のことだった。先に休んでいていいと伝言はしていたが、執事のヘンリウスとメイド長のイレーネは帰宅した彼を玄関で出迎えてくれた。
子供の頃から面倒を見てくれた彼らの性格は分かっている。何となく起きているのではないかと予想していた通りだったので、ヴィクトールは呆れながらも胸の奥がじわりとあたたかくなるのを感じた。
「変わったことは?」
「今のところは何も。
「彼女は?」
「早めにお休みになりました。夕食も召し上がらなかったので、まだ少し動揺されているのかもしれません」
「そうか」
イスタ村で見つけたフィオナは、怯えた子供のように震えていた。いつもの朗らかであたたかい笑顔は消え、彼女の周りを彩る鮮やかな色彩が一気にモノクロへと変化していく。まさにそんな感じだった。
無理もない。殺されかけたのだ。
その場にいなかった自分が不甲斐なくて腹立たしいが、後悔してもフィオナの心の傷が癒えることはない。ならばこれから先、二度と同じことが起こらないよう、ヴィクトールはフィオナを守るのだと強く心に誓う。
「少し様子を見てくる」
階下に控えたヘンリウスたちにもう休むよう伝えて、ヴィクトールはフィオナの部屋の前に来た。ノックするか暫し迷い、控えめに二度叩く。返事がないのは寝ているからなのだろう。いつもの彼なら女性の部屋に断りもなく入ることはないのだが、今夜だけはその信念が不安に負けてしまった。
ぐっすり眠っているのなら、それでいい。少しだけ様子を見て、ヴィクトール自身が安心したかったのだ。
静かに引いた扉は開けたままで。暗い室内に、廊下の淡い光が一直線に伸びる。月明かりは闇を照らすには弱すぎて、部屋の奥で眠るフィオナの様子がここからではよく見えない。けれどわずかに身じろぎしたのか、ベッドの上で影がもぞもぞと動くのはわかった。
フィオナがちゃんと寝ていることに安心したのも束の間、出て行こうとしたヴィクトールの耳に届いたのは苦しげに響く呻き声だった。
「……っ」
思わず足が動いた。大股でベッドに近寄り、薄い月明かりを頼りにフィオナの顔を窺い見る。
声を殺して、泣いているのかと思った。
縋るようにシーツを握りしめて、体をより小さく丸めて震えている。悪夢を見ているのだろうか。眉間に皺を寄せたまま、時折首を横に振っては喘ぐように呼吸する。
「フィオナ……」
起こすべきか迷った声音は、掠れたまま絨毯に染みこんで響かない。躊躇いがちにそっと触れると、ヴィクトールの手の下でフィオナの肩がびくんと大きく跳ねた。
「だん、ちょ……さん?」
「すまない。起こすつもりはなかったのだが、君が……あまりにつらそうで、つい」
夢うつつなのか、それとも心身共に憔悴しきっているからなのか。ベッドに横たわったフィオナは起き上がる気配がなく、ただぼんやりとした目でヴィクトールを見上げている。
「大丈夫……いや、大丈夫ではないな。……うなされていた」
「……夢を見て……。でも団長さんが来てくれたので……ホッとしました」
ゆっくりと身じろぎしたフィオナが起きようとしたので、ヴィクトールはそっと肩を押してそれをやんわりと制止した。
「起きなくていい。君が思っている以上に、体も心も疲れているんだ。……色々あったからな」
「すみません」
「起こしてしまった私が言うのも何だが、眠れるようなら眠った方がいい。私はもう行くから、ゆっくり……」
「行っちゃうんですか?」
そう問われると同時に、ヴィクトールの袖がくいっと引かれた。控えめな力は、ヴィクトールが軽く腕を引くだけで簡単に離れてしまうほどに弱々しい。
深夜の部屋に二人きり。怯えて縋るフィオナに手を出す気など毛頭なかったが、仮初めの関係である自分がこの部屋に留まることは躊躇われる。
けれど、未だ燻る恐怖の名残に必死で耐えるその手を、どうして振り払うことが出来ようか。
気付けばヴィクトールは、フィオナの手を握り返していた。震える小さな手が壊れないように、そっと優しく包み込む。
「君が許すなら……眠るまで、そばにいよう」
ヴィクトールがベッドに腰を下ろすと、手は繋いだままシーツを隔ててフィオナが体をすり寄せてくる。決して柔らかくはないヴィクトールの手に、フィオナは甘えるように額を寄せた。
かすかに震えたのはヴィクトールの方で。戸惑いに揺れる瞳が重なり合う前に、フィオナの瞼が閉じられる。
「……ありがとうございます」
先ほどよりも随分と和らいだ表情を浮かべるフィオナは、それから数分も経たないうちに寝息を立て始めた。本当のところは寝惚けていたのだろう。それでもヴィクトールが手を握ってやれば、今度こそ悪い夢を見る間もなく深い眠りへ落ちていく。
白い首筋に絡みつく髪を指先でそっと払えば、うっすらと残った赤い痕が見える。恐ろしかっただろうに、彼女が案じたのは暗黒化したルルの方で、それがまたヴィクトールの胸を軋ませた。
逆らえるはずもない王命に、フィオナが頑張りすぎるのも分かる。けれども守られるべきはルルだけではない。ヴィクトールにとってはフィオナもルルと同じくらいに大切で、自身が守るべきものだと心に誓った存在なのだ。
怯える心を少しでも軽くしてやれるのならと、ヴィクトールは眠りを妨げない強さで、握りしめたフィオナの手にきゅっと力を込めるのだった。
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